川崎記念は年明け最初のJpnIレース。近年はここをフェブラリーSやドバイワールドカップのステップにする陣営も増えたため、より注目が高まっている。
その歴史は古く、1950年に戸塚競馬場を引き継ぐ形で川崎競馬場が開場すると、それを記念して翌51年に「開設記念」が設けられた。これが川崎記念の前身にあたるレースで、79年から「川崎記念」に改称され現在に至っている。
第1回開催時の施行距離は3000mで、そこから距離が何度も変わり、現行の2100mに落ち着いたのは99年から。96年からJRAとの交流競走になると、98年からGIに格付けされた。今回は川崎記念での活躍が印象的な優勝馬4頭をご紹介したい(年齢は現在の数え方で記載)。
カウンテスアップ(1985年・86年・87年)
このレースで初めて3連覇を達成したのが、東北・南関東・東海と3地区を渡り歩いたカウンテスアップである(3連覇は2014~16年にホッコータルマエも達成)。
カウンテスアップは1983年に盛岡競馬場でデビューすると、2戦目から11連勝をマーク。東北3歳王者決定戦である東北優駿(上山ダ1800m)など東北の主要な3歳戦を総ナメにし、3歳までで18戦16勝2着2回、”東北4冠馬”の触れ込みで明け4歳から南関東に舞台を移した。
移籍2戦目に出走した川崎記念(川崎ダ2000m)では、後に中央で行われた地方競馬招待(福島芝1800m)で中央馬相手に圧勝するなど80年代の南関東を代表する名馬テツノカチドキ、地方通算7151勝を挙げた”鉄人”佐々木竹見騎手が駆るホーワスターらを引き連れ逃げを打つ。そして直線半ばでそのライバル2頭が並びかけてくると、カウンテスアップは二枚腰を使ってテツノカチドキをクビ差抑え優勝した。
この年の秋、東海地区へ参戦し、名古屋競馬場で3連勝をマーク。特に名古屋大賞典(名古屋ダ1900m)では17頭の登録馬のうち11頭が辞退し、レース史上最少(当時)の6頭立てになってしまうほど、実力は抜けていた。そして単勝・複勝は100円元返しという圧倒的支持に応えて完勝を収めたのであった。
南関東に戻ると、またも年明け2戦目に川崎記念を選択。スタートこそイマイチだったものの、1周目のスタンド前で逃げ馬の外につけると、持ち前の根性を発揮し、地元・川崎で連対率100%のヒデノキクオーの猛追を半馬身退け2連覇を飾った。なお、さらに3/4馬身差の3着にはテツノカチドキが入った。
この後は60kgを超える斤量を課せられることもあり苦戦が続いたものの、56kgで出走した東京大賞典(大井ダ3000m)で優勝。3連覇をかけ、川崎記念に出走する。
メンバー中最重量の61.5kg、最軽量ハンデとの差は実に13.5kgもある過酷な条件だった上、スタートで出遅れてしまったカウンテスアップ。しかし1コーナー手前で2番手に浮上すると、逃げ馬をがっちりマークする。直線ではカウンテスアップと道中最後方から捲って上がってきた、85年全日本三才優駿(現・全日本2歳優駿)優勝馬ミハマシャークとの一騎打ちをアタマ差下し、川崎記念史上初のV3を達成した。
カウンテスアップは次走の帝王賞(大井ダ2000m)でテツノカチドキの3着に敗れたのを最後に、現役を引退。引退後は種牡馬となった。ゲームのウイニングポストやダービースタリオンにも登場しているため、それで覚えている方もいるかもしれない。
ロジータ(1990年)
ロジータは、川崎記念の歴史上、最も印象的な勝利を挙げたと言っても良いであろう。彼女は史上初めて、南関東牡馬三冠を達成した牝馬だ。
ロジータの母メロウマダングは1ハロン(200m)を10秒台で駆け、デビュー戦でレコードを記録すると2戦目で更に自身のレコードを更新した快速牝馬だったが、脚が弱くわずか4戦3勝うちレコード2回で引退した。この母の2番目の仔として1986年に生まれた牝馬は、当初から非凡なスピードを見せる。牧場内では「ピューちゃん」と呼ばれていたその若駒は、やがて牧場に咲いていたユリの花から、ロジータと名付けられた。
現役生活については改めて書くまでもないだろう。2歳時は4戦2勝ながら3歳になると5連勝で南関東牝馬三冠の一冠目・浦和桜花賞(浦和ダ1600m)、牡馬三冠の一・二冠目である羽田盃(大井ダ2000m)と東京ダービー(大井ダ2400m)を制し、秋にはジャパンカップ(東京芝2400m)に出走。オグリキャップとホ―リックスが世界レコードで叩き合ったレースで最下位に敗れ、肉体面・精神面でのダメージが心配されたが、見事復活。三冠目の東京王冠賞(大井ダ2600m)で三冠を達成すると、古馬の一流馬相手の東京大賞典(大井ダ2800m)も優勝し、翌90年の川崎記念(川崎ダ2000m)で引退することになった。
レース当日は約3万8000人もの観衆が押し寄せ、発走時刻が30分も遅延する事態に。単勝オッズは100円元返し、単勝支持率は75%超えという、ディープインパクトに迫る支持を受けた(2005年菊花賞で79.03%)。スタートこそ4、5番手に控えたものの、3コーナーで動き始めるとあっという間に先頭に並びかけ、そこからはワンマンショー。気がつけば2着に8馬身の差をつけていた。
圧倒的なインパクトを残し、競馬場を去ったロジータ。引退した90年12月には彼女を記念してロジータ記念が創設され、繁殖牝馬としても優秀な子孫を輩出した。2001年には孫のレギュラーメンバー、03年には産駒のカネツフルーヴが川崎記念を制している。
ホクトベガ(1996年・97年)
ホクトベガはアドマイヤベガの母ベガやユキノビジンの同期で、彼女たちと牝馬クラシックを戦ったライバルでもある。その能力は、ダートで花開いた。
4戦3勝で迎えた93年3歳春のクラシックは桜花賞(阪神芝1600m)5着、オークス(東京芝2400m)6着と二冠牝馬ベガの前に敗れたが、エリザベス女王杯(京都芝2400m)でそのベガと翌年のマイルGⅠを2勝するノースフライトを破り、初GⅠ制覇。「ベガはベガでもホクトベガ!」の実況は有名である。
しかし古馬になってからのホクトベガは、札幌での2連勝こそあったものの勝ち切れないレースが続き、デビュー時に500kgあった雄大な馬体も4歳暮れには470kgほどにまで落ち込んだ。そこで障害練習を取り入れると5歳初戦のアメリカJCC(中山芝2200m)で見せ場十分の2着に入り、復調の気配を漂わせる。そして6月に運命のエンプレス杯(川崎ダ2000m)でヒシアマゾンと共に出走登録(ヒシアマゾンはのちに回避)されると、なんと18馬身差の圧勝劇を演じてみせるのであった。
その後は芝GⅠや重賞を5戦するも未勝利に終わり、96年初戦は川崎記念(川崎ダ2000m)で迎えた。しかしこのレースには、7連勝でフェブラリーS(東京ダ1600m・当時はGⅡ)・帝王賞(大井ダ2000m)などを制し第1回ドバイワールドカップ(ナド・アルシバ、ダ2000m)を目指すライブリマウントがいた。「負けたらそこでお終いにしよう」と考えていた陣営は、この川崎記念を引退レースにして繁殖入りさせるつもりだったという。
──しかし、再び彼女は甦る。
後方からスタートしたホクトベガ。1〜2コーナーで3、4番手に上がると、逃げ馬をなかなか交わせないライブリマウントを尻目に3コーナーすぎで一気に先頭へ。直線でも脚色は衰えることなく、気づけば2着のライフアサヒ(名古屋競馬所属)に5馬身差の圧勝。ライブリマウントはさらに1馬身差の3着に入り、これを見たホクトベガ陣営は引退を撤回した。
そしてここから10月の南部杯(水沢ダ1600m)まで、ホクトベガはダート重賞を7連勝。サクラローレルが制した有馬記念(中山芝2500m)9着ののち、ドバイワールドカップを目指し翌97年の川崎記念に出走した。
そこには前年の皐月賞馬でありダービーグランプリ(盛岡ダ2000m)も制したイシノサンデー、前走東京大賞典(大井ダ2800m)を優勝したキョウトシチー、その東京大賞典で2着だった地方重賞の常連コンサートボーイなどの強豪が集結。実質的に、ドバイへ向けた日本代表馬選定レースとなった。
そこでもホクトベガは圧倒的な強さを見せる。スタートから4番手の好位につけると、1周目の直線で早くも先頭を奪い、スタンドから歓声が上がる。向正面では楽な手応えで逃げるホクトベガに対し、3コーナーでキョウトシチーらが迫ってきたのも束の間。追走馬の手応えが一杯になっても、鞍上・横山典弘騎手の手は動かなかった。
そして直線で横山騎手の手が動くと後続を突き放し、2着のキョウトシチーに3馬身の圧勝。レース後に横山騎手は「気合をつけたのは直線だけ。この手応えなら付いてこられる馬はいないと勝利を確信した」とコメントする強さだった。
こうして勇躍ドバイへ向かったホクトベガと横山騎手だったが、ドバイでは環境の変化に戸惑い、26kgも体重を落としたうえ、左前脚に軽い裂蹄(蹄が裂けること)を発症し調教を休むなど苦しんだ。しかし関係者の努力でレースが可能な状態まで回復。さらに雨で5日後に開催が延びたことで調整する時間もでき、”恵みの雨”となるはずだったが──。
4月3日、ホクトベガは4コーナー手前で落馬。立ち上がりかけたところに後ろから来た馬に脚をすくわれ、再び地面に倒れると、もう起き上がることはなかった。かつて強さの秘訣を尋ねられた中野調教師は「彼女はモナリザ。その強さは永遠の秘密」と答えた。そしてその謎を解き明かすことなく、彼女は旅立った。
「まだ走ってたの」と揶揄されることも時にはあった。しかしそれでも懸命に走り、ダートという新天地を見つけたホクトベガ。最後は異国の砂の上で星になった彼女のことを、私を含めファンはいつまでも忘れないだろう。それはまさに、モナリザのように。
ヴァーミリアン(2007年・10年)
ヴァーミリアンは父が凱旋門賞2着のエルコンドルパサーで、母のスカーレットレディは叔母(母の妹)がダイワスカーレットやダイワメジャーを産んだスカーレットブーケという良血馬。2004年にデビューすると、かつてアグネスタキオン(01年皐月賞)やメジロブライト(98年天皇賞・春)など数多のGⅠ馬を輩出したラジオたんぱ杯2歳S(阪神芝2000m、現・ホープフルステークス)を優勝し一躍クラシック有力馬として注目を集めたが、皐月賞(中山芝2000m)12着をはじめ3歳芝重賞で大敗を繰り返す。そして2歳年上の半兄サカラートがこの年の東海S(中京ダ2300m)を勝つなどダートで活躍していたこともあり、ダートへ転向した。
すると秘めていた才能が開花し、ダート初戦のOPエニフS(京都ダ1800m)を勝利。続くGⅡ彩の国浦和記念(浦和ダ2000m)も勝利し、ダート転向後2連勝と幸先の良いスタートを切る。翌2006年はダートGⅠにも挑戦するものの、フェブラリーS(東京ダ1600m)5着、心房細動明けのジャパンカップダート(東京ダ2100m)4着と、惜しい競馬が続いた。そして、初のGⅠ級タイトルを目指し、2007年初戦を川崎記念(川崎ダ2100m)で迎えることになった。
そこには、前年優勝馬で当時GⅠ5勝を挙げていた地方の雄アジュディミツオーを筆頭に、ダートの条件戦を連勝し前走平安S(京都ダ1800m)3着のシャーベットトーン、前年に川崎記念と同じコースで行われたJBCクラシック(川崎ダ2100m)で3着に入ったボンネビルレコードなど、骨のあるメンバーが揃った。しかしそんな中でヴァーミリアンは単勝1.7倍の圧倒的1番人気に支持された。
レースも、その人気に応えるものだった。逃げるアジュディミツオーを2番手でマークすると、4コーナーで楽々と交わし去り、同馬に6馬身差をつけ、G1初制覇を飾ったのだ。その後はダートGⅠ4連勝・JBCクラシック3連覇(2007〜09年)・ドバイワールドカップ(ナド・アルシバ、ダート2000m )に2年連続で出走(07年4着、08年12着)するなど、日本ダート競走のエース格として君臨した。
そして2009年。この年のJBCクラシック(名古屋ダ1900m)でアドマイヤドン以来となる史上2頭目の同レース3連覇を達成すると同時に、当時日本競馬史上最多のGⅠ・JpnⅠ級競走8勝もクリア。ただ、それからはさらなる記録更新を狙いジャパンカップダート(阪神ダ1800m)、東京大賞典(大井ダ2000m)に出走するが、それぞれ8着、2着に敗れていた。そして3度目の正直に期待を込め、2010年の川崎記念に出走。ファンから単勝1.3倍の1番人気に支持されると、3年前と同じく逃げるフリオーソを2番手からマーク。しかしフリオーソも当時すでに交流GⅠ3勝を挙げ、ヴァーミリアンより2つも若い6歳とあって粘りに粘る。直線は2頭の叩き合いとなり、ゴール前わずかにクビ差抜き出たヴァーミリアンが悲願のGⅠ・JpnⅠ級競走9勝目を成し遂げた。
その後は燃え尽きたのか、帝王賞(大井ダ2000m)はフリオーソの9着、ジャパンカップダートはダート最低着順の14着に敗れ、同年末に引退、種牡馬となった。2017年に種牡馬も引退し、社台グループの体験型テーマパークであるノーザンホースパークで乗馬となり、第三のキャリアを歩んでいる。
写真:Horse Memorys、かず