東京のダート1400mコースで施行されるG3・根岸Sの勝ち馬というと、3週後のG1・フェブラリーSもそのままの勢いで連勝するような強豪揃い……というイメージが近年強くなってきている。
だが、2000年以前の条件は東京ダート1200m、且つ施行時期が11月前半だったということもあって、勝ち馬のラインナップはかなり趣が異なる。
トモエリージェント、ワシントンカラー、セレクトグリーンなど、実力は持ちながらも距離が延びると甘さを見せる快速系が多いのがその特徴だ。

今や「伝説のレース」として語り継がれているブロードアピールが勝ち切った根岸Sは、千二時代の最終年に当たる2000年に行われた。
史上屈指の鬼脚で知られる同馬も例に漏れず、マイルだと末が甘くなるタイプだったため、その系譜に連なる存在として、個人的に違和感は覚えない。
さらに時代を遡ると、創設された1987年から1989年までは現在と同じく東京ダート1400mの条件であった(ただし東京競馬場大改修前のため、厳密に言うと同じコースでは無い)。

それらの勝ち馬の中で最も著名なのは、1989年の覇者ダイナレターでは無いだろうか。同馬は近年の佐賀最強馬・ウルトラカイザーの母父としても知られる馬だ。
ダート路線が整備されていなかった時代における、不遇な砂の王者という文脈で語られがちな彼ではあるが、過去の戦績を精査すると別の側面も見えてくる。

今回はそういった埋もれた特性にもスポットライトを当てつつ、彼の生涯を振り返ってみたい。

ウルトラカイザー

ダイナレターは1984生まれ。

その父は当時の大種牡馬ノーザンテーストである。
社台ファームで生誕した彼は、長じてクラブ法人・社台レースホースの一員となった。
所属した美浦・二本柳俊夫厩舎と言えば全国リーディング歴もある名門中の名門。

さらには父譲りの明るい栗毛……。
そんなきらびやかなプロフィールを携えた彼だが、関係者の期待は高くなかったという。

馬体も動きもそう目立ったものでは無く、オープンクラスでは力負けするのでは無いか……というのが二本柳師の当初の見立てだったらしい。                           
ちなみに社台レースホースはこの世代を最後に冠名を廃止しており、ダイナレターは最後の「ダイナ馬」の1頭ということになる。

1986年11月の初陣は芝レースであったが、二本柳門下生の加藤和宏騎手の手綱でクビ差勝利。

幸先は良かった。
しかし、彼には爪が弱く冬場使い込めないという欠点があり、とんとん拍子の出世とはいかなかった。
デビュー2戦目は翌年5月の東京開催にズレ込み、そこで3着に敗れるとさらに休養。

9月の函館開催にて連闘含んで3戦するも、やはり勝てない。
このようにやや足踏みが続いたが、同年10月に自己条件のダート千六を使うと、これを快勝。
府中の砂への適性を初めて見せた。
その後は芝路線に戻って勝ったり負けたりを繰り返したが、1988年10月の900万下条件戦(東京ダート1700m)を制した辺りからいよいよ本格化。

牡馬としては小柄で450kg足らず、加えて器用な脚の無い彼には、比較的砂が軽くて伸び伸び走れる東京のダートコースがやはり適していたのだろう。

翌1989年6月には準オープンの欅S(東京ダート1600m)を差し切って勝ち上がった。
この頃になると、彼のパートナーは加藤騎手からその弟弟子に当たる杉浦宏昭騎手に替わっていた。
ここで陣営は7月のG3・札幌記念にダイナレターを挑戦させる判断を下す。

例年は札幌ダート2000mで施行されるのが通例となっていた同重賞だったが、それまでダートコースしか無かった札幌競馬場に翌1990年洋芝のコースを新設するため、以前の外回りダートコースに芝の種を蒔いて育成中だった。そんな事情もあり、この年は内回りコースのダート1700mで行われた。

イレギュラーな事情に見舞われたが、マイル近辺に適性を持つダイナレターにとってはこれが功を奏す形となる。

本命馬レインボーアカサカの歴史的な大出遅れで幕を開けたこのレースを、馬場の内目を回してせり上がっていく味な競馬で西の強豪オサイチブレベストを半馬身差抑え込み制覇。
杉浦騎手が
「勝てる時は全て上手くいくもんですよ」※1
とコメントしたように、展開利と距離適性、何より軽ハンデ54kgがその勝利を後押しした。

札幌記念以降のダイナレターはローテーションの都合上、時折芝レースを挟みながらも“砂の王者”として、着実に自身の足場を固めていった。
中央場所に舞い戻り、10月の東京開催で走ったオープン特別・神無月Sと11月のG3・根岸Sは、そんな彼の生涯のハイライトと呼べる内容であった。

神無月Sは57kgを背負い、インターシオカゼ以下に4馬身差をつける完勝。
迎えた根岸Sはさらに1kg増えた斤量58kgで圧巻の競馬を見せた。
前走の雪辱を期す快速インターシオカゼがハイラップを刻む中、落ち着いて中団の内目に待機。

そして3コーナーから外へせり出すと、続く4コーナーで杉浦騎手はダイナレターを大外へ持ち出し、残り200mのハロン棒を通過した辺りで急加速。

前を行く馬たちを捕らえると、後は楽な競馬でツクバセイフウ以下を5馬身ぶっちぎった。
「爆発力なんですよ、この馬の良さは。どんなに離されても、
焦って仕掛けちゃいけない。

直線勝負くらいの気持ちで乗るのが一番みたいですよ」※2

デビュー時からほぼ変わらない440kgの小柄な馬体に、どれだけの素質と闘志を秘めているのか……得意な府中の舞台で抜群の競馬を見せたダイナレターに、相棒の杉浦騎手は納得した様子で賛辞を送った。

そして根岸Sでの勝ちっぷりが決め手となり、ダイナレターは1989年のJRA賞最優秀ダートホースに選出された。

ところが翌1990年当時は地方交流の道が未開。

加えて中央ダート重賞戦線が整備されていなかったが故の宿命と言うべきか、明け7歳を迎えたダイナレターは、賞金別定戦やハンデ戦の重い斤量や、比較的不得手な芝レースと対峙せざるを得なくなる。

60kgを背負った銀嶺S、61kgと格闘した京葉S、さらに酷量62kgに挑んだ武蔵野Sと、3つのオープン特別を僅差で勝ち切ったダイナレターだったが、彼は残念ながら完全無欠のチャンピオンでは無かった。
ハンデ61.5kgを背負ったG3・フェブラリーHは4着、そして4月に出走した大井・帝王賞ではオサイチブレベストの6着に終わってしまう。

不良のダートで限界に近いハンデを背負ったフェブラリーHはともかく、斤量55kgの帝王賞での敗戦は彼の距離適性と「深いダートは苦手とする」という弱点による敗戦であった。大柄でパワフルなオサイチブレベストとの適性の差、または中央競馬の砂の王者でありながら、地方の強豪とやり合うには弱みを抱えている、ということを感じさせる内容であったことは間違いない。

8歳時の金杯・東(4着)を最後にダイナレターは引退した。

それからまもなくして、彼は静内のビッグレッドファームで種牡馬として供用され、2003年12月に用途変更となるまで繋養地を移しつつ、約160頭の産駒を残した。

直仔の活躍馬は中央6勝のマイネルエアメールが出た程度だったが、牝駒のローレルワルツ(中央3勝)が産んだアスカクリチャンがアルゼンチン共和国杯など中央重賞2勝を挙げ種牡馬入りしたことで、現在も血は継承されている。その他、直仔で公営浦和の下級条件を5戦4勝したダイナマイトメールが小野瀬晃司牧場で種牡馬入り。同馬はノーザンテースト直系最晩期の種牡馬でもある。

また、冒頭で述べた“佐賀のレジェンド”ウルトラカイザーはアスカクリチャンの半弟に当たる馬で、こちらの活躍も目覚ましい。
母父にダイナマイトメールを経たノボベイビーという馬が、2018年1月に中央競馬で勝ち星を挙げたのも明るいニュースであろう。

アスカクリチャン

競走馬として不完全であることは、将来に伸びしろを残しているということ。

旧制度の残っていた古き良きダート戦線を、王者として堂々歩んだダイナレターの血は、これから我々が目にするであろう未来の競馬へと繋がっていく。

(馬齢表記は旧表記で統一)

※1「優駿」1989年9月号
※2「優駿」1990年1月号

写真:雪のかけら、aristo Haru

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