夢というダイナミズムと自制する私たち。ナリタブライアンの高松宮杯挑戦

「もしも織田信長が本能寺から脱出していれば」

秀吉による豊臣の世は来なかったかもしれない。であれば、今日の大阪の街並みは違った景色になっていただろう。下水を町境とし、下水を挟んで背中合わせに町が整備された背割下水(通称太閤下水)など大阪は東京にはない折り目がある。直線と直角が大好きだった秀吉の痕跡はいたるところにある。織田家による政権が確立されていたとしたら、大阪の直線的な街はなかった。そう、歴史には必ず「もしも」がある。タラレバ話は酒の肴にちょうどいい。ドリフターズの「もしもシリーズ」はそんなタラレバ話の元祖。大爆笑のトリを飾る名物コーナーは、いかに私たちがタラレバ話好きなのかを物語る。

競馬ファンもご多分に漏れず、もしも話には目がない。「もしもサイレンスズカが天皇賞(秋)を完走していたら」「もしもクロフネが天皇賞(秋)で除外にならなかったら」いま、私たちが目にしている競馬はどんな風景に変わっていたか。信長が生きていたらという話と同じく、後世に大きな影響を与えたであろう「もしも」は話し出せば止まらなくなる。

同時にそんな架空の話をしても意味がないという想いもある。特に馬券にタラレバは厳禁。ハズレ馬券にタラレバを持ち込んでしまうと、半永久的に負けを引きずることになる。勝負師は過去を振り返らない。それもまた潔し。ひとまず馬券のことは忘れ、架空であると知りつつも、もしも話に浸りたい。それはまるで食後に出されるシャーベットように決して退けられない誘惑なのだ。

たとえば、「もしもイクイノックスがドバイワールドカップを走ったとしたら」世界ナンバー1のまま引退したイクイノックスは文句なしの芝最強馬。だが、ダートを走ったらどうなっていたか。「いくらなんでもそりゃ無理さ」という意見も、「いやいや、最後はどんな流れでも先行できたんだから、ダートだってこなすんじゃないか」と世界ナンバー1を推す声もあがる。架空だからこそ、答えは出ない。競馬ファンにとって答えがない問いに挑むのはご馳走でしかない。

そんなもしも話を本当にやってしまった例がある。それが芝1200mの高松宮杯に出走した三冠馬ナリタブライアンだ。

競馬ほど多様性が進んだ世界はない。その象徴たるもののひとつが、距離体系。特に短距離路線の整備だ。欧米の競馬を範として発展してきた日本の競馬は中長距離が王道とされる。まずはマイル以上を走れる馬づくりを優先させてきた。だが、そういった目論見であっても、必ずそこから外れた馬があらわれる。短い距離しか走れない馬は異端とされてきた。しかし、80年代の終わりから異端ではなく、異能と考えるようになった。異能もまた個性であり、長所。1990年、スプリンターズSがGⅠに格上げされ、個性を尊重する流れが加速した。バブルがはじけた当時、日本社会にはまだ多様性という言葉はなく、人と違うことは異端であり、出る杭は思い切り打ちつけられていた。多様性を認めるという意味で、距離体系の整備は多くの新たなスターを生んだ。ダイイチルビー、ニシノフラワー、サクラバクシンオー。90年代初頭の名スプリンターは今もその名を歴史に刻む。

高松宮杯が芝1200mになったのは1996年のこと。春の短距離王決定戦になった元年、ナリタブライアンは挑戦を決めた。「もしも三冠馬が短距離GⅠに挑戦したら」そんなタラレバ話が現実になった。だが、それはタラレバであり、あくまで架空の話だからいいのだ。本当に挑戦してどうする。当時、そんな批判が多方面から聞かれた。夢と現実は違う。大衆は時にクールなもの。タラレバは、叶わないからいい。実現させれば、無謀となる。そんな率直な意見が堂々と紙面で繰り広げられる時代が少し羨ましくも思う。そういった自由に意見をぶつける多様性があの頃にはあった。

当時のナリタブライアンは股関節の痛みと戦っていた。三冠馬に輝き、有馬記念を勝ち、阪神大賞典で圧勝したのち、腰の疲れから股関節に歪みがたまっていった。翌年の阪神大賞典でマヤノトップガンとのマッチレースを制し、復活を印象づけるも、天皇賞(春)は折り合いを欠き、2着。そこから宝塚記念へ向かう前に高松宮杯へ出走したのだ。当時5月に行われていた高松宮杯を挟むのはなぜか? 4月天皇賞(春)から6月宝塚記念の間にGⅠ、それも1200mのGⅠに出る。短期放牧でリセットしながら使う今なら、とんでもないローテーションだが、それは当時でも同じこと。もちろん、本当に強い馬なら、距離は関係ないという主張もある。しかし、問題は距離や適性ではなく、レース間隔にあった。当時もそういった論調が主流だった。本当に短距離での強さを試すのであれば、そこに照準を絞って計画を立ればいい。そうであったなら、当時だってナリタブライアンへの視線も違っていただろうし、短距離GⅠに生まれ変わった高松宮杯に花を添える存在として、その挑戦はもっともっと讃えられていただろう。

距離体系の整備による棲み分けは、多くの賞賛を集めるチャンピオンを輩出するというメリットもあれば、ある種の夢のあるダイナミズムを失う。多様性とてバラ色ではない。世の中のあらゆる事象にはメリットとデメリットが同居する。メリットしかないものなど、虚構のものでしかない。ナリタブライアンの高松宮杯出走はローテーションの無理は横に置くとして、今となっては叶えられない魅惑のダイナミズムでもある。

さて、実際のレースはどうだったのか。改めて阪神大賞典を勝ち、天皇賞(春)2着だった直後の馬が1200m戦に出走したことを踏まえて、見直してほしい。いまに置き換えるなら、ディープボンドが走るようなものだ。ゲートが開いた瞬間の飛び出しはスプリンターたちとほぼ互角。だが、ダッシュ力はさすがに及ばない。逃げたスリーコースが2ハロン目に10.3を叩き出し、前半600m33.1。フラワーパーク、ヒシアケボノ、ビコーペガサスが好位につけるなか、ナリタブライアンは後方まで下がり、武豊騎手も促しながらの追走だった。さすがにスピードの差を感じてしまう。中京の直線は今より短く、直線を向いた段階で、勝利圏内は前にいたフラワーパーク、ビコーペガサス、ヒシアケボノに限られてしまう。

「ナリタブライアンは伸びない」

そんな実況アナウンサーの叫びがますます印象を強くする。しかし、直線を向いてからナリタブライアンは確実に脚を使っていた。勝負圏内に食い込むほどではないが、それでいてジリジリといった感じでもない。その末脚には三冠馬のプライドと底力がみえた。前半でついてしまったハンデを逆転できるほど、中京の直線は長くなく、明らかに距離不足を感じさせるも、前を追いかけんとする闘争心は確実に感じられた。

しかし、結果的にはこのレースのあと、屈腱炎を発症し、引退。高松宮杯はその引き金となったレースとされ、出走への批判的な向きは高まってしまった。屈腱炎は走りすぎてしまうことで発症する病だけに、仕方がない。

ナリタブライアンの高松宮杯は競馬ファンにとって苦い思い出であり、名馬のタラレバ話で盛り上がったとき、そのブレーキを踏む役割を果たしてしまった。試してもらいたいけど、ナリタブライアンだって…。それもまた歴史であり、私たち競馬ファンの経験なのだ。だから「もしも」は「もしも」。夢は夢として語ればいい。夢の対決は夢のままで。そんな自制もまた競馬ファンのよさだ。だからこそ、たまに実現するドリームカードがたまらない。

写真:かず

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