貴方に勝者の栄光を - プレクラスニー

競馬は優勝劣敗の世界であり、ただ一頭の勝者とその他大勢の敗者は明確に分かたれる。栄冠を掴んでその名を競馬の歴史に刻み込むことが許されるのは熾烈な競走を勝ち抜いた者のみであり、手にしたタイトルは第二の馬生を成功に導くためのチケットになり得る。それ故に、自らの生きた証を後世の残すべく、すべての競走馬は喝采を浴びる表彰台の頂点を目指して覇を競う。

──だが時折、すべてをかき消すような大きな出来事の前に、勝利の喝采を浴びることができない不遇の存在が現れることがある。

例えば1998年の天皇賞・秋でゴール板を真っ先に駆け抜けたオフサイドトラップ。屈腱炎を乗り越えて悲願を成し遂げた彼の勇敢な戦いは、競馬史の感動的な一幕となり得るものであった。だがこの日彼が掴んだ栄光が、後世においてオフサイドトラップを称える文脈で語られることはほとんどない。彼がゴール板を通過する40秒ほど前に生じた大きな悲劇により、多くの競馬ファンにとってあの天皇賞は「サイレンススズカが歩みを止めた悲劇の象徴」として暗い影を落とし、正視できないレースとなってしまった。結果として、オフサイドトラップの天皇賞は無邪気に語ることが許されない、ある種の禁忌のようなレースとなってしまっている。

1991年の第104回天皇賞・秋も同様にまた、特異なレースとして語り継がれる。このレースのVTRを見たファンは、直線半ばで一気に加速して雄大なフットワークで後続を置き去りにした一頭の芦毛馬、メジロマックイーンの姿に目を奪われるだろう。だが結果としてこのレースの優勝馬として名を刻んだのは、メジロマックイーンの6馬身後ろで懸命に後続の追撃を凌ぎ切ったもう一頭の芦毛馬、プレクラスニーであった。

このレースで起きた一連の出来事について、プレクラスニーには、もちろん何の責も無い。本レースの裁定は若き日の武豊騎手の僅かな進路取りの綾が引き起こした玉突き事故に依るものであり、プレクラスニーは最後まで諦めずに走りぬいたからこそ栄冠を手にしたのである。だが後世、私たちがプレクラスニーについて「メジロマックイーンの降着によって勝利を手にした」という枕詞を抜きに語ることは難しい。それどころか彼の刻んだ歩みの全てすら、マックイーン降着のインパクトに塗りつぶされてしまっているのではないだろうか。

彼が競走馬として初陣を迎えた1990年2月24日から現役最終戦となった1991年12月22日までの二年間、あるいは引退後も含め、彼が遺した蹄跡を紐解いてみたい。


プレクラスニーは1987年、馬産地の出産シーズンもすっかり落ち着いた6月10日に北海道の嶋田牧場で産声を上げた。父は仏で種牡馬として成功していたクリスタルパレス。4代父のグレイソヴリンは芦毛の祖としても知られるが、フォルティノやカロ、そしてクリスタルパレスと、代を重ねて受け継がれてきた芦毛の遺伝子を引き継いでいた。

プレクラスニーの母であるミトモオーは、1971年生まれで3歳から7歳(旧馬齢)までの5年間のキャリアで計53戦8勝をあげている。4歳時には桜花賞やオークスにも参戦し、秋のビクトリアカップではトウコウエルザに次ぐ2着に好走。キャリアを積み上げていき、7歳の夏に制した新潟記念を手土産に繁殖入りを果たした。

遅生まれもあってじっくりと調整を進められたプレクラスニーの初陣は4歳(旧馬齢、以下同様)2月、中山ダート1200mの新馬戦。既に同期のアイネスフウジンが朝日杯3歳ステークスを、コガネタイフウが阪神3歳ステークスをそれぞれ制覇する。メジロライアンがひいらぎ賞とジュニアカップを、ハイセイコーの仔ハクタイセイがシクラメンステークスと若駒ステークスをそれぞれ連勝して頭角を現さんとしていた時期に、クラシックの主流とは程遠いダート短距離戦でひっそりと船出を果たしていた。

デビューから3着、5着と惜敗を続けたあと、4月の福島戦で芝中距離に矛先を向けたプレクラスニー。増沢末夫騎手をパートナーに迎えて道中自らペースを刻み、後続を3馬身半突き放して初勝利を挙げる。返す刀で駒を進めたロベリア賞でも、自ら主導権を奪い5馬身差の圧勝。アイネスフウジンを祝福するナカノコールが競馬場を覆いつくす前日に、プレクラスニーは「遅れてきた大器」としてキャリアアップを果たした。

夏の福島開催の自己条件で惜敗を重ねた後、プレクラスニーは半年の休養を挟む。
復帰は明5歳の新春競馬。復帰初戦のダート戦こそキャリア唯一の着外に敗れたものの、叩き2戦目の若潮賞で3勝目を挙げる。1500万下で二度の惜敗を重ねて迎えた4月の晩春ステークスでは、新潟遠征の増沢騎手に替わり前年に27勝を挙げて関東新人騎手賞を獲得していた気鋭の若手・江田照男騎手を起用する。若干19歳の江田照男騎手に導かれたプレクラスニーはこのレースでしっかり勝利を収め、5歳にして待望のオープン入りを果たす。

オープン入り初戦は6月頭、G3-エプソムカップ。
900万下からの3連勝で新潟大賞典を制した上り馬のトウショウバルカンや前走メトロポリタンステークスでOP制覇を果たし、後に長距離戦線の名バイプレイヤーとして長く活躍するメイショウビトリアらと激突した。オープンで実績を残していた二頭を差し置いて1番人気に支持されたプレクラスニーはライバル2頭との鍔迫り合い先頭で駆け抜け、重賞初挑戦で初制覇。いよいよ表舞台に姿を現したのだった。

ひと夏を休養に充てたプレクラスニーは天皇賞・秋に照準を定め、秋初戦にエプソムカップと同条件の伝統のG2-毎日王冠を選択する。メジロティターン産駒の芦毛でメジロマックイーンの2歳年上の従兄弟にあたるメジロマーシャスが一番人気に支持され、前年の宝塚記念を優勝し秋G1でも善戦を重ねたオサイチジョージ、長く重賞戦線で活躍を続けるモガミチャンピオンらが上位人気に支持されたこのレース。伏兵候補にも後にマイルCSを連覇するダイタクヘリオス、競走馬としての晩年を迎えたG1-2勝のバンブーメモリー、芝ダート不問の個性派カリブソング、淀巧者として名を馳せたオースミロッチ、新潟で輝いた夏女センゴクヒスイ……1980年代末から1990年代初頭を彩った個性派が揃っていた。

レースでは外枠から闘志満々にハナを奪うダイタクヘリオスを行かせて二番手を追走し、そのまま二頭でハイラップを刻む。直線へ向かっても両馬の脚色は全く衰えず、後続を振るい落としてのマッチレースを展開するが、最後はダイタクヘリオスねじ伏せる強い競馬で重賞連勝。天皇賞・秋に向けて盤石の走りを見せた。


──迎えた運命の日、1991年10月27日。

降りしきる雨で水気を十分に含んだ芝コースは、不良馬場の発表。
京都大賞典で59kgを背負いながら単勝1.1倍の支持に応えたメジロマックイーンの"一強"ムードが漂う中、プレクラスニーはクラシック戦線で善戦を重ねた同期のホワイトストーンに次ぐ3番人気の支持を集めた。裏街道を歩み雌伏の時を送り続けてきた彼は、打倒メジロマックイーン筆頭の一角として晴れ舞台に臨んだのである。菊花賞と天皇賞・春を制したステイヤーのメジロマックイーンに対し、プレクラスニーは中距離戦線で磨き上げてきた豊富なスピードが武器。府中で未だ無敗の彼にとって天皇賞・秋はベストの舞台と言える。一気の頂点奪取に燃えながらプレクラスニーは芦毛の馬体を5枠10番のゲートに収めた。

ゲートが開く。鋭い出脚を見せたメジロマックイーンが内に切れ込んでくる中でもプレクラスニーはスムーズに自らの進路を確保しながら2コーナーをクリアし、そのまま内のホワイトストーンを制してハナを奪う。

審議の青ランプがひっそりと点灯したことなど知る由もなく、プレクラスニー、ホワイトストーン、メジロマックイーンの芦毛3頭の隊列は淡々とペースを刻む。迎えた直線、最初にホワイトストーンが脱落し、プレクラスニーは手応え十分にメジロマックイーンとの真っ向勝負を挑んだ。ここまで連勝街道を歩んできた府中の直線。余力も自信も十分。残り400mを切り江田照男騎手が満を持してゴーサインを出す。「いざ、勝負!」と言わんばかりの合図だった。

……だが、そこからはメジロマックイーンの独壇場であった。

江田照男騎手のアクションに応えて白い馬体を懸命に伸ばすプレクラスニーを横目に、メジロマックイーンは不良まで悪化した馬場をも意に介さず、プレクラスニーを上回るトップスピードを見せる。プレクラスニー自身はしっかりとした脚取りでゴールへ向かっているが、一完歩一完歩とみるみるうちにその差は開いていった。

メジロマックイーン祝福の喝采を浴びながらゴール板を通過した6馬身後ろで、プレクラスニーはカリブソングやカミノクレッセらを退けて2位入線を果たした。初G1挑戦を考えれば決して悪くない結果であったが、ベスト条件で言い訳の効かない形での敗北は、大きな実力差を認めざるを得ない苦いものであった。脚光を浴びるチャンピオンを横目に泥だらけになりながら引き上げるプレクラスニー。数十分後の顛末など知る由もないまま、レースを終えた人馬は「敗者」として静かに戦場を後にした。

「お知らせいたします。第一位に入線した13番メジロマックイーン号は、第2コーナーで内側に斜行し……」

衝撃の結末は、冒頭に述べたとおりである。

メジロマックイーンは2コーナーで生じた一連の事象の責を負う形で18着に降着となり、プレクラスニーの馬番号「10」は繰り上がりで着順掲示板の先頭に点灯した。採決結果を受けて慌ただしく検量室を出てきた江田照男騎手は「力で勝ったわけではないので……」と戸惑った表情のまま答え、馬上での記念撮影にも笑顔はなかった。

プレクラスニーはこの勝利でG1初勝利を果たし、江田照男騎手は最年少天皇賞制覇の偉業を成し遂げた。どちらもプレクラスニー自身が正当に掴み取った栄光であり、第104回天皇賞の優勝馬として名を刻んだのは紛れもなくプレクラスニーである。だが彼が掴んだ栄光にメジロマックイーン降着は大きな影を落とし、プレクラスニーは「勝者ならざる敗者」という不名誉な評価を受けることとなった。

──その後の彼の勇敢な戦いにも触れたい。

プレクラスニーは天皇賞で被った不本意な評価を払拭すべく有馬記念で再びメジロマックイーンに挑んだ。これまで府中の中距離で良績を残してきたプレクラスニーにとって中山芝2500mは未知の領域であり、何より豊富なスタミナを有するメジロマックイーンに分の有る舞台。それでもプレクラスニーは、正当な評価を得るために打倒マックイーンに挑まねばならなかった。

一方のメジロマックイーン陣営もまた、狂った歯車を戻せずにいた。日本の総大将として臨んだジャパンカップでゴールデンフェザントの後塵を拝し、武豊騎手自身もデビュー以来の大スランプに陥り勝てない日々を送っていた。

独特な雰囲気が漂うなかで施行された有馬記念。
果敢に先行したプレクラスニーは大逃げを打ったツインターボを四角で捕まえると、マイルチャンピオンシップを制してG1馬となったダイタクヘリオスをも振り切って完全に抜け出す。後続はまだ後ろ。あとは粘り込むだけ。江田照男騎手の叱咤に応えて懸命に後肢で地面を蹴り前肢を目一杯伸ばす。有馬記念のタイトルは彼の目前に迫った。だが残り100m。未知の距離を戦い抜いたプレクラスニーのスタミナが遂に尽きる。最後の急坂で脚が鈍ったプレクラスニーは次々と後続に呑まれ4着に終わった。

レースは、ダイユウサクがメジロマックイーンを抑え込む大波乱の決着。勝っても負けても主役を演じ続けた名優の影で、同じ芦毛のプレクラスニーは脇役に甘んじた。彼にとっても本意の結果ではなかっただろう。だが、天皇賞の踏ん張りが決してフロックではないこと、そしてG1級の能力の持ち主であることを示すには十分な走りだった。

明けて6歳。プレクラスニーの脚は悲鳴を上げた。メジロマックイーンがトウカイテイオーとの頂上決戦を制して華々しく主役の座に舞い戻る傍らで、彼は闘病を続けた。だが、彼はついにターフに帰ってくることができなかった。

彼がアロースタッドでスタッドインしたのはラストランから1年以上が経過した1993年シーズン。サンデーサイレンス、トニービン、ブライアンズタイムらが導入され輸入種牡馬が席巻した戦国時代の中で、数々の栄光の記憶も薄れてしまったプレクラスニーに多くのチャンスは与えられなかった。

ジャパンスタッドブックインターナショナルによればプレクラスニーの血を受け着いだ登録馬はわずか16頭。JRAでの勝ち馬は2頭に留まった。その2頭、ストレラーとタンドレスが挙げた全3勝の手綱が全て江田照男騎手であったこと、ストレラーが彼の愛した府中の重賞でも見せ場を作っていたことは、彼にとってせめてもの救いだったかもしれない。

道営で2勝を挙げたタケノスガタが唯一繁殖入りしたものの、現在、プレクラスニーの血を引くものは残っておらず、プレクラスニーの直系がこの先現れることはない。プレクラスニーは1997年にひっそりと種牡馬を引退し、功労馬として余生を送らんとした矢先の1998年、放牧中の不慮の事故により僅か11歳でこの世を去った。


15戦7勝2着3回。府中では5戦5勝。芝に限れば連を外したのは本格化前のしゃくなげステークスとラストランの有馬記念のみ。全く底を見せていない誇るべき戦跡である。

プレクラスニーが掴み取った最大の栄誉を思い起こすとき、私たちはどうしても「メジロマックイーンの……」という一言をつけてしまいがちだ。彼の蹄跡は、メジロマックイーンの影に隠れてしまい、かの天皇賞がプレクラスニーの勝利として語られることは殆どない。それどころか、彼が歩んだ晩春ステークス、エプソムカップ、毎日王冠の連勝の功績すらも、あの天皇賞によって暗く塗りつぶされてしまったように思えてならない。

血統表に名を残していないプレクラスニーが脚光を浴びることは、この先もあるいはほとんどないかもしれない。だからこそ、令和のこの時代、本当に埋もれてしまう前に改めて彼のことを思い起こしたい。

あの秋、グレイソヴリン由来の芦毛を弾ませて府中を駆け抜けた駿馬がいたことを。有馬記念で絶対不利を知りながらも抗うように歯を食いしばって戦った彼のことを。

私は忘れずにいたい。「メジロマックイーン」という枕詞など付されない、彼自身の走りを。

写真:かず、I.Natsume

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