三冠馬シンザンに阻まれ続け…。寺山修司のエッセイと振り返る「元祖二番手」ウメノチカラの馬生

1.「三冠馬の二番手」

「三冠馬の二番手」と聞いて思い起こす馬は、世代によって分かれるはずだ。若いファンであればサリオス(2020年、皐月賞・日本ダービーでコントレイルの2着)を挙げるだろうし、その上の世代だとウインバリアシオン(2011年、日本ダービー・菊花賞でオルフェーヴルの2着)やアドマイヤジャパン(2005年、弥生賞・菊花賞でディープインパクトの2着)になるだろう。

こう見ると分かるが、いずれの馬も古馬になってからGⅠを勝っていない。これは上記の3頭に限らず「三冠レースのいずれかで2着に入った馬」に範囲を広げても同様である(例外は戦前のミナミモアで、帝室御賞典競走、後の天皇賞に勝っている。矢野吉彦「“3冠馬の2着馬”のその後」netkeiba、2011年を参照)。同世代に強烈な煌めきがあると、その「二番手」には大きな壁が立ちはだかることになるのかも知れない。

そして、この立ち位置の「元祖」と言える馬が、本稿の主役・ウメノチカラである。

そもそも「ウメノチカラ」と聞いてもピンとくる読者は少ないだろう。そこで、まずは簡単にプロフィールを紹介したい。

ウメノチカラは1961年生まれの牡馬。父ヒンドスタンと母父プリメロは当時の大種牡馬であるから、良血馬と言ってよい。戦績は27戦9勝。当時はグレード制こそ無かったが、主な勝ち鞍に朝日盃3歳ステークス(現・朝日杯フューチュリティステークス)、NHK盃(現・NHKマイルカップ)、セントライト記念、毎日王冠、新潟記念がある。加えて日本ダービー・菊花賞・天皇賞(春)の2着という実績は、現代に照らしても名馬と言えるだろう。しかし、この馬の同世代には史上稀に見る煌めきを持った名馬がいた。「最強の戦士」と称された、1964年の三冠馬シンザンである。

競馬ファンなら知らぬ者はいないであろう、「五冠馬」シンザン。戦後初の三冠馬となり、古馬になってからも宝塚記念・天皇賞(秋)・有馬記念を勝利。日本のホースマンの目標としてその名を刻んだレジェンドである。

ウメノチカラはこのシンザンと同じ年に生まれたがために、「二番手」としての競走生活を送らざるを得なかった。

しかし、このウメノチカラに格別な眼差しを送った作家がいる。
「言葉の錬金術師」と称された寺山修司である。

2.「シンザンを必要とする時代」に翻弄されて

前提として、寺山修司は「シンザンを必要とする時代」に厳しい評価を持っていた。

この安定ムードの、無気力な時代に、人たちは忽然とあらわれるヒーローを待望している。佐藤栄作でも、L・B・ジョンソンでもない、もっと超人的な指導者が出現することによって、われわれの運命が一変させられることを、心のどこかで待ち望んでいるのだ。それが不敗の名馬シンザンを待望する心につながってくる。
しかし、ブレヒトではないが「英雄のいない時代よりも、英雄を必要とする時代のほうがもっと不幸な時代」なのだ。私はシンザン、大鵬、ジャイアンツ……といった安定株に身をまかせたがる小市民ムードというやつには、どうしても共鳴できがたい。

──寺山修司「競馬場で逢おう」(『馬敗れて草原あり』角川書店、1979年)より引用

寺山は英雄シンザンを待望する当時の人々から距離を置いていた。その熱狂にある種の危うさを感じているのは、昭和という時代も色濃く影響しているだろうし、寺山自身の感性によるところも大きいだろう。では、寺山はシンザンの「二番手」であるウメノチカラをどのように見ていたのか。

「黒鹿毛の詩」というエッセイに、「同級馬ウメノチカラ」という項がある。簡単に要約しよう。

寺山には「梅野力」という名の小学校の同級生がいたという。皆に好かれていたが、成績も足の速さもビリだった。その梅野と同じ名の馬を1963年11月の(旧)3歳のオープン戦で見つけた寺山は、ビリの梅野力が一等になるわけがないと思っていた。しかしウメノチカラはこのレースをあっさり勝つどころか、朝日盃も制してしまう。

年明けの同窓会で寺山は、集団就職で上京していた梅野が洗濯屋になって近く結婚することを聞き、ウメノチカラの好調ぶりが梅野力の好調ぶりに比例するのだと納得した。ウメノチカラは皐月賞3着、NHK盃勝利、ダービー2着と結果を残して「実力は関東一」と評されるようになり、梅野の方も無事結婚する。秋もセントライト記念を勝ったウメノチカラ。しかし、寺山は危惧を抱いた。

菊花賞に向かったとき、ファンはこんどはシンザンを負かすだろう、と思ったものだ。だが、私は、あの梅野が、日本一の馬を負かすなんて、と信じられぬ気持でいっぱいだった。

──寺山修司「黒鹿毛の詩」(『競馬への望郷』角川書店、1979年)より引用

その頃、寺山は梅野が妻を置いて洗濯屋の金を持ち逃げしたという話を聞く。そして、「梅野力の人生が狂ってしまったのでは、ウメノチカラの方も、もう走れないだろう」と考える。事実、シンザンをはじめ、ハクズイコウやミハルカスといった同時代の馬が出世する中でウメノチカラは結果を残せなかった。

勿論、「梅野力」にまつわる全てが事実とは思われない。しかしこの時代、集団就職で上京し、人生を掴みかけるもののふとした拍子で歯車が狂ってしまった人々の存在は、確かにあったのだろう。寺山は、そうした「時代の壁に阻まれた」人々の表象として、ウメノチカラを捉えていたのだと推測される。

少し注記しておこう。寺山が言及したハクズイコウはウメノチカラと同世代。天皇賞(秋)でシンザンの2着、天皇賞(春)でウメノチカラを従えての1着がある。ミハルカスは天皇賞(秋)や有馬記念でシンザンと名勝負を演じ、オールカマーなどに優勝している1世代上の名馬である。どちらも古馬になってからのシンザンのライバルと言え、本来ならウメノチカラが担うべきポジションにあった馬である。

ウメノチカラは古馬になってからも新潟記念と毎日王冠を連勝するなど決して「走れない」馬では無かった。しかし、シンザンと共に走った天皇賞(秋)と有馬記念は7着・8着と大敗。もはや「シンザンの二番手」という地位さえも取って代わられていたのである。競馬は、そして社会は、激しいポジションの奪い合いである。

ウメノチカラの置かれた環境の厳しさを、寺山は冷静に捉えていたと言える。

3.「名馬」ウメノチカラ

一方で、寺山はウメノチカラに温かい目も向けていた。エッセイ「旅路の果て」には次のような一節がある。

もし、シンザンがいなかったら?というのは、競馬ファンなら誰でも考えることである。日本一の名馬は、たぶんウメノチカラだったのだ。
ヒンドスタンとトキノメーカーとのあいだに生まれ、堂々たる黒鹿毛の体軀と、ブランドフォードの血を一八・七五パーセント受けついだウメノチカラは、いかにも名馬にふさわしい雰囲気を持った馬だった。

──寺山修司「あの馬はいずこに 旅路の果て」(『旅路の果て』新書館、1979年/河出書房新社より2023年復刊)より引用

ウメノチカラを名馬になりうる馬と讃え、その素質を称賛している。寺山はこの後段で、

だれが見ても、ウメノチカラには横綱の風貌があり、シンザンには、十両のようなみすぼらしい(あるいは、ボサボサ頭の書生の)イメージしかなかったからである。

──寺山修司「あの馬はいずこに 旅路の果て」より引用

と述べているから、シンザンと比べても高く評価していたのである。

しかし、結局は寺山自身がシンザンを大鵬に比したように「横綱」になったのはシンザンの方。ウメノチカラは大きな壁に阻まれることとなった。すると、寺山はその仔に期待をかける。

名馬と同じ年に生まれたのは、運が悪かったのさ、と言ってしまえばそれまでだが、私としてはウメノチカラの仔が、シンザンの仔とダービーで対決して勝つ、という夢を描かないわけにはいかない。何をやっても二番目だった人間にも、それにふさわしい栄光を与えてやりたいし、逆転のチャンスをもたせてやりたい。

──寺山修司「あの馬はいずこに 旅路の果て」より引用

シンザンは種牡馬としても一流であった。二冠馬ミホシンザンをはじめとして重賞馬を数多く送り出し、外国産種牡馬優勢の時代に内国産馬のエースとして活躍。寺山は知る由もないが、ノーザンテーストやサンデーサイレンスが日本の血統図を塗り替えた21世紀になってもスプリント王トロットスターや二冠牝馬メイショウマンボにその血を伝えている。さらには、「トウカイテイオー後継種牡馬」として話題のクワイトファインにも、シンザンの血が入っている。

対してウメノチカラは寺山の期待には応えられず、オープン馬を出すこともなく種牡馬を引退している。

「黒鹿毛の詩」の描写からして、おそらく寺山自身もウメノチカラが種牡馬として成功するという「夢」の実現性は高くないと考えていただろう。それでも、「英雄」に熱狂する時代への批判的なスタンスが、ウメノチカラという「壁に阻まれた者」への期待へと繋がったのだと思われる。

4.壁に阻まれた名馬への眼差し

シンザンの後も多くの「三冠馬」と「二番手」が生まれた。ミスターシービーにはメジロモンスニーが、シンボリルドルフにはビゼンニシキがいた。そしてその系譜はコントレイルとサリオスまで続いていくこととなる。寺山はミスターシービーの三冠達成の前に世を去っているから、彼らの戦いを寺山がどのように見たのかは想像する他無い。しかし寺山は、

人生はたかが一レースの競馬だ、という気がするのだ。

──寺山修司「競馬場で逢おう」より引用

と考えていた。「英雄」に身を任せる危うさを指摘した寺山は、時代の壁に阻まれた者たちの「人生」を語ることの大切さを痛切に感じていたに違いない。だから、おそらく「何をやっても二番目だった人間」への眼差しを忘れなかったであろうし、彼らの「栄光」を願ったであろう。

歴史には「英雄」だけが存在するのではない。その「英雄」たちに敗れ、壁に阻まれた名馬たちへの思いを胸に、本稿を終えたい。

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