私の人生には、いつも競馬がすぐそばにあった。
古いアルバムをめくると、まだ1歳に満たない私が訳もわからず京都競馬場の芝生に座っている写真が見つかる。日付を調べると、どうやらその日は断然人気のマックスビューティが敗れた日らしい。
一番古い記憶は、西日を浴びて抜け出したヤエノムテキの姿。四白流星の彼に私の目は釘付けとなった。天皇賞の格式なんてわからなかったけれど、格好いい馬だと思った。
架空の出馬表を書き、どのレースかもわからないウマの絵を落書きしていた子どもだった。文才の有る兄を真似て、よくわからない競馬新聞を自作していた。
小学校に上がろうかという頃に現れたメジロマックイーン、トウカイテイオー、ミホノブルボンらはスーパースターだった。メジロマックイーン、カミノクレッセ、イブキマイカグラ、ホワイトアロー、そしてトウカイテイオー……あの頂上決戦の着順は今でもそらで言える。
だから私にとって、あるいは多くの競馬ファンがそうであったように、ライスシャワーは敵役だった。天皇賞でライスシャワーがメジロマックイーンを抜き去った光景は、家にある、家族の誰が撮影したかもわからない一枚の写真とともに私の心に刻まれている。
天皇賞の後、ライスシャワーはスランプに陥った。
「ライスシャワーがそんなだらしない走りしたら、アカン!」
日めくりで競馬のカレンダーを追いかけるうちに、ライスシャワーへの不思議な気持ちが溜まっていった。骨折を乗り越えた有馬記念でナリタブライアンとヒシアマゾンに次ぐ3着に飛び込んだ時、「やっぱり強いやん」と少し、ホッとした気持ちを抱いた。
ライスシャワーが力を出し尽くしてフラフラになりながら2度目の天皇賞を制したとき、何故だかとても誇らしい気持ちになった。私が一方的に抱いていた彼とのわだかまりが氷解した気がした。競馬に悪役なんていない、そんな当たり前のことにようやく気が付いた。
彼に抱いていた気持ちが何だったのか、結局のところはよくわからない。でも、澄んだ目をした細身で小柄な彼のことがたぶん大好きだった。
1995年。阪神大震災の影響で京都開催となった宝塚記念。ライスシャワーがもんどりうって画面からを消したところで、私の記憶はぷつりと途切れている。
私の競馬人生がこれからあと何年続いても、あの日のショックを超えることはないかもしれない。
だからだろうか。今も昔も主要なレースの決着シーンは殆ど覚えているのに、あの宝塚記念だけはどれだけ記憶の海を潜っても思いだせない。
四半世紀が過ぎ、正視できなかったあのレースを、私は勇気を振り絞って見た。
私の記憶からすっぽりと抜け落ちていたゴールの瞬間、初夏の日差しに照らされた鮮やかな芝生の上を、ピンクのメンコをした一頭のパワフルな鹿毛馬が駆け抜けていた。
ダンツシアトル。
禁忌のように暗い影を落とす一戦の勝ち馬となった彼は、ライスシャワーと同様、このレースを最後に再びターフに戻ることが無かった。
彼の蹄跡をどれだけのファンが覚えてるだろうか。これから先、彼自身が顧みられることがどれだけあるだろうか。
誰が悪いわけでもないあのアクシデントは、一世一代の大仕事を果たしたはずの彼自身にも大きな影を落としてしまったように思える。
ダンツシアトルの記憶が消えてしまわぬよう、あの1995年のことを記したいと思う。
ダンツシアトルの戦績を今一度辿ると、二度の大きな空白が目に留まる。
1つは3歳秋(旧馬齢)から4歳夏にかけて。
1つは5歳春から6歳春にかけて。
彼は大きな骨折と、不治の病・屈腱炎を乗り越えた不屈の馬だった。
鞍上に目をやると、村本善之騎手の名前が見える。数々のビッグレースを制し、いぶし銀でフェアプレー精神に溢れた職人騎手。
私が村本騎手を認識したキャリアの最晩年には、マイネルプレーリーやビッグゴールドの手綱を取っていた。確かな騎乗技術を誇り、派手さは無くとも実直で安心できる騎手だった。
煌びやかな血統表に目を移そう。
父は無敗の米国3冠馬シアトルスルー。姉は仏G1サンタラリ賞を制したSmuggly。祖母に米G1のCCAオークスを制したMarshua。近親には1995年の安田記念を制したゴドルフィンのハートレイク。筋の通った良血である。多くの期待を集めて海を渡って日本の地を踏んだであろうことは想像に難くない。
彼は米国血統らしい大きなトモと幅のある馬体を誇り、四白流星の見栄えのする綺麗な馬だった。がっしりとしたボディは如何にも力強く、皮膚が薄くて頑健なシルエットをしていた。ただ一つ、シアトルスルーから「外向」という個性も受け継いでしまい、産まれながらに脚が曲がっていた。
3歳秋(旧馬齢)のデビュー戦では単勝1.1倍の支持に応えて圧勝。続く赤松賞は好位から危なげなく抜け出して完勝。ダートで2戦2勝とし、「マル外の大物」として噂に違わぬ順風満帆な船出に思えた。
だが3歳王者決定戦に彼の姿は無かった。骨折のために戦線を離脱し、同期の華が朝日杯を、皐月賞を、ダービーを戦う中、牧場でただ一頭、時が傷を癒すのを待つほかなかった。
4歳秋、10ヶ月の空白を経て復帰すると4戦2勝でオープンに昇級する。だが明け5歳、バレンタインステークス3着のあと、今度は屈腱炎に見舞われた。
今よりも競走寿命が短かった90年代初頭、彼は競走馬として脂が乗り切る5歳シーズンを棒に振った。彼自身のキャリアは著しく損なわれたことだろう。
引退の二文字を突きつけられても不思議ではない中で、陣営は諦めず、懸命に、辛抱強く、ダンツシアトルの脚が再び活力を取り戻す日を待った。彼の大きな才能を誰も諦められなかった。
1995年を迎えた。
1月に阪神淡路大震災が、3月に地下鉄サリン事件が起こり、世の中がどこか不安に苛まれていた時代。事の重大さは正しく理解できなくとも、私も幼心にどこか陰鬱な空気を感じ取っていた。
そんな中、ダンツシアトルは私の前に帰ってきた。
6歳を迎えた彼が競馬場に戻って来た時、同期の華だったビワハヤヒデとウイニングチケットは故障でターフを去っていた。競馬界は古馬となったナリタブライアンが断然の一強と評されていた。
6歳という年齢は大きな夢を見るには遅い年齢だったかもしれない。それでも2度の大きな故障を乗り越えた彼は、「オールド・ルーキー」としてもう一度大きな夢を掴もうと、ラストシーズンの戦いに挑もうとしていた。
緒戦は3月の道頓堀ステークス。脚元に配慮して慎重な仕上げが施されたこのレースで、ダンツシアトルは村本善之騎手と初めてコンビを組む。
満身創痍の彼にとって、豊富な経験を持ち、適切なジャッジでいざとなればブレーキを踏める村本騎手の存在は心強かった。
長期休養明けが嫌われて12番人気まで評価を落としていたダンツシアトルだったが、高い能力を以て困難を克服し、復帰戦を勝利で飾る。4月には京都でオープン競走を2戦消化し、落馬した他馬の影響を受けた陽春ステークス3着のあと、オーストラリアトロフィーでオープン初勝利を挙げた。
ダンツシアトルが待ち焦がれた表舞台が手の届くところに来ようとしていた。
同じ4月、同じ京都の天皇賞でライスシャワーが復活の時を迎えた。
ゆっくり上ってゆっくり下るのが鉄則の淀の坂で誰よりも先んじてスパートをかけたライスシャワーは、持ち前のスタミナと辛抱強さを発揮し、ライバルを振るい落とし、末脚勝負に徹したステージチャンプの追撃をハナ差だけ凌ぎ切った。純然たるステイヤーらしい走りで復活の勝利を挙げていた。
「ブルボンやマックイーンを負かしたライスシャワーは、やっぱり強かったんや!」
長いトンネルを通り抜けて訪れた彼の復活劇に私は快哉を叫んでいた。かつてはヒールだったライスシャワーのことを、この春、みんなが好きになっていた。
ダンツシアトルは宝塚記念に向けたステップとして、当時は芝2000mで施行されていた5月の京阪杯に駒を進める。前年のオークス馬で前走の中京記念で復活勝利を挙げたチョウカイキャロルとの一騎打ち。終始マークして競り掛けてきたクラシックホースを逆に突き放す強い競馬で、初めての重賞タイトルを手にした。
これで復帰後は4戦3勝。チョウカイキャロルとの一戦は、彼の実力が一線級に届きうることを示した。遅れてきた大器の素質開花は目の前まで迫っていた。
運命の日。1995年6月4日。
この年の宝塚記念は、阪神大震災の復興支援競走として、開催を一週前倒し、阪神ではなく京都で行われることとなった。
ファン投票第1位の支持を集めたライスシャワーは、1番人気こそサクラチトセオーに譲ったものの、大得意の淀で中距離のタイトル奪取に燃えていた。純粋なステイヤーが種牡馬として評価されづらいのは今も昔も同じ。6歳まで現役を続けた彼が血を繋ぐ機会を増やすためには、中距離戦のタイトルがどうしても欲しかった。
対するダンツシアトルは短いスパンでレースを重ねる中で充実一途。復帰から僅か3か月で夢舞台までたどり着いた6歳の上がり馬を、ファンは2番人気に指示した。
ゲートが開いた。
ハナを奪ったトーヨーリファールの後に続くのはダンツシアトル。すぐ隣に同じシアトルスルー産駒のタイキブリザード、直後に日本レコードを2度記録した天性のスピードを誇る天皇賞馬ネーハイシーザー。いずれ劣らぬスピード自慢の中距離トップホース達が新緑のターフを駆け抜け、緩むことのないペースが刻まれていく。ライスシャワーは後方に構え、淡々と機を伺う。
残り1000m、坂の上りで早くもじわりとピッチが上がる。快調に飛ばすトーヨーリファールの直後、ダンツシアトルの村本騎手は追い出しを一呼吸待つ。外からは頭の低い走りでタイキブリザードが先頭を伺う。4番手以降は手が動き始める。そしてあの瞬間が訪れる………。
直線、京都の内回りとの合流地点でダンツシアトルは溜めに溜めた力を解き放ち、トーヨーリファールの最内を突く。松永昌博騎手の左鞭を受けながら踏ん張るトーヨーリファールが一瞬内にヨレるが、ダンツシアトルは強靭な心身で怯まず跳ねのけ、自らの進路を切り拓き、残り300mで先頭に躍り出る。
外からはタイキブリザードが追う、一旦は手応え劣勢に見えたエアダブリンが、自慢のスタミナで長く長く脚を伸ばす。ダンツシアトル、粘る粘る……。
3頭の馬体が並ぼうかという瞬間、ゴールテープは切られた。電光掲示板には前年にビワハヤヒデが叩き出した日本レコードを更に1秒上回る、2分10秒2の新レコードが掲示されている。
その勝者はダンツシアトル。新王者誕生の瞬間だった。
だがファンの目は、ゴールを駆け抜けた勝者ではなく3角の下りで歩みを止めた彼に向けられていた。ライスシャワーの痛々しい姿は、それが取り返しのつかない絶望的な状況であることを示していた。
大きな傷を負いながらも最後の一歩を踏ん張ったライスシャワーにより、的場騎手は奇跡的に大きな怪我を負わずにいた。うなだれる的場騎手、そして川島厩務員の傍らで幕が張られ、ライスシャワーは淀の3コーナーでその生涯を終えた。
ダンツシアトルの勝利の記憶は、暗く辛い記憶と一緒にファンに刻み込まれた。重苦しい空気が競馬場を包んでいた。
優勝インタビューで村本騎手は「秋に結果を出して年度代表馬を狙いたい。それだけの馬です。」と答えた。場内を包む悲痛な空気の中で、愛馬の強さを誰よりも知る鞍上はダンツシアトルを称えた。
秋、ダンツシアトルはジャパンカップを目標に調整過程を歩んだ。今度こそ堂々と、万雷の拍手で勝者としての祝福を受ける機会が欲しかった。
だが、ダンツシアトルの脚は保たなかった。
屈腱炎の再発。不治の病はダンツシアトルを逃がしてくれなかった。1年を超える闘病生活の果てに3度目の復帰を目指した背景には、悲劇によって黒く塗りつぶされた栄光を取り戻す思いもあっただろうか。
懸命の治療を続けながらダンツシアトルは7歳、8歳と年齢を重ねたが、ついにターフに戻って来ることはなかった。あの宝塚記念から1年半が経った1997年1月。ひっそりと現役を去った。
1995年の眩しいほどの初夏の日差しの下で行われた宝塚記念。ライスシャワーの悲劇の記憶が刻み込まれたあのレースは、勝ち馬ダンツシアトルにとってのラストランにもなった。
もし、あの日ライスシャワーが全能力を発揮して、無事にゴールを駆け抜けていたらどうなっただろう。
淀が大好きな彼といえども、レコード決着はステイヤーの色が濃い彼には少し速すぎる決着だったかもしれない。あの決着の土俵であれば、ダンツシアトルに分があったように私は思う。
もし、ダンツシアトルの脚がもう少し丈夫だったらどうなっていただろう。
天皇賞・秋に間に合っていれば、1分58秒8の高速決着は彼の得意舞台。もしかしたらサクラチトセオーやジェニュインらの前に立ちはだかっていたかもしれない。
ジャパンカップの4着馬はタイキブリザード。彼を物差しにすれば、ダンツシアトルはランドを懸命に追うヒシアマゾンのすぐそばを走り、ゴール前を沸かせていたかもしれない。
有馬記念は少し距離が長かったかもしれないが、宝塚記念で退けたタイキブリザードとサクラチトセオーが2,3着なのであれば、マヤノトップガンに迫っていたって不思議はない。
1995年の初夏に刹那の輝きを見せてターフを去ったダンツシアトルのことを思い出す人は少ないだろう。だが間違いなくあの時、あの時代において、彼はトップホースの一角だった。
四半世紀を超えて私が正視できたあの宝塚記念の直線で、彼は誰よりも速く、強かった。決してまがい物ではない、本物の王者に相応しい走りを見せていた。
種牡馬になったダンツシアトルはJRAに購買され、北海道、東北、九州、栃木と全国のJBBA種馬場を渡り歩いた。
産駒はついにJRA重賞に手が届かなかったが、九州産馬の父として当地の重賞を幾つか制した。九州の馬産に貢献すべく彼は奮闘した。
シアトルスルーの血は今も世界を席巻している。もし彼にもう少し機会が与えられていれば、あるいは彼の栄光があの暗い記憶に呑み込まれなければ、違った未来があったかもしれない。
2020年9月。長く長く生きたダンツシアトルは30歳でこの世を去った。最後は老衰だったという。
あの日の淀でたった一度だけ交わり、そして大きな運命の分岐を迎えてしまった2頭。彼らはあの日の淀でなにか言葉を交わしたのだろうか。
身勝手な思いを投影するならば、ダンツシアトルはきっと、ライスシャワーの分まで生きた。そう思いたい。
あの1995年の宝塚記念のことをいつまでも胸に刻んでおこう。
ライスシャワーのためにも。
ダンツシアトルのためにも。
写真:かず