
かつて、寒さがそろそろ和らぐ2月下旬から3月上旬に行われていたダートの女王決定戦、エンプレス杯。
2024年からの体系変更によって5月にその施行時期を移した当競走は、グランダム・ジャパンの古馬春シーズンの最終戦となり、まさに「古馬牝馬ダート最強馬決定戦」としての位置付けが強くなったレースともいえる。
今でこそダート競走体系の改革や、砂の強豪の台頭、ネット投票の普及で中央地方の交流戦が盛んだが、この交流競走の取り組みが始まったのはいつからか、皆さんはご存知だろうか。
その答えは、1995年。そして今から約30年前であるこの交流元年に、彗星のごとく現れた最強女王がいた。
名を、ホクトベガ。永遠に夜空で輝く一等星として、砂上を照らす牝馬である。

■流れる星の星屑から一等星へ。
父ナグルスキー、母タケノファルコンの下に産まれたホクトベガ。
全兄、ホクトサンバーストの馬格に惚れ込んだ牧場関係者が、翌年再度の牡馬誕生を願って配合したのが彼女であったという。
しかし、生まれたのは牝馬であり、期待した馬格も兄とはまるで違う。そのうえ、幼駒時代の牧場では周りの仔馬たちからいじめられ、体質も強くなかったホクトベガは、育成過程に移り、入厩した後も常に体質難に悩まされ、デビューは大幅に遅れた。
だが、いざレースを走らせてみると、その素質が間違いではなかったことを彼女は次々と証明していく。
正月競馬での中山ダート1200mの新馬戦で加藤和宏騎手(現:調教師)を背にデビューを迎えると、好スタートから先手を取りそのまま9馬身差の圧勝。
続く朱竹賞こそ2着に敗れるが、カトレア賞、フラワーCを連勝し、勇躍、桜花賞に駒を進めたのだ。
デビュー前には体質の弱さなどの課題を抱えていた彼女が、4戦3勝2着1回の完璧に近い成績を収め、立派に重賞ウィナーとして桜の舞台に立つとは、関係者の喜びもひとしおだっただろう。
そして桜花賞5着、オークス6着に入った後、秋2戦を挟んで迎えたエリザベス女王杯。
メジロラモーヌ以来となる牝馬三冠がかかったベガ、のちのマイル女王ノースフライトを下し「ベガはベガでもホクトベガ」の名フレーズが出るほどに、彼女は戦いの中で成長していた。
しかし古馬となったあとは、牡馬相手の札幌日経OPをレコード勝ちし、札幌記念で連勝を飾ったものの、大舞台では勝ち切れないレースが続く。
とはいえ、当時は牝馬や短距離路線の整備も今ほど進んでおらず、目標となるレースも限られていた。そのため、一時は異例の障害入りまで検討されていたという。
そんな折、彼女に「中央地方指定交流競走の設立」という報せが舞い込む。
この交流競走こそが彼女を、いや日本の砂の競馬を変える大きな出来事となるのだった。
■川崎に光り輝く雨の星
1995年6月13日。雨の降りしきる川崎に、美浦から遠征してきたホクトベガが降り立つ。
その人気は1倍台。前年のエンプレス杯覇者のケーエフネプチュンと並び立つオッズではあったが、注目度は段違いでホクトベガのほうが上であった。
今でこそ地方交流競走の体系整備や調教施設の充実により、地方と中央の垣根が昔に比べて低くなっているが、交流競走設立当初は、まだその隔たりは大きいものだった。
折しも、このエンプレス杯の前の4月には中央所属のライブリマウントと石橋守騎手が帝王賞を勝っていたが、実力差が大きいと思われていた地方の競走に、中央馬が出走することへの反発や、懐疑的な見方も少なからずあった。
そんな時期に中央GⅠ馬として初めて、ホクトベガは地方の地を踏むことになる。いい意味でも悪い意味でも、注目されない訳がなかった。実際、中野隆良調教師はこのレースが近づくにつれて、胃が痛くなるような思いで毎日を過ごしていたという。しかしそれでも同師は、ホクトベガの挑戦について次のように語っている。
「交流レースに連れていくならヒシアマゾンかホクトベガ。そうでないと相手に失礼だと思った」
──『優駿』 未来に語り継ぎたい名馬物語 32異国の地で星になった「砂の女王」。ホクトベガという生き方(谷川 直子 2018年4月号掲載)より引用
事実、中野師はエンプレス杯にホクトベガを登録した際、自厩舎のエースであるヒシアマンも同時にエントリーしていた。地方に挑戦するなら実力馬を遠征すべき。そんな自分の信念があったからこそ、彼女を川崎の地に送り込んだのだろう。
果たして彼女は、そんな心配など杞憂に終わる伝説を作ることとなった。
水溜りができ、田んぼに近い不良馬場となった川崎競馬場の夜、7頭立てのゲートが開く。
ハナを切ったのは、2番人気のケーエフネプチュン。地元船橋の意地を見せるべく、果敢に先頭を取って逃げの手に出る。
2番手に笠松からやってきたクラシャトル。道営でたたき上げ、笠松に転入。安藤勝己騎手を背に砂上を駆ける淑女のすぐ横の3番手に、ホクトベガはいた。
4番手に当時南関東最強牝馬と目されていたアクアライデン、目下7連勝中の期待馬マフィン、中央900万下から転入初戦のファーストグッド、南関たたき上げのワンダーカナーが続き、7頭がスタンド前を駆け抜けていく。
しかし、既にスタンド前でホクトベガの前進気勢は抑えられなくなっていた。鞍上の横山典弘騎手がスタート後から手綱を引っ張りながらも引っ掛かりっぱなし。2000mとはいえ、前半のスタミナロスは後半致命傷になるのは間違いない。
そのかかり具合は1コーナーで落ち着いたとはいえ、隣を走るケーエフネプチュンはその間内で折り合いながらついてきていた。この時点で後ろを行くアクアライデンとは3馬身、さらに後ろを行くクラシャトル、マフィンとは既に10馬身近い差ができ、戦前の予想通り3番人気までの3頭で1着を争うレースになるかと、誰もが向こう正面時点までは思っていた。
スタート地点を過ぎて2周目に入るところで、競り合っていたケーエフネプチュンは早くも脱落。後ろから追い上げるアクアライデンも、ケーエフネプチュンに追いすがるのが精いっぱいの脚色。
だが、先頭を行くホクトベガの脚色は、鈍るどころかさらに加速していく。
馬上の横山典弘騎手が追い出したかと思われたが、その手綱はピクリとも動いていない。
道中競った相手が脱落するのを尻目に、その差を5馬身、6馬身と広げ、コーナーで減速するどころか更にその輝きを増したホクトベガに、対抗できる者などもう残っていなかった。
直線、横山典弘騎手はムチを一発入れただけ。
何もせずとも、彼女は伸びる。芝で一度は女王の座を戴冠したものの、その後何度も舐めた苦杯を振り払うように、悔しさを力に変えるように。
残り100m。2番手のアクアライデンはまだ200mの標識の手前。
既に勝負は決していた。
横山騎手は勝利を確信し、早くも右手でガッツポーズ。
雨中を切り裂いて、ホクトベガは期待をいい意味で大きく裏切り、観客たちの度肝を抜いてゴールイン。2着のアクアライデンとの差は、圧巻の18馬身。
4着のマフィンに騎乗していた山崎尋美騎手が放った「前のレースの馬が残っているのかと思った」という言葉が、いかにホクトベガの強さが異次元であったかを表している。
斯くして、雨のエンプレス杯は、衝撃の砂の女王の誕生で幕を閉じたのであった。
■煌めき、未だ色褪せず
このエンプレス杯の後、ホクトベガは芝に戻ったもののやはり伸び悩み、陣営は適性を信じて本格的に地方の舞台へとその脚を向ける。
転向後最初のレースとなった川崎記念では、このレースをステップに同年から創設されたドバイワールドカップに出走するライブリマウントの壮行レースとしての見方が強く、前年のエンプレス杯を制覇していたとはいえ、牡馬相手では若干の疑念が残っていたホクトベガは2番人気に留まっていた。
ところが、蓋を開けてみればライブリマウントどころか、南関東の雄アマゾンオペラ、大井のヨシノキング、ジャパンC馬レガシーワールド以下を完封。2着ライフアサヒに5馬身差をつけての完勝劇を飾った彼女は、ここから全国交流競走行脚の旅をし、重ねた交流重賞の連勝数は10。国内最終戦として選んだ1年後の川崎記念まで、彼女のダート重賞連勝記録が途絶えることはついになかった。
そして、彼女はそこからナドアルシバに飛び──その地で、輝く一等星になった。
彼女が残した、エンプレス杯で2着馬につけた3.8秒という数字、それは2026年の今でも破られることのない不滅の記録。中央でも、OPクラスのレースでそのような差がついたレースはない。それに加えて、牡馬を交えて2,3年もダート重賞を席巻し続けた牝馬ですら、彼女以降現れたことがない。まさに不可思議なまでの強さだった。
そんなホクトベガが地方で走るたび、「ホクトベガを一目見たい」と、全国のファンが地方の競馬場に押しかけ、そのたびに入場人員のレコード記録を作る。始まったばかりの交流競走において、これほど心強い存在はなかったであろう。
そして現在、ダートグレード競走は整備され、地方から中央へ、はたまた中央から地方へ行く馬たちの存在は珍しいものではなくなり、さらには地方から海外へ飛び立つ馬たちの登場も目立ってくる時代となってきた。
そんな改革の先端を担ったホクトベガは、もしかすると今も、全国各地の夜空で新しいスター誕生の瞬間を見守っているのかもしれない。

写真:かず
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