思ひ出づる 折りたく柴の 夕煙 むせびもうれし 忘れ形見に
新古今和歌集巻第八『哀傷歌』~後鳥羽天皇
『折りたく柴の記』という作品がある。
江戸時代中期に新井白石が書いた随筆で、完成したのが享保元(1716)年。生家である新井家のことや、政治的体験談などが記されている書物だ。タイトルである『折りたく柴の記』は、冒頭に書かれた句に由来している。
現代風に訳せば『思い出の記』という意味合いになるのだが、新井白石にとっての“忘れ形見に うれしむせぶ人”とは、徳川六代将軍の徳川家宣のことだった。
時代は流れて、平成時代の1995年。
オリックス・ブルーウェーブ(当時)のユニフォームの袖には【がんばろうKOBE】という文字が縫い付けられていた。阪神・淡路大震災からの復興を掲げたオリックス・ブルーウェーブが、パリーグの首位を争っていた時期でもあった。
競馬の世界でも、例年なら阪神競馬場で行われるはずの宝塚記念が“震災復興支援競馬”という副題が加えられ、場所を京都競馬場に変更して行なわれることになった。
この年の宝塚記念は17頭立てで行なわれたが、そのなかに1頭の地方馬がエントリーしていた。
トミシノポルンガ。
JRAへの移籍前、まだ笠松競馬に所属していた安藤勝己騎手がその背に乗っていた。宝塚記念の前走は、中京競馬場の芝コースで行われていた東海桜花賞。当時は芝2000mで施行されていた地方重賞を勝利して、余勢を駆っての宝塚記念出走だった。
けれど、いくら前走で芝のレースを勝って来たとはいえ、中央のG1レースとなるとさすがに人気は下から数えた方が早く、この宝塚記念では14番人気だった。
トミシノポルンガの父サンオーイは、1983年の南関東の三冠馬。暮れには古馬相手に東京大賞典も制した名馬である。
翌1984年の年明けには大井競馬場で大々的にサンオーイの壮行会が開催され、大井のファンの期待を一身に受けて中央競馬へと移籍した。大目標だった春の天皇賞には間に合わなかったものの、札幌日経賞を勝ち上がり、秋は同期で中央競馬の三冠馬、ミスターシービーとの対決が話題となった。最初の対決となった毎日王冠でサンオーイは1番人気に支持されたものの、カツラギエースの絶妙な逃げを捕まえることが出来ずに3着に敗退。
続く天皇賞(秋)でも6着に敗れ、完全にミスターシービーに主役を譲る形になった。
これ以降、サンオーイは迷走を続けることになる。
1985年に上山競馬場へ転出され1勝を挙げると、今度は古巣の大井競馬場へ復帰。しかし2戦未勝利という成績に終わると、再び上山競馬場への移籍が決められるなど、彼を取り巻く環境はめまぐるしく変わっていった。
引退後、種牡馬となったサンオーイは3年目のシーズン途中だった1989年5月に、心臓麻痺で急死。検死が行なわれたところ、亡くなったサンオーイの心臓には数箇所の壊死が見つかった。つまり、サンオーイは生前から心臓疾患を抱えていたということになる。
そんな数少ないサンオーイの“忘れ形見”がトミシノポルンガだった。
トミシノポルンガはダービーグランプリを制し、1994年のNAR最優秀古馬牡馬を受賞するほどの馬へと成長する。
このサンオーイのエピソードを知って以来、私はトミシノポルンガに肩入れしていた。三冠馬対決と大いに注目を集めたスターだったにもかかわらず、サンオーイの最期が、私にはあまりにも悲しかった。振り回され続け、さらには心臓の病に苦しみながらも生き続けていたサンオーイ……そんな彼に敬意を表して、トミシノポルンガを応援し続けていこうと決めたのだ。
初めてトミシノポルンガの馬券を買ったのは、1994年のオールカマーだったが、そこでは4着に敗れた。ビワハヤヒデ、ウイニングチケットというG1ホースだけでなく、重賞競走の常連だったロイスアンドロイスにも先着を許した。しかもそのロイスアンドロイスとトミシノポルンガの間には、7馬身もの大差がついていた。
トミシノポルンガは芝の重賞競走では一歩足りないのだろうと頭では分かっていながら、私は宝塚記念でもトミシノポルンガの単複馬券を買った。少しでも上の着順に来て、亡き父サンオーイの名を高めて欲しい、という思いで。
一方で、未来の種牡馬入りを目指してトミシノポルンガと同じ宝塚記念に出走していたのが、ライスシャワーだった。
彼は天皇賞(春)を二度制したものの、種牡馬としての買い手が付かなかった。この当時から競馬の世界ではスタミナよりもスピードが重視されるようになっており、ライスシャワーのような生粋のステイヤーは生産界では敬遠されるようになっていた。
菊花賞でミホノブルボンの三冠を、さらに翌年の春の天皇賞ではメジロマックイーンの三連覇も阻止。大きくはない体で一生懸命レースを走って、素晴らしい実績を残した馬にもかかわらず、だ。
何とかして種牡馬入りをさせたいと願った飯塚好次調教師は、ライスシャワーの宝塚記念出走を決断する。一時期のスランプを脱し、天皇賞(春)を2勝したことでファン投票も1位、多くの競馬ファンの後押しもあった。
芝の中距離でのスピード決着にも対応し、質の良い繁殖牝馬を1頭でも多く集めて種牡馬として成功させたいという飯塚調教師の“親心”でもあった。
けれど、ライスシャワーは京都競馬場の3コーナーで転倒。その場で安楽死となった。
子の活躍を見ずに逝ってしまったサンオーイは、さぞかし無念であったと思う。そして、子を残すことが出来ずにこの世を去ることになったライスシャワーも同じぐらい無念ではなかったかと思う。
我々競馬ファンは生き物である「馬」を応援する以上、その生死には敏感にならざるを得ないときがある。時には
「こんなにツライ思いをするのなら、競馬なんか知らなければ良かった」
と考えることすら、あるのではないだろうか。
競馬を始めて何年経っても、競走中止という言葉を聞くと嫌な汗が出るし、予後不良という単語から耳を塞ぎたい気持ちになる。
でも綺麗事ばかりでは済ますことが出来ないのも、また競馬だ。1年に何頭ものG1ホースが誕生し、関係者は賞賛されることもある。その一方で、かつて一世を風靡した馬が人知れず、ひっそりと死を遂げていたエピソードなんて山のようにある。
過去よりも<現在>と<未来>の時間軸が大事だというのも分かるけれど、せめて私一人ぐらい、令和の時代になった日本で「サンオーイ・トミシノポルンガ親子」について語る人間が居ても大目に見てもらえないだろうか。
トミシノポルンガという馬名の由来は、トミシノは冠名であり、ポルンガとは、アニメ『ドラゴンボール』で使われているナメック語で「夢の神」を意味している。
天国に居るサンオーイは、今でも孝行息子の夢を見るのだろうか。
それとも、息子と同じレースを走ったライスシャワーと話をしているのだろうか。
「あなたの、そして私の夢が走ります」
宝塚記念といえばこのセリフが有名だが、私はこのレース名を見聞きするとトミシノポルンガとライスシャワーが淀の競馬場を駆け抜ける夢を今でも見てしまうのだ。
そして、おそらく、この先もずっと。