これまで、牡馬のクラシック三冠を成し遂げた馬は1941年のセントライトから2020年のコントレイルまで合計8頭いる(2022年現在)。三冠を達成した馬のローテーションを調べると、現在のトライアルという概念が無かった1941年のセントライトと2歳のホープフルステークス以来休養していた2020年のコントレイル以外の6頭は弥生賞(ディープインパクト記念)を経て皐月賞に進んだ馬が3頭。スプリングステークスを経て皐月賞に進んだ馬が3頭と、綺麗に分かれる結果となった。
弥生賞は1964年に創設されたレースである。レースの歴史はスプリンスステークスの方が古いが、1984年以降は皐月賞と同じ中山競馬場の芝2000mでレースができる事もあって、幾多の有力馬が弥生賞に出走するケースが多い。
今回は弥生賞を制し、そのまま牡馬三冠馬に輝いた3頭を振り返りたい。
※馬齢はすべて現在の表記に統一しています。
ミスターシービー(1983年)
1976年1月31日。東京競馬場の芝1400mで行われた新馬戦で、後にG1レースを制した馬が2頭デビューした。この新馬戦を勝ったのは1976年の皐月賞、有馬記念などを制したトウショウボーイ。4着に敗れたのが1976年の菊花賞、1978年の天皇賞・春などを制したグリーングラスである。昨今さまざまな「伝説の新馬戦」があるが、古くからの競馬ファンにしてみれば、伝説の新馬戦と言えばこの一戦ではなかろうか。
そして、このレースで5着に入ったのがシービークインという牝馬である。シービークインはのちにオークストライアル・4歳牝馬特別(現在のフローラステークス)や毎日王冠を制した名馬であった。シービークインは引退したのち母馬となったが、引退したシービークインは同じレースでデビューしたトウショウボーイの間に生まれたのが1983年の弥生賞を制し、同年の牡馬クラシック三冠を達成したミスターシービーである。
母シービークインの主戦騎手でもあった吉永正人騎手を背に、ミスターシービーは2歳(1982年)の秋にデビュー。デビュー戦は好スタートを決め、2着の馬に5馬身(0.9秒)差を付けての勝利を飾った。続く2戦目はスタートで出遅れた分、強引に先行馬に取りついていき、最後はアタマ(0.0秒)差で凌ぎ切った。
3戦目となったレースでもスタートで出遅れたミスターシービー。ここで吉永騎手は2戦目のように無理して先行馬を追いつこうとはせず、敢えて後方からの競馬を見せる。直線で追い込んだものの、前を行く馬には届かず2着に敗退。しかし、3戦目のレースで自信を見せた吉永騎手は明け3歳(1983年)初戦の共同通信杯4歳ステークス(現在の共同通信杯)も後方からの競馬を見せ、最後には3戦目で先着を許したウメノシンオーを交わして先頭でゴールインした。
迎えた弥生賞(1983年までは芝1800mで開催)。2戦目、3戦目とは違い、まずまずのスタートを切ったミスターシービーだったが、1コーナーを回る際には後ろから数えて3番手でレースを進める。3コーナーに入るが、ミスターシービーは依然、後方のままだった。
今と違って冬枯れの芝生の中山競馬場。多くの馬は馬場が荒れていない外を選択する中、ミスターシービーは最内を突いてきた。すると、4コーナーを回り直線に入る頃には4番手の好位置に上がる。最後の直線で逃げ粘るスピードトライのインコースを突いて抜け出したミスターシービーは、スピードトライに1馬身1/2(0.2秒)差を付けて先頭でゴールした。
共同通信杯4歳ステークス、弥生賞と連勝し、牡馬クラシックの主役に立ったミスターシービー。続く皐月賞では多くの馬が経験した事のない不良馬場で行われたが、道中は16~17番手に待機し、弥生賞と同様3コーナーでスパート、4コーナーでは先団に取り付き、そのまま抜け出して、父トウショウボーイに続く親子制覇を達成した。
皐月賞で強い競馬を見せたミスターシービー。日本ダービーの単勝オッズは1.9倍だった。不安があるとすれば当時の日本ダービーは20頭を超える馬が出走(1983年は21頭立て)。そのため、「第1コーナーを10番手以内に付けないと勝てない」というジンクスがあった。しかし、その第1コーナーでは後ろから3番手の18番手で第1コーナーを回った。実況のアナウンサーも「苦しい戦いを強いられました」と実況した。
ところが、皐月賞と同様に第3コーナーでまくり気味に上がったミスターシービー。第4コーナーを回るときは6番手に付け、直線では皐月賞と同様に追って来たメジロモンスニーの追撃を振り切り、父トウショウボーイが果たせなかった日本ダービー制覇を達成したのであった。
秋初戦の京都新聞杯(当時は菊花賞トライアルとして開催)で、ミスターシービーは4着に敗れる。菊花賞では京都新聞杯の敗戦の上、父トウショウボーイが3000m以上のレースでは3着が最高であった事から、距離に対する不安もあった。レース序盤は最後方にいたミスターシービーが2周目のバックストレッチで行きたがる素振りを見せると、吉永騎手の手綱が緩める。すると、京都競馬場の第3コーナーの坂に差し掛かると、一気に上がって来た。第3コーナーの坂はゆっくりと登り、ゆっくりと下っていくのがポイントであったが、坂の下りでスパートしたミスターシービーはビンゴカンタに3馬身(0.5秒)差を付けて先頭でゴールイン。1964年のシンザン以来19年ぶりの牡馬クラシック三冠を成し遂げた。
4歳(1984年)以降は天皇賞・秋の優勝のみに終わったが、ミスターシービーの登場は競馬界にとって革新的な馬となった。現在の競馬マスコミで活躍している人(特に40代後半~50代)はミスターシービーで競馬にのめり込んだ人も多い。また、男性の年配の人が行くものとされていた競馬のイメージを一新させ、若い人、特に女性の競馬ファンを作り、オグリキャップをはじめとした1990年代の競馬ブームの下地を作った馬とも言える。
引退後は種牡馬になったミスターシービー。目黒記念など重賞競走を3勝したヤマニングローバルやクイーンカップを制したスイートミトゥーナを送り出した。一方の母のシービークインはハードツービートやソーブレストなど当時の人気種牡馬との種付けを行ったが、ミスターシービー以降は子供を競馬場へ送り出すことはなかった。
1999年に種牡馬を引退したミスターシービーは母シービークインと同じ牧場で余生を送った。しかも、放牧地はシービークインの隣に設けられた。通常、牡馬は0歳秋の離乳以降は母親に二度と再会することがない。しかしミスターシービーは2000年に亡くなるまでの間、母と共に余生を過ごしたのである。
シンボリルドルフ(1984年)
1984年の3歳牡馬クラシックは混戦模様になろうとしていた。阪神3歳ステークス(現在の阪神ジュベナイルフィリーズ・当時は関西の2歳王座決定戦)を制し、最優秀3歳牡馬(現在の最優秀2歳牡馬)に輝いたロングハヤブサと朝日杯3歳ステークス(現在の朝日杯フューチュリティステークス・当時は関東の2歳王座決定戦)を制したハーディービジョンが、故障のため休養に入ったのである。
しかし、そんな混戦ムードを断ち切らんとする1頭の馬が現れた。無傷の4連勝で共同通信杯4歳ステークスを制したビゼンニシキである。共同通信杯4歳ステークスでは残り100m地点から追い出して後続に1馬身(0.2秒)差を付けての快勝。ビゼンニシキと、3戦3勝の無敗馬シンボリルドルフが牡馬クラシックの主役を担うか、という評価に落ち着いた。
そしてもう1つ注目されていたのは、シンボリルドルフとビゼンニシキの2頭に騎乗していた岡部幸雄騎手がどの馬を選ぶのか、という点。ビゼンニシキに岡部騎手が跨るのではという報道も少なくなかった。というのも、ビゼンニシキは520Kg台と雄大な馬体であり、将来性が見込まれていた。そしてビゼンニシキを管理する成宮明光調教師は岡部騎手に初めてクラシック制覇をもたらしたカネヒムロ(1971年)を管理していたという関係性もあった。
ところが、岡部騎手は「僕が選んだ方が強いと思ってください」のコメントを残し、シンボリルドルフの騎乗を選択した。この発言にビゼンニシキのオーナーは激怒し、以後オーナーの馬に岡部騎手が乗る事はなかった。ビゼンニシキの騎手は成宮厩舎所属の蛯沢誠治騎手が跨る事になった。
さて、そのシンボリルドルフ。2歳(1983年)の夏、新潟競馬場の芝1000m戦でデビューした。芝1000mの新馬戦はスピードでモノを言わせ、逃げる競馬で勝つ馬もいるが、シンボリルドルフは4コーナー3番手から、最後の直線で内から抜け出す競馬を披露。ゴール前では岡部騎手が抑える場面も見せた。この時のレースぶりを、岡部騎手は「1000mで1600mの競馬を覚えさせた」と振り返る。
続くいちょう特別(現在の1勝クラス)を制し、ファンからは朝日杯3歳ステークスに出走するもだと思われていたが、3戦目に選んだのはジャパンカップと同日の芝1600mのオープン競走であった。これはシンボリルドルフのオーナーが「海外の競馬関係者に、日本にもすごい馬がいるという事を見せてやろう」という目的で出走させたと言われている。5頭立ての中で行われ勝利したシンボリルドルフ。管理する野平祐二調教師は岡部騎手の騎乗を見て「1600mのレースで2400mの競馬をした」と語り、岡部騎手の騎乗を称えた。
そして迎えた、弥生賞の当日。1番人気はビゼンニシキで単勝オッズは2.5倍、シンボリルドルフは馬体重が18Kg増えたことが嫌われたのか2番人気で単勝オッズは4.9倍だった。3番人気のコンラートシンボリの単勝オッズが14.7倍などが示すように、「ビゼンニシキVSシンボリルドルフ」の対決構図となった。
ゲートが開くと、ビゼンニシキの蛯沢騎手は抑えて後方からの競馬を試みるが、後方からの競馬を嫌がるかのようにビゼンニシキは首を横に振ったため、中団からの競馬を選択。シンボリルドルフも先行したい馬を前に行かせて、中団からの競馬を選択した。中山競馬場のバックストレッチに差し掛かった辺りではシンボリルドルフの1馬身後方にビゼンニシキが控えている展開となった。
3コーナーに差し掛かると、シンボリルドルフが加速し4番手に上がる。一方のビゼンニシキもシンボリルドルフを追うように蛯沢騎手が仕掛けてきた。4コーナーに差し掛かると、シンボリルドルフが早くも先頭に躍り出た。これをピッタリマークするかのようにビゼンニシキが背後から迫る。人気馬2頭の争いとなって、最後の直線に差し掛かった。
逃げたニッポースワローは最内のコースを選択。馬場の外に回らされたシンボリルドルフとビゼンニシキ。残り200mでニッポースワローとスズパレードを交わしてシンボリルドルフが先頭に立つ。ビゼンニシキの蛯沢騎手は外から内へと進路を変える。共同通信杯4歳ステークスで見せたビゼンニシキの切れ味が炸裂するが、シンボリルドルフは再び加速する。終わってみればシンボリルドルフがビゼンニシキに1馬身3/4(0.3秒)差を付けて先頭でゴールイン。シンボリルドルフは無傷の4連勝を達成し、ビゼンニシキは初の黒星を喫した。しかもシンボリルドルフはレース中にビゼンニシキの右前肢がシンボリルドルフの左後肢に接触し、外傷を負いながらの快勝で、弥生賞のレース後にシンボリルドルフとビゼンニシキの評価は逆転した。
迎えた皐月賞当日。だが、シンボリルドルフの体調は必ずしも良好とはいえなかった。弥生賞で負った外傷による休養の後、運動の遅れを取り戻すために行った強めの調教を行った反動か、馬体重は大幅に減少してしまったのである。皐月賞前の調教に馬が仕上がりすぎたと察した岡部騎手は野平調教師と相談し、時計を出さず、軽めの調教に終始した。それでも、馬体重は戻らず、皐月賞のシンボリルドルフの馬体重は弥生賞から比べるとマイナス22Kgとなっていた。しかしそんなマイナス要素を跳ね除け、シンボリルドルフはビゼンニシキの追撃を振り切り、皐月賞を制したのである。
続く日本ダービー。単勝オッズが1.3倍の断然の1番人気に支持されたシンボリルドルフ。だが、この年は寒波と冬に降った雪の影響で芝の育成が悪く、東京競馬場の芝はパワーが要る馬場になった。バックストレッチに差し掛かっても岡部騎手のゴーサインに反応しなかったシンボリルドルフだったが、直線で鋭く反応すると、前を行くスズマッハを交わしてトキノミノル(1951年)、コダマ(1960年)に次いで無敗で皐月賞・日本ダービーを制した。
秋初戦のセントライト記念を制し、史上初となる無敗での牡馬クラシック三冠達成に挑んだシンボリルドルフ。曇り空の中で行われたが、赤い帽子のシンボリルドルフが直線で抜け出すと、外から強襲したゴールドウェイを振り切り、史上初となる無敗での牡馬クラシック三冠を達成した。
その後、シンボリルドルフはG1レース7勝を挙げ、20世紀の日本の競馬史に残る名馬となった。引退後は種牡馬入りすると、皐月賞・日本ダービーを制したトウカイテイオーやステイヤーズステークス2連覇を達成したアイルトンシンボリなどの活躍馬を輩出。2010年のジャパンカップ当日には昼休みにパドックでファンにお披露目され、2011年に30歳(人間で言えばおおよそ80代)で亡くなるまで愛され続けられていた。
ディープインパクト(2005年)
1984年にシンボリルドルフが弥生賞を制した後、1993年にはウイニングチケットが、1995年にはフジキセキが、1998年にはスペシャルウィークが弥生賞を制し、牡馬クラシック三冠完全制覇の夢が膨らんでいた。しかし、中山競馬場、東京競馬場、そして京都競馬場と異なる競馬場で行われ、距離も2000m、2400m、3000mと異なる中で行われる牡馬クラシック三冠。フジキセキは弥生賞後に発生した屈腱炎により志半ばで引退し、ウイニングチケットやスペシャルウィークは日本ダービーを制したものの、皐月賞と菊花賞では敗北を喫した。1994年にスプリングステークスを経て牡馬クラシック三冠を達成したナリタブライアンがいたが、弥生賞から牡馬クラシック三冠を達成した馬はなかなか出てこなかった。
そんな中、2004年の12月、一頭の競走馬がデビューした。その名をディープインパクトという。デビュー戦で上がり3ハロン(ラスト600m)のタイムが33.1秒の驚異的な末脚で圧勝した。
全国の競馬ファンに「ディープインパクト」の名前が広く知られたきっかけは、デビュー2戦目の若駒ステークスであろう。出走したのは7頭と少なかったが、前を走るケイアイヘネシーとテイエムヒットベの2頭が大逃げを打ち、最後方を走っていたディープインパクトまで25馬身差、タイム換算で4秒近く離されていた。第4コーナーを回っても前を行くテイエムヒットベとの差は10馬身以上あった。しかし、直線に向くと一気に加速し、ゴール地点では2番手のケイアイヘネシーに5馬身(0.9秒)差を付けての圧勝。テレビで若駒ステークスのレースを見たファンに、ディープインパクトという名前を印象付けたのである。
若駒ステークスで強烈なインパクトを残したディープインパクトが皐月賞の前哨戦として選んだのは、弥生賞であった。弥生賞には朝日杯フューチュリティステークスで2歳王者に輝いたマイネルレコルト、弥生賞と同距離の京成杯を制したアドマイヤジャパンなど強豪10頭が出走。加えて初めてとなる関東遠征で馬体重の変動も気になった。だが、ディープインパクトは1.2倍の1番人気に支持され、単勝支持率は71.5%の支持を得た。これは1973年にハイセイコーを超え、弥生賞のレース史上で最も高い支持率であった。
良馬場であったが、インコースに残雪が残る中、弥生賞のゲートが開いた。まずまずのスタートを切ったディープインパクト。アドマイヤジャパンとマイネルレコルトも好スタートを切った。押し出されるようにダイワキングコンが先頭に立つ。2番手に早くも付いたのがマイネルレコルトだが、騎乗している後藤浩輝騎手は必死にマイネルレコルトを落ち着かせる。アドマイヤジャパンは3,4番手を追走、ディープインパクトは後ろから2頭目の9番手を追走しバックストレッチに差し掛かった。
前半1000mの通過タイムが62.2秒。200mごとのラップを見ても速かったのが200m~400mの11.9秒とスローペースでレースが進む。3コーナーに差し掛かると、ディープインパクトが動いた。しかし、武豊騎手の手綱はがっしりと抑えたままである。まるでディープインパクト自身が自ら勝負に動いたように見えるほどの動きだった。前を走る馬を1頭ずつ交わしていくディープインパクトの姿に、中山競馬場のファンからは歓声が上がる。
4コーナーを回り、残り400m地点に10頭が差し掛かった。武豊騎手の手綱は相変わらず動かず、ディープインパクトが前を行くダイワキングコンとマイネルレコルトを捉えに掛かる。対照的なのはアドマイヤジャパン。横山典弘騎手はインコースにアドマイヤジャパンを進め、コースロスなく4コーナーを回り、最後の直線では最内を突こうとしていた。
直線に入ると、マイネルレコルトの後藤騎手はステッキが早くも入っている。内を突いたアドマイヤジャパンは横山騎手が馬を追いながらステッキを入れる。一方のディープインパクトの武豊騎手はステッキを入れない。それでも加速したディープインパクトはゴール手前でアドマイヤジャパンを交わして先頭でゴールした。着差は僅かクビ(0.0秒)差であったが、ステッキを入れずに皐月賞トライアルを制したのである。前半がスローペースで流れレースの上がり3ハロンのタイムは34.9秒と速かったため、新馬戦や若駒ステークスで見せたような圧勝劇ではなかったが、ディープインパクトの上がり3ハロンのタイム34.1秒は2番目に速かったアドマイヤジャパンらの34.6秒より0.5秒速い時計であった。
皐月賞では単勝支持率が63.0%と1951年のトキノミノルに次ぐ皐月賞史上2番目の支持(単勝オッズは1.3倍)を得たディープインパクト。その皐月賞ではスタート直後に躓き、武豊騎手が落馬寸前まで体制を崩した。スタートでのアクシデントが響き、18頭中17番手からの競馬を強いられる。4コーナーでディープインパクトが気を抜く素振りを見せると、武豊騎手がレース中で初めてステッキを入れた。これに反応したディープインパクトが鋭く反応し勝利した。皐月賞の勝利騎手インタビューで初めて武豊騎手が「走っていると言うより飛んでいる感じなんでね」と、ディープインパクトの強さを「飛ぶ」という表現で示した。
日本ダービーに向けて、ディープインパクトの人気が増すばかりであった。単勝支持率は73.4%。これは1973年のハイセイコーが持つ日本ダービー単勝支持率最高記録を更新するものであった。そして迎えた日本ダービー当日。スタートでやや出遅れながらも、4コーナーでは馬群の大外を回り、最内を突いたインティライミを突き放しての快勝だった。この日本ダービーの制覇後、武豊騎手はディープインパクトを「英雄」と表現するようになる。
夏場は札幌競馬場でトレーニングをしたディープインパクト。前哨戦の神戸新聞杯を制し、シンボリルドルフ以来2頭目となる無敗での牡馬クラシック三冠制覇の期待が掛かった。菊花賞の単勝支持率は菊花賞史上2番目となる79.03%(1位は1963年のメイズイの83.2%)。単勝オッズは1.1倍の圧倒的1番人気に支持された。
しかし、1周目の坂の下りでディープインパクトは行きたがる素振りを見せてしまう。それでも、夏の札幌競馬場でのトレーニングで折り合いの付け方を学習し、また、武豊騎手もディープインパクトを馬群の中に入れて落ち着かせようとした。2周目の坂の下りで先頭に立ったアドマイヤジャパンに並びかかると、上がり3ハロンのタイムが33.3秒と唯一の33秒台(2番目に速かった馬は34.2秒)を叩き出し、先頭でゴールイン。史上6頭目の牡馬クラシック三冠馬の誕生と共に、シンボリルドルフ以来2頭目となる無敗での牡馬クラシック三冠を達成した。
シンボリルドルフが達成したG1レース7勝には僅かながら1勝及ばなかったが、国際競馬統括機関連盟が発表した「トップ50ワールドリーディングホース」では日本調教馬で初めて世界1位タイにランキング。世界の競馬に「Deep Impact」の名前が刻まれた。また、引退後種牡馬入りすると、親子で無敗での牡馬クラシック三冠を達成したコントレイルをはじめ、イギリスの皐月賞に当たる2000ギニーを制したサクソンウォリアー、英オークスなどを制したスノーフォールをはじめ世界中に活躍馬を送り出した。2005年の新語・流行語大賞の候補に「ディープインパクト」がノミネートされ、テレビのCMにも登場。競馬ファンを超えた社会的現象を巻き起こし、競馬界の発展に大きく貢献した。
2019年に急逝したディープインパクト。現役時代の活躍と種牡馬になってからの貢献が評価され、2020年からは「報知杯 弥生賞」は「報知杯 弥生賞 ディープインパクト記念」とレース名が変わった。そして、2020年の弥生賞を制したのは武豊騎手騎乗でディープインパクトの息子であるサトノフラッグであった。ディープインパクトが広げた血は、今も多数の活躍馬を送り出している。
写真:Horse Memorys