スポーツ、とりわけサッカーにおいて格下のクラブが格上のクラブに勝利する事を『ジャイアントキリング(giant-killing)』と呼んでいる。ジャイアントキリングの典型的な例として2022年の天皇杯 JFA 第102回全日本サッカー選手権大会が挙げられる。
Jリーグ2部(J2)のヴァンフォーレ甲府が格上のJリーグ1部(J1)に所属しているクラブを次々と撃破。決勝でJ1のサンフレッチェ広島に勝利し優勝した。当時のヴァンフォーレ甲府のJ2の順位は22チーム中18位と低迷。Jリーグ3部(J3)への降格を間一髪免れたクラブが優勝したのである。そんなクラブがJ1優勝、Jリーグカップ(通称:ルヴァンカップ )と並ぶ国内3大タイトルの1つである天皇杯を制し、アジアのサッカークラブNo1を決めるAFCチャンピオンズリーグに進み、ベスト16まで進んだ。
ジャイアントキリングを競馬に例えるなら圧倒的な支持を得た1番人気の馬が敗れる事であるかもしれない。特に単勝オッズが1倍台の圧倒的な支持を得た馬が敗れた場合は波乱と言ってもおかしくはないはずだ。
G1レースに昇格して40年近く経つ安田記念。過去には、単勝1.1倍の圧倒的支持を得て勝った1985年のニホンピロウイナーや単勝1. 3倍の支持を得て勝った1998年のタイキシャトルなど、圧倒的な支持を得た馬が強い競馬で勝つシーンがある。
その一方で単勝オッズが1倍台の馬も敗れる事が多いのが安田記念というレースで。今回は単勝オッズが1倍台の馬を負かして安田記念を制した馬を取り上げたい。
エアジハード(1999年)
1999年の安田記念は、グラスワンダーが圧倒的な支持を得ていた。前年の有馬記念を制した後、予定されていたレースを回避するなど万全でなかったグラスワンダーであったが、京王杯スプリングカップで上がり3ハロン33秒3と、当時の競馬では規格外の末脚で勝っていた。京王杯スプリングカップのレースぶりに加えて一度使っての上積みが期待され、単勝オッズ1.3倍の圧倒的な支持を得た。
2番人気に支持されたのが中山記念などを制し本格化の兆しが見えてきたキングヘイローだったが、単勝オッズが6.0倍と離れていた。3番人気のシーキングザパールの単勝オッズが11.4倍と、3番人気からは単勝オッズが10倍以上と。アクシデントが無い限りグラスワンダーが勝つ、そんな『グラスワンダー1強』のムードが漂っていた。
ゲートが開くと、逃げると思われていたキョウエイマーチが出遅れる波乱のスタート。かわりにアグネスワールドが逃げ、キングヘイローが2番手に付け、グラスワンダーは中団に待機していた。後方には京王杯スプリングカップ2着のエアジハードとシーキングザパールが控える。
前半800mを46秒5のペースで進み、最後の直線に各馬が差し掛かる。グラスワンダーが満を持して先頭に立った。しかし、外から迫って来たのがエアジハード。2頭のデッドヒートとなり、並んでゴールを迎えた。
グラスワンダーがダートコースから検量室に戻ったのに対し、エアジハードに騎乗した蛯名正義騎手は芝コースでのウイニングランを敢行。そしてその通り、ハナ差でエアジハードがグラスワンダーを負かした。
エアジハードは東京競馬場芝コースに限れば、NHKマイルカップの8着以外は全て2着以内。コース適性も高く、もっと高い支持を集めてもおかしくはなかった。しかし、スローペースの2番手から早めに抜け出すもグラスワンダーに差された京王杯スプリングカップの結果を踏まえて、エアジハードの逆転は厳しいと思われたのだろう。
だが、大一番で蛯名騎手がそれまでの先行策から追いこむ競馬に転換させた事でジャイアントキリングを達成したのである。
ロゴタイプ(2016年)
エアジハードvsグラスワンダーの安田記念がおわっめ以降、単勝オッズが1倍台の圧倒的支持を得た馬は、2009年のウオッカ(1.8倍)。さらに2014年のジャスタウェイ(1.7倍)が続く。この2頭はどちらとも、強い勝ち方をした。
2016年の安田記念も1頭の馬に注目が集まった。前年の安田記念の覇者であるモーリスである。モーリスは、安田記念を制した後もマイルチャンピオンシップ、香港マイルと香港のG1レースであるチャンピオンズマイルを制し、マイルG1レースを4連勝。芝のマイル(1600m)ではモーリスが負けるはずがないと、ファンはモーリスの勝利を信じ、単勝オッズが1.7倍と抜けた人気となった。以下リアルスティールが4.5倍、サトノアラジンが5.5倍と続いた。
ゲートが開くと、ロゴタイプがハナを主張して逃げる展開に。スタートはまずまずであったモーリスだったが、折り合いを欠く仕草を見せる。リアルスティールも同様に折り合いを欠き、サトノアラジンは後方から4番手でレースを進める。
前半800mを47.0秒で通過。マイルのG1レースにしてはややスローに流れる。4コーナーを曲がって最後の直線に入り、ロゴタイプが先頭に。2番手にモーリスがいて、ここでファンの多くはモーリスの勝利を確信していたかも知れない。しかし、インコースにピッタリと走らせたロゴタイプが再び突き放す。残り100mでモーリスが迫ってくるが、ロゴタイプがモーリスに1馬身1/4差を付けて先頭でゴールした。単勝8番人気で単勝オッズが36.9倍のロゴタイプが絶対王者・モーリスを撃破した瞬間だった。
ロゴタイプも2013年の皐月賞などG1レースを2勝挙げた実績を持っていた。しかし、その皐月賞以来3年2ヶ月勝利からは遠ざかっていたというのも事実である。一時期はダートにも出走していたロゴタイプだが、前走のダービー卿チャレンジトロフィーで2着に入るなど徐々に復調の気配はあった。
そして騎乗した田辺裕信騎手のファインプレーもあった。他の馬達が馬場が荒れていない外を選択したのに対し、田辺騎手は敢えてインコースを選択。このコース取りでモーリスとの差を広げた。エアジハードと同様、騎手の判断が後押しする形でジャイアントキリングが達成した瞬間であった。
インディチャンプ(2019年)
エアジハードやロゴタイプはそれぞれグラスワンダーやモーリスといった1強と言われた馬を破ったケースである。だが、2019年の安田記念は2強の対決と言われていた。それでも単勝オッズが1倍台の馬がいた。それがアーモンドアイであった。前年の牝馬三冠とジャパンカップを制し、この年のドバイターフを制したアーモンドアイの単勝オッズは、1.7倍であった。
この年の安田記念はもう1頭抜けた人気を得た馬がいた。2017年の朝日杯フューチュリティステークスを制し、前哨戦のマイラーズカップを制したダノンプレミアムである。ダノンプレミアムの単勝オッズが3.2倍。3番人気のアエロリットが12.5倍と離れた人気になるなど、2強のムードが漂っていた。
しかしスタート後、16番ゲートからスタートしたロジクライが内側へ斜行。15番ゲートからスタートしたダノンプレミアム、さらに14番ゲートからスタートしたアーモンドアイなどの進路を妨害してしまった。人気の2頭が後方からの競馬となり、波乱を予感させるものであった。
レースはアエロリットが前半800mを45.8秒のペースで逃げる。一見すると速い展開に見えるが、アエロリットはハイペースの競馬でも逃げ粘る事がある。4番人気のインディチャンプが5番手、スタートで不利を受けたダノンプレミアムが徐々に進出。アーモンドアイはダノンプレミアムを見る感じで直線に入った。
残り200mでアエロリットの脚色が鈍くなると、馬場の真ん中を通ってインディチャンプが迫ってくる。ダノンプレミアムは最後方まで下がった。大外からアーモンドアイが迫ってくるが、インディチャンプがアエロリットを交わして先頭に立つ。アーモンドアイが猛追するもアエロリットに及ばず3着になった。
インディチャンプはこれまでのキャリアで最も長い距離で走ったのは芝1800mの毎日杯(3着)のみと、生粋のマイラーであった。この年の東京新聞杯を制したが、マイラーズカップではダノンプレミアムの4着に終わり、やや評価を少し落としていた。だが、マイラーズカップを使った事で良い意味でのガス抜きができたインディチャンプ。正真正銘のマイラーがジャイアントキリングを達成した瞬間であった。
グランアレグリア(2020年)
アーモンドアイは2019年の安田記念の後は天皇賞・秋を快勝。2020年連覇を狙ったドバイターフはドバイへ渡った後に新型コロナウイルスの感染拡大のため中止。帰国後に挑んだヴィクトリアマイルを制覇し、芝のG1レースで7勝目を挙げた。そして2020年の安田記念で、前人未到の芝G1レース8勝目を狙っていた。
2020年の安田記念は、無観客での開催となった。WINSも閉鎖され、馬券の発売は電話投票とインターネット投票のみ。アーモンドアイの単勝オッズは1.3倍の圧倒的な人気であった。2番人気には前年の覇者でその後マイルチャンピオンシップを制したインディチャンプが7.0倍。3番人気のグランアレグリアが12.0倍と、アーモンドアイ1強のムードが漂っていた。
ゲートが開くと、クルーガーが出遅れ、アーモンドアイも若干出遅れる。ダノンスマッシュが好スタートを決めて逃げる展開に。グランアレグリアとインディチャンプの2頭は中団からレースを進め、スタートで後手を踏んだアーモンドアイもグランアレグリアを見ながらレースを進める。
前半800mを45.7秒で通過。最後の直線に入り馬場の真ん中からグランアレグリアが伸びてくる。外からアーモンドアイが迫ってきたものの、坂を登り切った所でグランアレグリアが先頭に立ち後続との差を広げる。アーモンドアイも迫ってくるが、グランアレグリアとの差が縮まらない。グランアレグリアがアーモンドアイに2馬身1/2差を付けて先頭でゴールした。
考えてみれば、グランアレグリアも前年の桜花賞を制しているマイルの実績馬である。しかし、ヴィクトリアマイルを熱発で回避するなど順調でないローテーションでもあった。また、クリストフ・ルメール騎手がアーモンドアイを選択した事もあってか、12.0倍の評価となった。レース後に出た上がり3ハロンの各馬のタイムでは、アーモンドアイは33.9秒をマークしたが、グランアレグリアは33.7秒とメンバー最速。完勝と言っていい内容であった。
スタンドには誰もいない中、芝コース上でウイニングランをする池添謙一騎手とグランアレグリア。地下馬道には、万歳をしながら待っている藤沢和雄調教師の姿があった。
ダノンキングリー(2021年)
安田記念を制したグランアレグリア。その後はルメール騎手とのコンビが復活。スプリンターズステークスやマイルチャンピオンシップを制し、2021年にはヴィクトリアマイルを快勝した。アーモンドアイが引退するなど、芝マイル界はグランアレグリアの独壇場となっていた。
2021年の安田記念では「追う立場」から「追われる立場」へと変わったグランアレグリア。『芝のマイルでグランアレグリアが負ける事はないだろう』と考えたファンは多く、グランアレグリアの単勝オッズは1.5倍と、圧倒的な支持を得た。
ゲートが開くと、カテドラル以外の13頭は五分のスタートを切った。ダイワキャグニーとトーラスジェミニが逃げる展開になり、インディチャンプは前を行く4頭を見る。インディチャンプを見るかのようにダノンキングリーが進み、グランアレグリアは中団よりやや後ろでじっくりと脚を溜めていた。
前半の800mを46.4秒のペースで進む。残り400mの地点でグランアレグリアがダノンキングリーにマークされ、なかなか抜け出せない。残り200mで前を行くインディチャンプの内側から抜こうとするグランアレグリアだったが、外からダノンキングリーが迫る。最後はグランアレグリアとダノンキングリーの2頭の争いとなったが、僅かにダノンキングリーが先頭でゴールした。
元々は2019年の日本ダービー2着などの実績を持っていたダノンキングリー。高いポテンシャルを秘めながらいつG1レースを制してもおかしくはない状態が続いていた。しかし4歳となった2020年のダノンキングリーは大阪杯で3着、安田記念では7着。3番人気に支持された天皇賞・秋に至っては勝ったアーモンドアイから離されること2.9秒。最後方で終わった。
天皇賞・秋からおよそ7ヶ月ぶりに出走した安田記念。古馬のG1レースで苦戦しているダノンキングリーを見て単勝オッズは8番人気の47.6倍の評価だった。前走で最下位に敗れた馬が次走のG1レースを勝利する事は1984年のグレード制導入後初の快挙となった。また単勝支持率が1.67%での勝利はレース史上最も人気薄での勝利でもある。まさにジャイアントキリングといえる大勝利であった。
写真:Horse Memorys、かぼす、かず