カーンカーン!
高い金属音のようなものを耳にすると、香港のパドックでの光景が脳裏をよぎる。

──香港、行ったんだよなあ……。

2016年の天皇賞・秋。
満を持して抜け出すと、そのまま圧勝したモーリスを見て、感動のあまり泣きながら決意した。
次が引退レースになるだろう……だから、そのモーリスの最後となるレースを目に焼き付けよう、と。
天皇賞・秋のレースの帰り道、その足で旅行代理店へ向かった。香港へのツアーを予約するためだ。
隣のテーブルからは、イタリア・セリエAの試合を見たいという話が聞こえてきた。

スポーツ観戦のために、海外へ。
それはスポーツのジャンルかかわらず、どのお客さんも楽しそうに計画し、言葉にも熱がこもっているように感じられた。

大学生の頃に作ったパスポートはとうに期限が切れていた。
それくらい、海外は久しぶりだった。
家族に、1人で香港に行ってくると伝える。

過保護な母親には「競馬のために海外?1人で?馬鹿じゃないの!?」と止められるかと思ったが、意外にもあっさりと「あっそう。ランコムのマスカラあったら買ってきてね」と言われた。

母親も、娘の(競馬のための)一人旅行に、慣れ始めてきたのだろう。

問題は、仕事だ。
休日出勤はないものの、翌日の月曜日から忙しくなることが予想されていた。
正直な話、半日休みすら厳しい。
つまりは香港帰り、成田から直行で仕事をすることになる……。

しかし、そんなことはどうでもよかった。

モーリスのレースが楽しみすぎて、それどころではなかったのだ。


そして、旅行の日が近づいた。
長時間の飛行機、慣れない海外──国内旅行とは違う緊張感が、そこにはある。

「言葉ってどうなの?」「スマホとか使えるのかな?」「充電とかどうしよう?」「レストランで注文できるかな……?」「レース以外の時は何をしていよう……?」

色々不安は感じたものの、結局は楽観的な私。
「行けば何とかなるでしょ!」と、いつも北海道に行くような装備で向かうことにした。

12/10の15時頃、成田空港から香港へ。
機内では、ひたすら映画を見ていた。
シンゴジラが観られる!
すごい、すごいぞ香港航空。
機内はあまり退屈せず、映画をちょうど2本観終わった頃に着陸した。

空港で他のツアー客と待ち合わせするために通路を歩いていたら、ロンジンの看板と出くわす。

思わず、写真撮影。
周りを見ると、何人も撮影していた。

──そうか、みんな香港競馬か。よかった。

そこで、ちゃんとフライトを乗り越えられたのだと実感し、謎の安心感を抱いたことを覚えている。

待ち合わせ場所に到着すると、日本語が達者なガイドさんがいた。

「何が目的で香港まで来たの?」と尋ねられた。
モーリスが目当てだと答えると「モーリス?あの馬2000mは無理!マイルなら勝てるけど、香港カップには強い馬がいるからね!」と言われ、何故かやる気になる私。

「モーリス、絶対勝つから!見てなさいよ!」と言い放った。

そしてツアー客の点呼が終わり、ホテルへ。

部屋を確認して、明日の待ち合わせ時間を確認する。モーリスの強さを知らないガイドが、一人の私を気遣って「夜ご飯大丈夫?」と聞いてくる。

内心ドキドキしながらも、適当にウロウロするから大丈夫、と答えた。

旅行会社の担当者さんから、夜景も勧められたが、ホテルまで帰り着くか不安だったので回避。
夜景は見ないまでも、せめて雰囲気くらいは楽しんでこようも、ホテル周りをウロウロしてみる。建物や道の雰囲気、行き交う人の言葉……当然ながら日本ではないのだが、どこか日本にも似ている気がして、少し安心した。
夜ご飯は近くの飲食店で、肉まんと角煮がのった焼きそばを食べた。すこし甘辛いタレで、美味しい。メニュー表は英語と中国語、読めばギリギリわかるので助かった。指でさしながらの注文……ドキドキしたが、店員のおばちゃんがニコニコ対応してくれて、また少し安心した。

異世界じゃないんだから、そんなにビクビクすることないよね。不安に思っていたのもどこへやら、ホテルに戻るとベッドでぐっすり寝た。


朝、車のクラクションの音で起きた。
なかなか激しいクラクション音である。

さぁ、香港競馬の朝だ。

近くのコンビニで朝ごはんを購入した。
ついでに新聞も購入。すごい、なんて書いてあるかまったくわからない。

そうか、ここは日本じゃないんだった。

コンビニのおばちゃんは、昨日の飲食店のおばちゃんと違い、塩対応と呼べるものだった。
金額も言わない、おつりも無言で渡す、ありがとうもない。
良くも悪くも日本は過剰サービスなのかもしれないな、と思った。

そこからホテルへ戻り、荷物をまとめ、 バスに乗り込む。
30-40分ほどで競馬場へ着くと案内されたはずなのに、15分ほどで着いた。入場まで時間があるからと、少しの間外で待つ。

そしてバスが進み始めて、いよいよ入場。
日本の競馬場のような入場門ではなく、扉を開けて入る形式だ。
香港国際競走のオリジナルキャップが配布されていたので、それを被ってテンションをさらに高める。

日本と違って、着飾った女性や男性が多くいるように感じた。お目当てのレースまではまだまだであるので、のんびり場内を散策してみた。

日本人向けのパンフレットがあるので、馬券の買い方も問題なくわかった。

そしていよいよ香港国際競走がはじまる。騎手の紹介がおわり、パドックが始まった。

どこの国の馬だろうか。周回をして前を通ると歓声が上がる事があった。そしてそれに手を挙げて応える、厩務員さんらしき人。

まるで、お祭りのような雰囲気だった。

ふと、カーンカーンという、金属音がした。
どうやら、パドックから馬場に出る時の騎乗の合図のようだ。係員が、金属の棒で柵を叩いているのが見えた。
日本のように「とまーれー」という号令をかけるわけではないのだなと、とても印象に残った。

そうしてパドックをひとしきりみたあと、馬場へ。

最初は香港ヴァーズ。

日本からはサトノクラウン、ヌーヴォレコルト、スマートレイアーが出走。

『マジックマン』を背に、サトノクラウンが見事勝利を飾った。

なんて幸先のいいスタートなんだろうか!

馬場は少し遠いけれど、レースを終えた馬たちが帰ってくる場所はとてつもなく近い。息遣いが聞こえてくるくらいの近さだった。

二戦目は香港スプリント。

日本からはビッグアーサー、レッドファルクス。安定の強さをみせて勝ったのは、地元のエアロヴェロシティだった。

勝ったと確信した時のスタンドの盛り上がり方は、さすが地元というものだった。

三戦目は香港マイル。

モーリスを最初から最後まで見たい……そう思った私は、香港マイルの観戦を諦め、パドックで陣取ることにした。お目当てのレースは、すぐそこだ。

日本の関西から来た女性と、隣になった。

彼女は武豊ファンで、エイシンヒカリを応援しに来たのだそうだ。お互い自分の応援馬が勝つと信じて疑わなかった。

幸いにも人は少なく、パドックのビジョンに香港マイルのレースが映し出され、日本馬のロゴタイプ、ミッキーアイル、サトノアラジンを応援。

直線に入り、もうすぐゴール!

応援にも熱が入ってきた頃だった。

それと同時にもうすぐ訪れるモーリスの引退レースに気持ちが昂り、私はすでに、涙していた。

──その時だった。

視界に灰色の『何か』が映りこんだ。
ふとパドックに視線を戻すと、芦毛の馬が手綱をぶらつかせて、パドックを走り回っていた。

エイシンヒカリ……!?

なかなかの速度でパドックを疾走する、エイシンヒカリ。モーリスへの感傷も涙も、思わずひっこんだ。
ヒカリ、君は何をしてるんだ!!!
エイシンヒカリの手綱がぶらついているせいで、いつ足を滑らせてしまわないかが心配で心配で「ヒカリ、お願いだから落ち着いてくれ……」そんなことばかり願っていた。

そんなハプニングもありながら、エイシンヒカリは無事に捕まり、電光掲示板の真下にある扉の奥へと消えていった。

程なくして香港カップの出走馬たちが入ってくる。
モーリス、ステファノス、ラブリーデイ。
日本でもG1戦線を賑わす名馬たちが、パドックを歩いていく。

すこし遅れて、エイシンヒカリがパドックへ仲間入り。怪我はなかったようだ、良かった。
まだ暴れてはいるけれど。
ジョッキーたちが騎乗し、本馬場へと向かっていく。
返し馬に入る前はバタバタしていたが、そこはみな百戦錬磨の馬たちである。すぐに落ち着きを取り戻していた。

そして、ゲートが開く。
モーリスはすこし出負けした形になった。
エイシンヒカリが抜群のスタートを見せ、レースを引っ張るかたちになる。

モーリスは後ろからの競馬となった。
そこから抜けて来るのか、どうなのか。

わたしの目は、ターフビジョンに映し出されるモーリスを追っていた。

直線に向いた時、モーリスはまだ馬群の後方にいた。

内を選択したが、馬群の壁がある。
勝ってほしいけれど、怪我はして欲しくない。無理はしないで欲しい。
複雑な気持ちで、モーリスを見つめていた。

エイシンヒカリが先頭で粘るところに、後続が差を詰めてくる。
狭いところをスッと抜け出すモーリス。
目の前にはエイシンヒカリ。

「避けられるのか?左にスペースはあるのか?」という杞憂をよそに、モーリスはエイシンヒカリを交わした。

そしてそのまま後続を置き去りにして、先頭でゴールした。

湧き上がる歓声。

「モーリス!モーリス!」と、たくさん声が聞こえてくる。
パドックで知り合った武豊ファンの女性に「モーリス強かったね!おめでとう!よかったね!」と声をかけてもらえた。

安心したと同時に、再び涙が溢れてきた。
周りの外国の方たちも、日本人の私をみてモーリスの強さを讃えてくれた。外国の方々がモーリスの走りに注目してくれたのが、嬉しかった。

「そうだよ、これが日本競馬が育て上げたモーリスだよ!」と、誇らしげな気持ちになった。

自分で撮った天皇賞・秋の写真を持って、モーリスとムーア騎手が帰ってくるのを待っていた。

それをみた外国の記者たちに「素敵な写真だね」とお褒めの言葉をいただけたのも、香港の思い出を振り返る時に嬉しかったこととして記憶に残っている。

そしてムーア騎手にも、サインを頂けた。
香港競馬の名物であるレース後セレモニーを見ず、バスに乗りこみ空港へ向かう。
帰りのバスで、モーリスの強さを知らなかったガイドさんに「モーリス強かった!あの馬はすごい!勝てないなんて言って恥ずかしいよ……」と言われた。

彼女は「モーリスの強さを知るガイド」に進化したようだ。
競馬帰りに空港へ直で向かうのは、私を含め4人だった。
グラスワンダーのファンでモーリスを応援していたという男性2人組と、ステファノスを応援する女性1人。
お疲れ様のコーヒーを飲みながら、夢のような時間の終わりを過ごした。

そして、それぞれ別の座席へ。
成田についたら会社に向かって、すぐ仕事だ。到着時刻は確か午前6時半。我ながらタイトである。
寝なくちゃと思いつつ、アドレナリンが出ているのか寝付けない。

飛行機からみえる朝日を見つつ、香港競馬を見に行ってよかったと思った。

日本近代競馬の結晶はディープインパクトと言われるが、私自身はモーリスもそう呼ぶのに相応しい1頭ではないかと思っている。

昔から日本で活躍してきた名馬たちが、メジロ牧場などが無くなったとしても、こうして血の中に残り続けて、海外からも賞賛されるような名馬を創り出したのだ。

強さや速さが全てではないけれど、またモーリスのような競走馬に会える日を楽しみにしている。

願わくばその馬が、強さ、速さ、美しさを兼ね備えたモーリス産駒であれば嬉しいだろうなと思う。

頑張れ、モーリスの子供たち。

君たちの親父はとんでもなく強く、速く、そして美しい競走馬だった。

写真:s.taka

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