[武蔵野S]不思議な感覚に陥るほどの、鳥肌モノの追い込み勝利。ワイドバッハと武豊騎手の、2014年武蔵野Sを振り返る。

派手な追い込みには、華がある。
「大外一気」
この言葉を聞いて、皆さんはどんな馬、どんなレースを思い浮かべるだろうか。

ディープインパクトの若駒S、キズナの日本ダービー、ヒシアマゾンのクリスタルC、ハープスターの新潟2歳S……。そうした芝の名レースを思い浮かべる方も多いだろう。
 
ただ、とてつもない追い込みはダートであることが多いような気がする。
芝に比べてグリップが効きづらくスピードが出にくいダートは、先行有利の傾向が強い。すると自然と先行争いは激しくなって、時にとてつもない前傾ラップを作り出す。前が止まれば当然、出番は後ろにやってくるわけで、それが衝撃的な追い込みを実現させるのである。

ブロードアピールの根岸Sはあまりにも有名だが、同じ根岸Sでもカフジテイクのそれも素晴らしいものだし、コアなファンの中にはリアルヴィジョンやウォーシップマーチ、アピールのレースなどを思い浮かべる方もいるのではないか。

私がリアルタイムで見たダートのレースの中で一番衝撃的だった末脚は、2014年の武蔵野Sでワイドバッハが披露した脚だと思う。
あのレースは、とにかく強烈だった。


 
私が初めてワイドバッハを認識したのは、2014年の羅生門Sだった。初コンビとなった武豊騎手に後方3番手からエスコートされて末脚を伸ばし見事に1着。それまでは先行することも多かったようだが、私にとっては出会ったその時からワイドバッハは追い込み馬だった。OPクラスに昇格してからは武豊騎手、M・デムーロ騎手、蛯名正義騎手とリーディング上位の騎手を背にそれぞれ4着、3着、2着。なかなか勝ち切れないものの、後方から確実に脚を伸ばす競馬で自身の地位を確立していった。

夏には再び武豊騎手とのコンビでGⅢプロキオンSに参戦。ここでも最後方から大外を回す競馬を選択したが、この時の武豊騎手はワイドバッハがこのレベルのメンバーを相手にどれだけやれるのか、脚を測る意図があったように思えた。人気通りの7着には敗れはしたが、最後方から上がり最速の末脚で0.4秒差と、力のあるところは示したと言えるだろう。
結果として、ここで骨っぽい相手に激しい競馬を経験できたことが、ワイドバッハをひと回り成長させた。
次走のエニフSでは伏兵の快走を捕らえるに至らず2着だったが、続くエルコンドルパサーメモリアルでは蛯名正義に乗り替り、雨で足抜きの良くなった馬場を上がり最速の末脚でまとめて差し切り勝ち。OP特別初勝利を記録したワイドバッハは、再び重賞の舞台へのチャレンジを決めた。

そして迎えたGⅢ武蔵野S。ワイドバッハは7番人気に支持されたが、彼までの上位人気7頭が1桁台のオッズに収まる、稀に見る混戦模様だった。
揃ったスタートからカチューシャが内枠を利して出脚良くハナをうかがい、レッドアルヴィス、トウショウフリークらが外から被せてそれを牽制する。1列下がった4番手集団も最内の1番人気エアハリファを基準に7〜8頭が凝縮して先行争いが激化する。前が速い、典型的なダートの競馬になりそうな展開だった。

カチューシャはそのままハナを譲らない。結局レッドアルヴィスが2番手、トウショウフリークが3番手に抑え、その他先行勢も落ち着いて、最後方にワイドバッハとフィールザスマートの6枠2頭が置かれて追走するという隊列に収まった。

3コーナー手前、まだペースが落ち切らないところでフィールザスマートが上がっていった。人気馬を気分良く行かせるわけにはいかないという判断だったに違いない。多少のハイペースでも前残りがあり得る良馬場のダートでは、その判断が間違いだったとは言い難い。

これによってワイドバッハは、ポツンと離れた単独の最後方に置かれた。

……いや置かれたのではなく、あえて待ったという方が正しいのかもしれない。武豊騎手は追い出しを意図的に遅らせたようだった。今ここで動いてもワイドバッハの良さを削いでしまうだけ、それなら直線に向いて、何も遮るもののない大外に出して追えば──。
プロキオンSで掴んだ重賞でも通用するという手応えと、それを実現可能にするワイドバッハの末脚が、ひとつの解を導いた。

4コーナーをカーブする。
ごった返す馬群とは対照的に、武豊騎手とワイドバッハはただ一頭だけじっくり馬群全体を見ながら、その瞬間をじっと待つ。

やはり、逃げたカチューシャの脚はそう簡単には止まらない。レッドアルヴィスが2番手からじわじわと差を詰め、その直後からはエアハリファが手応え良く伸びてくる。グレープブランデーなど先行各馬もしぶとく抵抗し、先に動いたフィールザスマートは馬群の中に突っ込んで必死に前を追う。
ワイドバッハが4コーナーを回って馬群の1番外へ持ち出された。右の肩に肩鞭が1発、気合いがつけられた。ゴーサインだ。
 
先に挙げたダートの強烈な追い込みは、明らかに前の馬とは脚の回転数が違うものがほとんどだ。ブロードアピールの根岸Sはその顕著な例で、他の馬とのピッチが全くと言っていいほど違う。しかし、この時のワイドバッハはそうではない。

──それは不思議な感覚だった。

脚の回転は前を行く馬たちとほぼ同じだが、目一杯に大きなストライドで一完歩ごとに前との差がみるみる詰まっていく。跳びが大きいワイドバッハのその走りは、東京競馬場の広く長い直線で存分にその良さを発揮した。
 
エアハリファが他馬を競り落として突き放す。
ハイペースを先行して、直線まで逃げ馬をマーク、残り200mで先頭に立って後続を突き放したのだから、エアハリファの競馬は本来であれば何一つ文句の付けようがない完璧な勝ちパターンのはずだった。

しかしこの日ばかりは、外からワイドバッハがやってくる。武豊騎手が完歩に合わせてリズムよく右鞭を振るい、それに呼応するワイドバッハが馬場の真ん中でストライドを大きく伸ばす。

ゴールまであと数完歩。ここで2頭のピッチが完全に揃った。普通なら「脚色が一緒になってしまった」と言われるところだろうが、ピッチが同じでもストライドがこれほどに違えば、どちらに軍配が上がるのかは誰の目にも明らかだった。
ゴールの瞬間、武豊騎手は右鞭を立ててにんまりと微笑んだ。
ワイドバッハの上がり3ハロンのタイムは35.7、2番目に速かったフィールザスマートよりも1秒、2着だったエアハリファより1.2秒も速いタイムで駆け抜けたのだから、それはあまりにも強烈な末脚だった。
後日、レース回顧で「こういう時ってどんな感覚なんですか?」と聞かれた武豊が「いやぁ、気持ちいいですよ」と爽やかに答えていたのが印象的だった。

武蔵野Sを制したあと、チャンピオンズC、フェブラリーSのダートGⅠでもともに上がり最速の脚を使って6着に入線したワイドバッハは、屈腱炎による1年間の長期休養もありながら2016年まで現役を続けた。
最後のレースは奇しくも武蔵野S。あの日、上がり最速を繰り出した脚はもうすでに限界だった。この日に至っては出走馬の中で1番遅い上がりタイムで、馬群の1番後ろを走り切ることが精一杯だった。

現役を退いたワイドバッハは種牡馬として海を渡り、今は中国でその血を繋ごうとしているそうだ。

日本でその産駒を見れないのは残念ではあるし、彼のそれからの情報が少ないのは寂しく思う。だが、海の向こうではきっとあの大きなストライドを受け継いだ馬たちが気持ちよく走ってくれていることだろう。願わくば、ワイドバッハ譲りの強烈な末脚をいつまでも大事に繋いでいってほしいところである。

写真:ブロコレさん(@heartscry_2001

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