幕末に生を受け、激動の明治から大正初期を生きた、夏目金之助。
日本近代文学を代表する文豪として、現代に読み継がれる不朽の名作の数々を発表し続けた。
筆名を号して、夏目漱石。
慢性的な神経衰弱、あるいは胃潰瘍など数々の疾患に悩まされ続けながらも、尽きることのない自らのエゴイズム、ひいては愛を真摯に追究し続けた。
禅の世界にも傾倒した晩年の彼が、目指した境地は、「則天去私」という言葉とともに伝えられる。
天に則り、私を去る。
大いなる天の意思に則り、私利私欲を捨て生きる。
果てのない自我との葛藤に悩まされた漱石が、最後に目指したとされる、その境地。
その言葉を、重ねてみたくなるジョッキーがいた。
美しい騎乗フォームと、卓越した勝負勘から「天才」と称された、田原騎手。
時にはその言動により、周囲との軋轢を生むこともあったが、何よりもその騎乗には華があった。
それは観る者を惹きつけ、そして心を震わせるものだった。
その騎手としてのキャリアの晩年を迎えつつあった、1997年。
春の天皇賞でのマヤノトップガンとの走りを、振り返ってみたい。
時に1997年、3月16日。
春の仁川を彩る、GⅡ阪神大賞典。
マヤノトップガンと田原成貴騎手は、道中を最後方から追走していた。
それまでに、このコンビが勝ち取ったGⅠは三つ。
4コーナー先頭で押し切った1995年の菊花賞、幻惑の逃げ切りを決めた同年の有馬記念、そして好位から差し切った翌1996年の宝塚記念。
そのいずれとも異なる道中のポジションは、観る者の心にざわめきを呼び起こす。折しも、前走の有馬記念ではデビュー以来の最低着順となる、7着に敗れていた。
しかし、鞍上の田原騎手の手綱に、微塵の迷いも見られなかった。
馬に任せて走った位置取りが、ただ最後方だった。
どこか、そんな自然さを感じさせる走り。
3コーナーでも、まだ最後方。しかし田原騎手がうながすと、マヤノトップガンは馬なりのまま外を通って上がっていく。
前年は、ナリタブライアンと実に600mにわたる追い比べで、名勝負を演じた。
しかしそのナリタブライアンは、もうすでにターフを去っていた。
直線入り口では、脚色が違っていた。圧巻の、差し切り勝ち。
天才と称された鞍上と、変幻自在に脚を伸ばす撃墜王。
そのコンビだからこそ許されたかのような、大いなる流れに身を任せるような走り。
その走りは、一つの芸術として、完成の域に達しようとしていた。
しかし、あくまで本番は「春の盾」。
時は平成も一桁。まだ春の天皇賞が、古馬最高峰のGⅠの地位を保っていた時代である。
その本番で、差し切らなければいけない2強が、いた。
前年1996年の年度代表馬、サクラローレル。
デビュー当初から脚元に不安があり、競走生活も危ぶまれる大怪我を負いながらも、6歳にして、その天賦の才が開花。
1996年の天皇賞・春では、復活を期したナリタブライアンに引導を渡し、同年の有馬記念では名伯楽・境勝太郎調教師引退の花道を飾った。
現役最強の呼び声高く、秋には凱旋門賞挑戦の声も出ていた。鞍上は円熟味を増す関東の名手、横山典弘騎手。
昇り龍がごとく、天皇賞の大舞台に挑むは、マーベラスサンデー。
こちらも度重なる怪我により出世は遅れたものの、5歳時に名手・武豊騎手とともに重賞4連勝を含む破竹の6連勝を飾った。
秋の天皇賞と有馬記念では惜敗を重ねたが、6歳となった1997年は、前哨戦の産経大阪杯を勝って、初のGⅠタイトルとなる春の盾獲りに挑む。
サクラローレル、マーベラスサンデー。
そして、マヤノトップガン。
競馬史に何度も立ち現れ、観る者を魅了してやまない三強対決。
その物語が、1997年の春の盾をめぐって、また新たに紡がれる。
春から新緑へと移り変わるころ、4月27日。
快晴の淀、京都競馬場にファンファーレが鳴り響き、歴戦の16頭が飛び出す。
ゆったりとしたペースの中、連覇を狙うサクラローレルは中団のポジションを取り、それをマークするように武豊騎手のマーベラスサンデーはその後ろ外目から追走。
4番枠から出たマヤノトップガンは、1周目の坂の下りでは掛かりそうな気配で、田原騎手が手綱を引いている。
スタンド前に差し掛かり、田原騎手はマヤノトップガンを内ラチ沿いに導き、前に馬を置いて落ち着かせる。
馬群の中、じりじりとポジションを下げていくマヤノトップガン。
2周目に入り、向こう正面で異変が起こる。
横山騎手とサクラローレルが一気に外からポジションを上げ、2番手に進出していく。
スタンドから上がる歓声。かかったのか、それとも仕掛けたのか。
いずれにせよ、まだゴールまで約半周の距離を残し、淀の坂越えも控えている。タフなレースになりそうだ。
それをマークしているマーベラスサンデーも、ついていくようにポジションを押し上げていく。
一方、内で静かに控えているマヤノトップガン。まだ、動かないのか。
淀の坂を下り、直線を向いて先頭に立つサクラローレル。
満を持して追い出され、それを交わすマーベラスサンデー。
前年秋の雪辱を果たさんと、武豊騎手の左鞭が飛ぶ。
しかし、振り切れない。
それどころか二の脚を使い、差し返してくるサクラローレル。
向こう正面で脚を使って、まだ伸びるのか。
その驚異的なスタミナと底力には、畏敬の念すら覚える。
残り200m、マーベラスサンデーもまた差し返そうと脚を伸ばす。
遠くフランスは凱旋門への希望か、遅れてきた大物の初タイトルへの意地か。
意地と希望が、底力と根性が、3000mを走り切った先の剣が峰でぶつかり合う。
これが、春の盾だ。
人馬が死力を尽くす、張り詰めた直線の攻防。
その刹那、大外から白い流星。
マヤノトップガン。
極限まで引き絞り、解き放たれた矢となった栗毛の馬体が、大外を駆け抜けていく。
内の2頭がピリオドを打とうとするレースの予定調和を、ぶち壊していく。
観る者を戦慄させ、背筋にぞくりとした感覚を呼び起こす、その走り。
撃ち抜いた。
3分14秒4。
2年前にライスシャワーがマークしたレコードを、2秒7も更新する、驚愕の時計。
それは、73年ぶりに更新された、世界レコードでもあった。
馬上の田原騎手に、派手なガッツポーズはなかった。
その2年前の有馬記念を、同じマヤノトップガンと逃げ切った際には、胸の前で十字を切り、投げキッスをする派手なパフォーマンスが話題を呼んだ。
しかし、このいくつものドラマを凝縮したかのような3200mを走り切った後の田原騎手は、その劇的な勝利にもかかわらず、静けさのなかにいるように見えた。
ただ、相棒のたてがみを大きく一度、二度、撫でただけだった。
それが、田原騎手のこの春の盾に賭けていた想いの大きさと強さを、端的に表していたような気がした。
夏目漱石は、その最期まで「則天去私」の境地を探し続けた。
その中で残した数々の作品は、日本の近代文学の礎となっている。
田原成貴騎手は、20年にわたる騎手生活の果てに、1997年の天皇賞・春という芸術作品を、マヤノトップガンとともに完成させた。
数多の栄光、落馬負傷による蹉跌、己が信念と常識との葛藤の末にたどり着いた、その境地、その末脚。
あの、2周目の坂の下り。
全馬が前がかりになる中で、仕掛けを遅らせる姿は、どこか人の意志や執着を超えた境地にも見えた。
則天去私。
その言葉を、重ねたくなる。
1997年、天皇賞・春。
マヤノトップガン。
鬼才・田原成貴騎手の、最後のGⅠ勝利にして、至高の騎乗だった。