我が"良き友"サクラバクシンオー。その無骨な現役時代を振り返る。

「彼の訃報」を知ったのは京都へ向かう新幹線の中だった。

2011年5月1日、京都で施行される春の天皇賞を観るため品川から新幹線に乗り込んだ。列車が動き出し、ホットコーヒーの蓋の飲み口を開いて、売店で買ったスポーツ紙をカバンから取り出す。1面は天皇賞の馬柱が大きく並び、見出しにはローズキングダムとトウーザグローリーの名。一通り目を通して中面の競馬欄を開いた時、その記事が飛び込んできた。

「サクラバクシンオー死去」

──なぜ?

呆然としながら、記事に目を通す。前日の4月30日に心不全でこの世を去ったとのこと。種牡馬としても現役を続けていた、22歳のことだった。

前年秋のクラブのツアーで会った時は、元気に種牡馬お披露目で周回していたのに……。

自身が獲れなかったマイルのG1を、息子のグランプリボスが朝日杯フューチュリティステークスで制覇したばかりなのに……。

現役時代も種牡馬時代も変わらなかった、口をパクパクさせて面倒臭そうに闊歩するサクラバクシンオーの姿が頭の中に蘇ってくる。その瞬間、新幹線に乗っていることすら忘れるほど、ぽっかり穴が開いたような気持ちで、京都競馬場へと向かった。

サクラバクシンオーが亡くなって幾年もの月日が流れた。しかし、毎年スプリンターズステークスが近づいてくると、彼の雄姿を思い出す。

1.私の"サクラバクシンオー像"

ウマ娘のサクラバクシンオーは、可愛い。

育成ポイントなどの解説を見ていたら「短距離~マイル」「スピード&パワー重視」など、現役時代の特性と合致している。そして、ウマ娘サクラバクシンオーは、かわいい。もしもサクラバクシンオーがウマ娘になった自分を知ったら、きっとあの世で小躍りして喜ぶほどではないだろうか。

──ただ、現役時代の約3年間を競馬場で彼を見てきた身としては、何となく尻こそばゆい面もある。

私の記憶の中のサクラバクシンオーは、男臭く、平成の世に昭和の香りをプンプンさせて働く、猛烈サラリーマンのような存在だ。当時CMソングが大流行したドリンク剤の「24時間戦えますか~」のキャッチフレーズが、人間になったサクラバクシンオーそのものと思えるくらい、気合いとパワーのかたまりのような馬だった。

1992年1月から1994年12月までの3年間で計21戦。途中10か月の休養を挟んだものの、コンスタントに競馬場で走り続ける姿は、競馬場で見る機会も多く、自分の職場環境にも居る同僚のような親近感さえ持っていた。

そしてもうひとつ、サクラバクシンオーの鞍上が全レース小島太騎手だったことも「男臭さ」を増幅させたのかもしれない。

サクラバクシンオーの戦績はまさに職人気質、21戦11勝でも、1400mは4戦4勝、1200mは8戦7勝。つまり1400m以下なら12戦11勝ということになる。

まさしく「自分の守備範囲の仕事は何が何でも片付けてしまう」という、大きな組織の中に必ず1人はいる、ある部門に関するスペシャリストのおじさんに見えて仕方なかった。そのくせ、頼まれたら断れず、専門外のところに首を突っ込んでは泥沼に嵌るお人好しさが、「勝率5割の名馬」という人間味溢れる一面も兼ね備えているように思われた。

困っている同僚のため、得意でもないのに入り込んで一緒に苦労し、片付いたらみんなで居酒屋に繰り出し大騒ぎする……。

私は、そんなあたたかい人物像をサクラバクシンオーに重ねて、不得意なマイル戦をいつもハラハラしながら観ていた。

2.サクラバクシンオーは恋していた?

サクラバクシンオーは、マイル戦以上になると9戦0勝2着2回の戦績。これだけスピードとパワーを兼ね備えた馬なら、古馬になったらある程度我慢できるようになり、距離の融通も利くはず。しかし現役最後の年となる6歳(現5歳)時のマイルのG1、春の安田記念とマイルCSとも、直線先頭に立ち、サクラバクシンオーの勝利パターンに持ち込みながらノースフライトにゴール前に差されて4着,2着と敗れた。

常識的には距離の壁と考えるのが妥当だと思う。しかし後方から差してきたのが安田記念、マイルCSとも牝馬のノースフライト。

直線先頭に立ったサクラバクシンオーが、差してくるノースフライトを確認すると、まるで「先頭を譲るような差され方」で2番手以下に下がってしまう……。

もしかしたら、サクラバクシンオーはノースフライトに一目惚れしたのかも知れない──ファンとして、そうした感情が湧いてきた。

1994年の安田記念。周回中のパドックで目をつけたノースフライトに直線並ばれる瞬間、彼は顔を赤らめながら「終わったらお茶しませんか?」と声をかけたのだろうか?

ノースフライトに「オジサンには興味ないわ~!」と言われたから、落胆してずるずる引き下がって行ったのだろうか?

──2頭の直線の攻防でそんなやりとりがあったのかなと想像しながら、今でも安田記念のレース動画を楽しんでいる。

 秋のマイルCSの直線は4コーナーを回って余裕で先頭。しかし直線半ばで、ぴったり付いてくるラストランのノースフライトにあっさり差されて、一緒にゴール手前まで並走の2着。

その時、並んで走っている彼の姿が凄く嬉しそうで、最後にフジノマッケンオーが迫って来た時は抜かせまいと抵抗する姿が微笑ましくさえ見えた。

ノースフライトラストランの引き立て役としてがんばったサクラバクシンオーは、去り行く彼女への精一杯の自己アピールだったのでは……と思うほどだ。

サクラバクシンオーは、ノースフライトに恋していたのに違いない。私は、そう思う。

3.サクラバクシンオーvsタイキシャトル

1990年代の短距離ホースの双璧といえば、マイルのタイキシャトル、スプリントのサクラバクシンオーだろう。この2頭は春のクラシック戦線には登場せず、秋以降のマイル、スプリント路線で頭角を現してきた馬でもある。

サクラバクシンオーの生涯成績21戦11勝に対して、タイキシャトルの13戦11勝。更にタイキシャトルは海外G1ジャック・ル・マロワ賞制覇という勲章もある。字面だけを見ていれば、タイキシャトルの方が圧倒的な格上に見えるかもしれないが、彼は守備範囲を最後まで守って1,600m以下のレース出走に徹したスペシャリストと言える。

一方のサクラバクシンオーは4歳時(現3歳時)にスプリングステークスの1800mを含む、1600mのレースに出走し4戦4敗。1400m以下は6戦5勝で、唯一の敗戦は4歳時(現3歳時)のG1スプリンターズステークス(6着)という成績だ。

古馬になってからもマイル戦にチャレンジし続け4戦して勝つことはできなかった。逆に1400m以下でG1スプリンターズステークス2勝含む6戦6勝とパーフェクト。

もし早くから適性距離を見極め、古馬になってレースを選んで出走していたら勝率は更に上昇したはずだ。サクラバクシンオーの現役時代に海外G1挑戦という選択肢があれば、1400m以下のレースに絞って海外へ目を向け、とんでもない成績を上げていたかも知れない。

いずれにせよ、この2頭は2000mのG1チャレンジに見向きもせず、自分の適性範囲を守って名馬の称号を得た2頭である。そしていつまで語れる「記憶」を残してくれた名馬として、2頭とも大好きな名馬だ。

「ゼネラリスト名馬からスペシャリスト名馬へ」

デビューした全馬がとりあえずクラッシック3冠を目指す時代から、血統、育成~デビュー後の特性を見極め、マイラーにもスプリンターにも更にはダート戦線にも選択肢が広がる時代。少なくとも彼らが道を切り開き体系を確立した事で、2000年代に入ってロードカナロアやカレンチャンなど短距離のスペシャリスト名馬が次々誕生する環境が出来上がったのだと思いたい。

4.サクラバクシンオーのスプリンターズステークス

サクラバクシンオーはスプリンターズステークスに1992年~1994年の3年連続で出走している。彼の出走したスプリンターズステークスはすべて現地観戦する機会に恵まれたが、当時の開催は12月。師走の中山競馬場は半端なく冷え込む中での観戦となった。下半身の冷え込みに耐えながら、ポケットに入れた携帯カイロが妙にあったかかった事を今でもよく覚えている。

4歳時(現3歳時)での出走はさすがにまだまだ実績不足の感が否めず、ダイタクヘリオス、ヤマニンゼファー、ニシノフラワーのG1馬たちに挑戦する立場だった。3番人気に支持され、4コーナー回って直線入口で先頭に立ったものの、抵抗はそこまで。後続から襲いかかるダイタクヘリオス、ヤマニンゼファーに飲み込まれ失速し、最後は大外から桜花賞馬ニシノフラワーがまとめて差し切り、サクラバクシンオーは0.6秒差の6着に敗れた。

翌年、古馬となって迎えた1993年、サクラバクシンオーは10か月の休養後、オープン特別を2走してスプリンターズステークスに再挑戦する。

天皇賞優勝から転戦してきたヤマニンゼファーが2.2倍の1番人気、サクラバクシンオーは4.3倍で続き、3番人気は昨年の覇者ニシノフラワーで5.6倍。1993年スプリンターズステークスは、上位3頭の三つ巴の様相を呈した。

レースは3頭がお互い意識しあう形で進む。イイデザオウが先導するように先頭に立ち、サクラバクシンオーが続いた。好位からバクシンオーを伺うようにヤマニンゼファー、更にその直後にニシノフラワーが追いかけ、第4コーナーを回る。

直線に入って先頭を行くイイデザオウと2番手のドージマムテキの外から、サクラバクシンオーが飛び出す。それを待っていたかのようにヤマニンゼファーが追撃にかかる。坂を上ってサクラバクシンオーが突き放しにかかった時、外からニシノフラワーが伸びてきたがそこまで。

サクラバクシンオーは、2馬身1/2の差をつけてゴール板を通過していた。

2着ヤマニンゼファー、3着ニシノフラワー。昨年壁となって超えられなかった先輩G1たちを乗り越え、G1の初タイトルを得た。

1994年、連覇のかかる3度目のスプリンターズステークス。昨年2,3着のG1馬たちは引退し、メンバー的にサクラバクシンオーの独壇場、1.6倍の支持でレースに臨む。不気味なのは外国馬の3頭だった。

特にアメリカからやってきたソビエトプロブレムは筋肉の付き方が物凄く、500キロを超えるサイボーグのような馬で2番人気に推された。以下、エイシンワシントン、ビコーペガサスの4歳勢が続く。

14頭が一斉にスタート。ホクトフィーバー、エイシンワシントンが飛び出す。ヒシクレーバーがそこに絡み、先行争いは激化。サクラバクシンオーはそれを見るように4番手、その外に不気味なソビエトプロブレムがピッタリマークする。

4コーナー手前で早くもサクラバクシンオーが先頭に並びかける。直後に付けていたソビエトプロブレムはコーナーを回り切れず、外に大きく膨らむ。坂の手前で2番手以下を突き放したサクラバクシンオーは、差を広げながら直線の坂を上る。

大外からビコーペガサスが差してくるも後の祭り。サクラバクシンオーの圧勝劇となった。4馬身の差をつけて、楽々とゴール板を駆け抜けた。

晴れた冬空に小島太騎手が大きく手を挙げ、掲示板にはレコードの文字と1分7秒1の走破タイムがが掲示された。

レコード決着でのサクラバクシンオーの大団円。スプリンターズステークス連覇と共にその年のJRA賞の「最優秀短距離馬」にも選出、名実ともに№1スプリンターとなった。

そして、サクラバクシンオーは現役を退いた。

5.さらば、我が良き友よ

翌年1月のサクラバクシンオー引退式。

寒さが一段と厳しくなった快晴のパドックを、サクラバクシンオーが周回していた。

周りに他馬がいないからなのか、いつもの口をパクパクさせながら喋るような仕草も無い。ライバルを威嚇するような鋭い眼光も、今日は何となく優しい。

同じ部署の仕事仲間みたいに身近に見えた存在が、今日は出世して転勤していくような遠い存在になっていく。

淡々と、本馬場入場し、記念撮影に収まったサクラバクシンオーは、馬運車に乗って次のステージへと旅立った。

「あいつの送別会してやりたかったなぁ」

引退式を見届けた同行の仲間と冬枯れのスタンドに座り込み、サクラバクシンオーの旅立ちを祝して、ビールで乾杯した。

もしサクラバクシンオーが人間で、ここに居たらどんな思い出を喋るのだろうか。

 1200mの№1スペシャリストになった事?

 マイルで勝てなかった悔しさ?

 ノースフライトとの恋バナ?

いやいや、サクラバクシンオーがもし人間なら、祝勝会に反省会、一生懸命走って一生懸命応援して、一緒に酒を飲んで騒いだ思い出を楽しく語り出すに違いない。

「あいつも帰りの馬運車の中で、厩務員さんと缶ビールで祝杯あげていたらいいのにね」

ビール片手にそう呟いた仲間の何気ない一言を、今でも時々思い出す……。

Photo by I.natsume

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