東日本大震災後の高松宮記念を、小倉競馬場で見た日。

東日本大震災から10年の時が過ぎた。

震災後に初めて行われたG1は、高松宮記念だった。
僕はこのレースを、ひとり小倉競馬場で観戦していた。


あの日、ロッテ浦和球場で被災した僕は、野球観戦仲間を励まし支えあい、ロッテ浦和球場から三郷市のつくばエクスプレス三郷中央駅まで歩き詰めた。そして友人の対応に救われつつ、翌日未明に千葉県北西部の自宅へやっとこさ辿り着いたのであった。

それからというもの、原子力発電所の危機という目に見えないものとの闘い。
相次ぐ余震。液状化現象で生活そのものがままならぬ地域もあったし、ほかならぬ千葉県は、旭市周辺も津波被害を受けた、れっきとした被災地であった。
さらにはガソリンやパン、牛乳などの生活物資が断続的にひっ迫する事態に。
ネットで、テレビで、毎時間のように拡散された流言飛語──。
原子力発電所が停止した影響で電力もひっ迫し、毎日2時間の計画停電にひたすら耐える日々だった。
そもそも首都圏輸送の重要インフラであるはずの鉄道会社でさえも、満足した通勤輸送すら行わせてもらえない毎日なのである。

とりわけ余震と計画停電、原発危機の三重苦は──おそらくほかの皆様も同じだろうとは思うが──毎日毎時間、確実に僕の精神をむしばんでいった。着の身着のまま命からがら津波や原発から逃げ出し、かろうじて一命をとりとめた人たちは、その日その日を繋いで行こうと必死だったはずなのに、僕ときたら、完全に気持ちが破壊されてしまったのだ。

全てを投げ出したい。
旅に出たい。
西日本に行けば競馬が行われている。
僕は一人旅に出た。

ガラガラの『のぞみ号』に乗り、新大阪駅にたどり着いた。


2011年3月26日午後。
阪神競馬場は、北風がもろにスタンドに吹き付けるほどの寒さに、芯から震えるほどであった。


いわゆる「六甲おろし」とは、この風のことであろうか。

関東では競馬を含む競輪、競艇、オートレースのすべてが開催されておらず、ましてや他のスポーツ競技も言わずもがなという状況ではあった。一方で阪神競馬場は、スタンドが北向きであるという条件と、震災後ということで本馬場入場曲が流されず、本馬場入場アナウンスが淡々と出走各馬の馬体重と騎手を紹介するということ以外は、ごく普通の土曜日のスタンドの姿であった。
……これが同じ日本の姿だろうか、と僕は思った。
日常的に競馬があることが、どれほど幸せなことかと深くかみしめることになった。
他のスポーツに置き換えても、例えば同じ時期に、宝塚からわずかに南に下った場所に甲子園球場があり、こちらではセンバツ高校野球が開催されていた。

日常的に娯楽に向き合えることの幸せとはなにか──。
この言葉の意味を噛みしめる。まさかこの10年後、コロナ禍においてもう一度噛み締めることになるとは、想像もせずに。

さて、こちら阪神競馬場では、馬券的にはなかなか難しいレースが展開されていた。
というのは、東日本で競馬が開催されておらず、今日のレースを狙い撃ちしてきた関西馬に、東日本大震災で遠征競馬を余儀なくされた関東馬の対決。
レースを検討するなら、最初からこのレースに照準を合わせてきた関西馬優位、遠征を余儀なくされた関東馬は苦しい……と読んでいたのだけれど、意外と関東馬が粘って2着に残る場面があるなど、とにかく難しかった。

こんな日は、乗馬センターに繋養されている馬を眺めて、心を落ち着かせるのである。
僕は乗馬センターの馬にうっとりするが、馬の方はひたすら厩務員ばかりを見ているというのは致し方なし。
それでも僕は、この一瞬だけで、今まで2週間の労苦がある程度吹っ飛んだと思った。
自宅のある千葉県北西部に戻れば、おそらくはまたつらい現実が待っているのだろう。
もう一度、娯楽を、競馬を心の底から味わえる日はやってくるのだろうか。

この日の阪神競馬場は東日本大震災の影響で変則開催。
メインとなる11レースには、中山競馬場から移設開催のスプリングステークス、12レースには同じく中山からの移設開催フラワーカップと、平地2重賞が行われた。
阪神競馬開催日のみ運転される、阪急仁川駅始発の梅田行き(現大阪梅田)行き臨時急行に乗ってみたかったのと、その後の旅程もあって、メインのスプリングステークスを観戦して阪神競馬場にはお別れということになるだろう。

そしてそのスプリングステークス、ファンの評価は割れていた。
オルフェーヴルが1番人気も、リベルタス、リフトザウイングス、ベルシャザール、グランプリボスまで差のない人気。
僕はこの段階でオルフェーブルが、まさかあんなに大成する馬だなどと知らず、京都で牝馬マルセリーナに負けた馬ということで評価を下げいた。おそらく、オルフェーブルの馬券は買っていなかったと記憶している。
レースは道中中団やや後方からピタリと折り合ってレースを進めて、4コーナー大外を回って直線抜けたオルフェーヴルが、追いすがってきたベルシャザールを振り切って1着。3着には8番人気ステラロッサが入り、3連単は282倍の好配当。

オルフェーヴルが間違いなくクラシック戦線を担う1頭になりうるというのは、このレースを見た多くのファンが思ったことであったろうが、ディープインパクト以来の3冠馬を達成することになるとは……。


レースの表彰式まで見終えて、阪神競馬場を去ろうとした時、3月下旬だというのに小雪が舞いだした。
それはあたかも、スプリングステークスを制したオルフェーヴルの行く末を、神様がお祝いしているかのようであった。
今思えば、レース終了後に舞い出した美しい小雪は、彼の明るい未来を暗示していたのかもしれない。

翌日は、小倉競馬場へと向かった。
阪神競馬場から九州へ行くのに、僕は船旅を選んだ。

フェリーの乗り場がある六甲アイランドまで行くなら、阪神競馬場からならまず阪急今津線で今津、阪神乗り換えで阪神御影駅まで出れば、フェリー連絡バスが待っている。しかし僕は、西宮北口を通過する臨時急行(通称「馬急」)に乗りたいがために、一度梅田まで戻るという暴挙に出た。
梅田まで行ったら、そりゃあ梅田の地下街にあった立ち飲み屋に寄らない手はない。

梅田は、東京とは全くの別世界。
余震もなければ計画停電もなく、節電もない。人出も多いし、ネオンは煌々と光っている。
ガソリンに困っている様子もなければ、牛乳やパンに苦労している様子もなかった。

さらに僕は旅に出た。
明石海峡を船に乗り、翌朝3月27日、新門司港に到着。

せっかく門司に来たのだから、門司港に寄らない手はないと、門司港で午前中は九州鉄道記念館を見学するなど時を過ごし、午後12時半ごろくらいだっただろうか──小倉競馬場に到着する。


小倉競馬場は、改装される直前の1997年8月にも来たことがあり、それ以来14年ぶりの訪問である。
あの時は九州産馬限定3歳(現2歳)オープン、今でも小倉競馬場名物のひまわり賞が見たくて出かけたのだが、馬券の方は散々。挙句ひまわり賞で1番人気のカノヤツヨシの単勝オッズと、2番人気タハラセンショウとの馬連のオッズとどちらがよいか、馬連1.8倍に目がくらみ、旅費まで突っ込んだら、2着に佐賀所属のタハラウイングがやってきて撃沈した──そんな苦い記憶がある。ちなみにあの日に組まれた新馬戦、勝ったのがアインブライド。のちの阪神3歳牝馬ステークスの覇者になるのであった。

僕は競馬場には足が向けられないような生活を送っているのだけれど、生観戦した新馬戦で優勝した馬が、のちにG1レース覇者になったのは、アインブライドとキタサンブラックぐらいしか記憶がない。

あの日のリベンジとばかり挑んだが、この日も馬券は絶不調であった。
こんな時はやはり気分を変えるために乗馬センターの馬を眺めることに。

驚いたことに、小倉三冠馬として名高いメイショウカイドウ号がいて、乗馬センターの生徒と思しき女の子と、ニンジンをめぐって「もっとちょうだい!」とばかりにやりとりをしていた。

他にもテイエムオオアラシ号、マチカネオーラ号、ホワイトハピネス号など、懐かしい馬たちが揃っていた。

ホワイトハピネス号
マチカネオーラ号

馬券は前日の阪神競馬場に続いて絶不調ではあるものの、乗馬センターに続いてもう一つの余得があった。

この日の小倉9レースのダート1700メートルの古馬500万条件、逃げる武幸四郎騎手のオースミマリオンを、ゴール前で上がり3ハロン37秒0の鋭い脚で捕まえたのはツルマルシルバー。
鞍上の花田大昴騎手は、その年の3月デビュー組。これが嬉しい嬉しい初勝利であった。


これには同期も大いに発奮したことだろう。

花田大昴騎手、嬉しい初勝利インタビュー

プロ野球でいえば初勝利や初安打初ホームラン、サッカーでいえば初ゴールなど、新人選手や、いわゆる苦労人と言われる選手たちが結果を出すのを目の前で見るというのは、心に残るものだ。それが小倉競馬場で見られたことは、嬉しい限りだった。
花田騎手は、その後いろいろな苦労があったのだろう──なかなか大成することができず、2016年に、キャリアわずか11勝で鞭を置いた。
その中の1勝、それもとりわけうれしい初勝利は、僕がこの目でしかと見届けている。

そして迎えた、阪神競馬場の高松宮記念。
東日本大震災後の初めてのG1競走を、まさか小倉競馬場で観戦することになるとは思いもよらなかった。
思えば、どうして僕はこんなところで高松宮記念を見ているのだろうか。
関東を脱出してきたこと、G1を競馬場で観戦していることが、不思議でならなかった。それは自分で選択したことであったはずなのに。

馬券自体は、ジョーカプチーノかキンシャサノキセキ、どちらから入るかという二者択一でジョーカプチーノから入ったら、痛恨の出負けでドボン。思い返せばこの二日間、実は馬券は全く一つもかすりもしていなかったが、僕にとってはそんなことはどうでもよかった。

──競馬がある、馬がいる。
娯楽がそばにあるということが、どれだけ幸せなことだろうか。
いざ有事となれば、真っ先に取り上げられるのは娯楽や趣味。
それを楽しむことができるのが、どれほど平和で幸せなことであることか。

あの日、埼玉の外環道の真下を共に歩いた仲間は無事か。元気か。
お互い生き残った身、千葉を、日本を、必ずや取り戻そうと思った。

あれから時が流れた。
その時とは全く違う、目に見えない辛苦と戦う日々が続く。
しかし共に分かち合えば、必ず未来へとつながると確信している。
そこに競馬が、娯楽がある日常を、必ずや取り戻せると信じて。

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