1997年2月1日、京都競馬場。

曇天の寒空だった。
その日のメインレース、すばるステークスのファンファーレが高らかに鳴り響く。

このレースを最後に引退する、中央競馬では速いスタートで誰にもハナを譲ったことがない、快速韋駄天で鳴らしたスリーコースもゲートインした。

発走態勢が整った、その直後だった。
どうやらゲート内で激しく暴れて転倒した馬がいたらしい。
スターターも慌てふためいたように台上から降りる。

暴れた馬は転んだまま、なかなかゲートから出てこない。

テレビからは、転倒した馬の名前がなかなか出てこなかったが、実況中継が「一頭ゲート内で倒れているようですが、サンエムキングでしょうか……いやスリーコースです」と告げた瞬間、僕は凍り付いた。

スタート地点の様子が流れる。

転んだまま激しくもがく様子は、それだけで、ただならぬ事態であることを予感させるに十分事足りていた。

競馬の悪魔が射抜いた矢は、引退レースを迎えたスリーコースを、発走直前に貫いてしまった。

スリーコースは父キンググローリアス、母スリーリオンという血統。

兄弟馬では目立った活躍馬はいなかった。兄弟馬はいずれもダートで好走していたという背景からか、中央競馬ではなく、愛知の公営名古屋競馬場で1993年9月にデビューを果たす。

地方在籍時は8戦4勝。

12月の名古屋競馬場のゴールドウイング賞では、後に中央移籍して桜花賞を勝つことになる、当時笠松在籍のオグリローマンとも対決。結果はオグリローマンの勝利におわったが、スリーコースも3着に入着していた。

そして4歳時(現3歳)、笠松の新春ジュニア4歳オープン・東海クィーンカップなどの重賞勝ちを引っ提げ、中央競馬へ移籍。

彼女の「快速韋駄天伝説」は、1994年3月の、京都競馬場改装工事の影響で中京競馬場芝1700メートルで争われたチューリップ賞(当時は重賞ではなく桜花賞指定オープン)から始まる。

そのチューリップ賞こそ14頭立て13着と大敗したものの、続く阪神競馬場のアネモネステークスで4着に入着。

中央競馬の夢舞台、4歳女王を争う桜花賞へとコマを進めた。

桜花賞でも好スタートから、快速先行で鳴らしていた中央馬・メローフルーツのハナを叩いて先手を主張。目立った走りではあったものの、結果は17着と大敗だったため、陣営は短距離からマイル路線へと狙いを定める。そこから、ハードなローテーションながらも4歳オープン特別マーガレットステークスで2着に入るなどの活躍を見せた。

彼女の初勝利は、夏からの休養を挟んだ初戦、古馬になった1995年2月の京都競馬場の自己条件、平場のダート1200メートルの900万下条件。
もともと公営名古屋の出身でダートが合いそうな血統である。その後も芝ダート問わず短距離からマイル路線で使われ続け、降級直後の6月の札幌競馬場、芝1000メートルの北斗賞を優勝。
直後には芝の1200メートルの札幌スプリントステークスに果敢に挑戦し、ここでもハナを主張するも16着に大敗。

彼女の好調期は、5歳(当時)を迎えた秋に訪れる。
札幌から帰ってきた彼女は、京都の準オープンを連勝。

自己条件連勝となった1995年10月の貴船ステークスも、スタートから3馬身、4馬身とどんどん差を広げ、4コーナーでは後続に7馬身近いリードをもって逃げ切るという圧巻なレースを披露。
しかし当時、貴船ステークスの馬券は関東エリアでは発売されておらず、関東のファンで彼女の韋駄天ぶりを知る人は、毎週全レースのチェックをしている、とりわけ熱心なファンに限られていた。

彼女の名前が一気に全国のファンに知れ渡ったのは、晴れてオープン馬になった直後に挑んだ1995年11月の根岸ステークスであった。

この日の彼女の逃げ脚ぶりは、現在と比較しても仰天するようなハイペースだった。

東京競馬場のダート1200メートル、入りの600メートルをなんと33秒4で逃げるという、玉砕覚悟とも思える快速先行。ラストはヤングエブロスやイブキクラッシュの差し脚に屈したものの、これだけのハイペースでもなお、自身もラスト600メートルを37秒8の脚で3着に粘ったのである。

普通なら4角でふらふらになって壊滅的な大敗を喫しても全く不思議ではないハイペースを、まさに二枚腰、三枚腰と言える粘り腰を見せたのだ。

これにびっくりしたのは、誰あろう関東の競馬解説者で。
「関西にとんでもない逃げ馬がいる」と、ファン共々びっくり仰天し、一躍全国区に名をあげたのであった。

その後冬場を休養し、彼女の走る舞台として選ばれたのは、芝の短距離路線であった。
京都のシルクロードステークス、中京の高松宮杯、オープン特別だった札幌のキーンランドカップと、いずれも芝の1000メートル~1200メートルを使われ続けたが、どの舞台であってもたえず最高のスタートを切り、他馬に影を踏ませぬ快速韋駄天ぶりそのものは健在であった。しかし一方で、結果はなかなかついてこなかった。

芝で見切りをつけた陣営は、ダートに本腰を据え、札幌のダート1700メートルタイムス杯を選択。そこで先手主張から3着に粘り込む走りを見せる。

1996年初秋に行われた阪神競馬場のオープン特別ギャラクシーステークスでは、ダート短距離での快速韋駄天ぶりを買われ1番人気に支持されたが、これまで久しくなかった13着という大敗を喫する。

おそらくは彼女の調子も、1995年に比べたらやや下降気味であったのだろう。1996年11月のギャラクシーステークスで2着に入ったが、年を越え1997年、7歳(現6歳)になった彼女は1月の京都G3平安ステークスに挑戦するも、ダート1800メートルという距離が災いしたのか、相変わらず4コーナーまでは誰にもハナを譲らなかったものの、12着と惨敗。

そしてやがて、快速韋駄天の彼女の遺伝子を後世に伝える役割を負うべく、彼女にも引退レースが用意された。

得意な距離であるはずの、京都ダート1400メートル、すばるステークス。

しかし、彼女は発馬からかっ飛ばして誰にも影を踏ませないどころか、レースそのものから韋駄天の如く去ってしまったのだ。

彼女に下された非情な診断は、左第一指関節開放脱臼。予後不良の処置がとられたのであった。

もしスリーコースの子供がいたとしたら。
血統的には地味だっただろうが、母の快速韋駄天ぶりが発揮され、ダート短距離の交流重賞勝ち馬を輩出することが出来たかもしれない。

レースで発馬するごとに、時に玉砕的、破滅的とも評された快速韋駄天の能力を、後世に伝えられなかったことは、厩舎、生産者関係はもちろんのこと、ファンも痛恨の極みであった。

そしてもう一つ、触れておかなければいけない歴史的背景がある。

スリーコースが活躍した1995年~1996年頃は、中央、地方交流のダート重賞が整備され始めた黎明期で、1995年などは「交流元年」と呼ばれる年である。
ダート交流重賞の距離体形がまだ整備途上だったこともあいまって、スリーコースのような馬は、必然的に中央のダートオープン競走を使うことを余儀なくされていた。

もしこの時代にダートグレード競走の距離体形が完成していたとするなら──スリーコースは、短距離の交流重賞をいくつも手にしていたに違いない。
これだけの馬であるにもかかわらず、代表勝ち鞍が1995年貴船ステークスという準オープンレースになったのは、かような時代背景もあったのである。

今でも、スリーコースがもしお母さんとしてこの世に血を残せていたとしたら……と思うことがある。

特に重賞勝ち馬でもない、戦績的には最高クラスが準オープン勝ちという、一見地味な馬ではあったけれども、抜群の発馬のセンスと、壊滅的とも思える快速韋駄天ぶりは、ぜひ若い競馬ファンの方々にも知っていただければ……と思い、筆を執った次第である。

今一度、その名を広めたい。
引退レースで悲劇に見舞われた、快速馬の名前を。

その名は、スリーコース。

写真:かず

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