
■2008年 リーマンショックに揺れた社会
2008年(平成20年)という年を思い出すとき、最初に思い浮かぶのは、リーマンショックに端を発した金融不安である。私事になるが、その年私は大学を卒業し、新卒で就職したものの会社が合わず、なんと1か月で退職。なんとか競馬で食いつなぎ(今思うと恐ろしい)、7月に再就職をしたものの、直後にリーマンショックが起きた。もう次のチャンスはないぞと会社にしがみつきながら、年末を迎えていた。
当時は一切投資をやっていなかったが、暴落のニュースは否が応でも耳に入り、団塊世代の退職で盛んだった就職市場も一斉に静まりかえった。社会人1年目の私でも、世の中が冷え込んでいくことが身に染みるようにわかった。
その頃の競馬界は牝馬旋風の時代だった。ディープインパクトが引退し、その後の政権を担ったメイショウサムソンも陰りを見せつつあった中、牝馬のダービー馬ウオッカが天皇賞・秋を、そしてダイワスカーレットが有馬記念を勝利していた。いわば「アフターディープ時代」だったが、経済界が冷え込む中でも競走馬たちは競馬界を盛り上げていた。
一方のダート界は「アフターディープ」どころか、ディープ世代の2頭が頂点を争っていた。
1頭はヴァーミリアン。
2歳時に出世レースであるラジオNIKKEI杯2歳Sを勝利すると、3歳時はクラシック路線へ歩を進める。そこにいたのは三冠馬となるディープインパクト。芝では苦戦を強いられ、やや厳しいかと思われた矢先、年末にダート路線へ転向。最初は地方重賞を着実に勝利し、徐々に力をつけ始めると、2007年1月にJpnIの川崎記念を制覇してドバイワールドカップへ(4着)。その後、秋に復帰するとJBCクラシック、ジャパンカップダート、東京大賞典とGI級を3連勝。そして明けた2008年にはフェブラリーSも制し、中央・地方の砂の統一王者として揺らがない地位を築こうとしていた。
そしてもう1頭は同期のカネヒキリであった。
■「砂のディープ」と呼ばれて
時を戻して2005年はディープインパクト一色の時代だった。ここでは説明はいらないだろう。
同時期に、同じ金子真人オーナーのカネヒキリがダート界の新星として現れていた。
芝では未勝利を脱出できなかったが、舞台を砂に移すと未勝利戦・500万クラスを圧勝。一度毎日杯を挟んでオープンの端午Sでも1.4秒差の圧勝。これはモノが違うぞと話題に挙がり始めた。その勢いのままにユニコーンSで重賞初制覇を圧勝で遂げると、ジャパンダートダービー(JpnI)、ダービーグランプリ(JpnI)と危なげなくG1級を制覇。3歳の砂の王者として君臨すると、同じ勝負服で同じ主戦ジョッキー(武豊騎手)だったこともあり、いつしか「砂のディープ」と呼ばれる存在になっていた。
カネヒキリの勢いは3歳戦に留まらず、古馬との闘いでも止まらなかった。武蔵野Sはダートで初めての土をつけられたが、本番のジャパンカップダートではタイムパラドックスらの強豪を破り、世代を超えた王者に。さらには年が明けて2006年のフェブラリーSでも勝利し、王者の座を確かなものにしていた。
しかし、ドバイワールドC(4着)の遠征からの復帰戦である帝王賞で2着に入ったのち、屈腱炎が発覚。結果として2年以上の休養を強いられることとなった。
■それぞれの戦い、そして直接対決へ
ヴァーミリアンがダートに舞台を移し、砂の頂点を目指して戦っている間、カネヒキリは屈腱炎という病魔と闘っていた。屈腱炎は競走馬にとって不治の病と呼ばれるほどで、GI馬であれば引退することも珍しくない。にもかかわらず、カネヒキリは現役を続ける道を選んだ。しかも一度は復帰できるかと思われた矢先に再発し、二度の戦いを強いられることとなる。幹細胞移植手術という聞き慣れない治療法も話題となったが、結果としてカネヒキリは2年もの空白を経て、再び競馬場に戻ってくることとなった。
久々のレースとなった2008年の武蔵野Sでは9着に敗れたが、直線で進路が狭くなり、まともに仕掛けができなかったこともあり、ある意味では可能性を残す復帰戦となった。そして迎えた休養明け2戦目のジャパンカップダートで、王者として君臨していたヴァーミリアンとの直接対決を迎えることとなる。ヴァーミリアンが断然の1番人気に支持される一方、カネヒキリは4番人気。6歳の2頭の間には、新星サクセスブロッケンやカジノドライヴといった3歳馬が2番人気、3番人気に支持されており、同期同士の直接対決というよりも、新旧世代交代の色合いが強い一戦だった。
そんな中、カネヒキリはC.ルメール騎手の手綱さばきに導かれ、経済コースを活かして見事に1着。「砂のディープ」復活を、はっきりと示す勝利となった。
しかし喜びもつかの間。年の瀬の大井には、早くも再戦の舞台が用意されていた。
次はタフな大井の2000m。
ここで勝利した者こそが頂点に立つにふさわしい、そんな舞台であった。
■みんな頑張れ頑張れー!
その年の中央競馬のG1レースは有馬記念をもって終了するが(当時ホープフルSはオープンクラス)、正真正銘、その年の最後のG1レースと言えば、暮れの大井で行われる東京大賞典である。12月の最終週の平日夕方に行われるその日程から、早い人は年末休みを取得しているファンもいれば、休み前で逆に忙しいファンもおり、その参加方法は人それぞれだ。馬券も、有馬記念をもって大きな勝負は店じまいしたファンもいれば、ここで逆転を試みようと大勝負するファンもいる。思いもまた交錯する、不思議な感覚をまとったレースと言える。
しかし、年内最後のG1レースということで、やはり有馬記念と同じように、その年の総決算的な意味合いを持つレースであることは間違いない。それは競馬のことだけではなく、自分の身の回りのことから世の中のことも含め、一年の出来事に思いを巡らすのは仕方のないことだろう。
そんな東京大賞典に揃ったダート界の強豪たち。カジノドライヴの姿はなかったが、ジャパンカップダートで対決したカネヒキリ、ヴァーミリアン、サクセスブロッケンが、再び大井の舞台に揃った。単勝オッズはヴァーミリアンが1.6倍、カネヒキリが3.1倍、サクセスブロッケンが5.6倍。続いた4番人気は、その年の同舞台・帝王賞を制していた地元大井のフリオーソで12.6倍。数字が示す通り、3頭が抜け出した三強の様相だった。
筆者はテレビで観戦していたが、発走を待つ馬たちの周りには、年の瀬特有のざわめきと静けさが同時に漂っていた。当時はまだグリーンチャンネルに加入しておらず、東京大賞典を中継していた地上波を探してチャンネルを回していたのだが、観ていたのは「TOKYO MX」だった(と記憶している)。当時それほど馴染みのなかったこのチャンネルの競馬中継で、驚きの実況に出会うことになるとは、筆者はもちろん予想もしていなかった。
そう、及川サトルアナウンサーの実況である。
ゲートが開き、スタートを切ると、飛び出したのはブルーホーク。その後ろ2番手につけていたのがサクセスブロッケン。その外すぐにカネヒキリがつけ、内から4番手にボンネビルレコードと大井の帝王・的場文男騎手、その外にヴァーミリアンという隊列で、先団に三強が揃い、その駆け引きが静かに始まっていた。
レースの隊列は大きく乱れることはなく、1コーナー、2コーナー、向こう正面へと進む。3コーナーを迎えるあたりで、後方の馬や三強以外の馬の鞍上の手が激しく動き始め、勝負どころに入るが、三強の鞍上の手はまだ動かず、馬なりのまま。4コーナーに入るところで、それぞれがスパートを開始すると、各馬の首の動きが激しくなり、直線を迎えた。
最初に抜け出したのがサクセスブロッケン──いや、「サァークセスブロッケーーーン!!!」。2頭のディープ世代の先輩たちを置き去りにしようとしたが、そう甘くはなかった。カネヒキリ、ヴァーミリアンに鞭が入ると、サクセスブロッケンを捕らえにかかる。サクセスブロッケンが再加速し、まさに「3頭によるせめぎ合い」となった。
こうなると、杉本清氏のフレーズを借りれば「もう言葉はいらない」マッチレースである。そこで聞こえてきた実況は、「みんな頑張れ頑張れー!!!」というものだった。もう強い馬たちが目の前ですごいレースを見せてくれているのなら、あとはもう3頭とも応援してしまえ、ということなのだろうか。
結局、最後はカネヒキリがサクセスブロッケンを差し切り、そしてヴァーミリアンの末脚をクビ差凌いで勝利をものにした。この年の砂の王者が決まった瞬間だったが、その激しい叩き合いを演じた3頭に拍手を送りたくなる、そんなレースであった。
■競馬の力
さて、文章の冒頭に述べた私事に戻るが、2008年は必死に生きた1年だった。そして今思い返すと、競馬に「生かしてもらえた」1年だった。
日本ダービー(ディープスカイ)で大きな馬券をプレゼントしてもらい、なんとかバイトを極力減らして転職活動に集中し、就職。そして何度も辞めようと思ったが、あの伝説の2008年の天皇賞・秋(ウオッカvsダイワスカーレット)、有馬記念(ダイワスカーレット)に感動をもらい、そして最後の東京大賞典でも力をもらった。
特にカネヒキリは、2年半を超える不治の病からの復活劇を現実のものとして見せてくれた。絶望からの復活——これは当時の私にも強く刺さる出来事だったが、同じように心を打たれた人も多かっただろう。
そう、「みんな頑張れ頑張れー!」という実況は、及川サトルアナウンサーが3強に送ったフレーズではあったが、2008年当時は私だけでなく、日本人、いや、もしかしたら世界中の人が、経済不安の中でやや疲れを見せていた時代だった。そんな時代にあっても、競走馬たちは必死に走り、我々に勇気と感動と力を与えてくれる。
この年だけではない。
2011年の大震災のときはヴィクトワールピサのドバイワールドカップ制覇やオルフェーヴルの三冠達成があり、コロナ禍ではコントレイルやデアリングタクトが三冠を成し遂げ、白毛馬ソダシが史上初の白毛馬によるG1勝利を挙げた。それぞれの時代、それぞれの形で、競馬は我々に力を与えてくれている。
もしかしたら、競走馬たちもまた「みんな頑張れ頑張れー!」と人間界にエールを送ってくれているのだろうか。そう考えるのはあまりにも都合がよすぎるが、そう思ってしまうくらいに、競馬の力はすごい。
東京大賞典は、その一年がまもなく終わることを告げるレースである。人それぞれの1年だっただろうが、それでも皆、新年を迎える。
それまでの最後の直線。みんな頑張れ頑張れー!
