夏休みのある日の夜、川崎競馬の山﨑裕也厩舎のバーベキューに参加させていただくことになりました。台風7号が本州に接近していたこともあり、花火大会が中止になったばかりか、バーベキューの日程も1日延期されましたが、当日は雨も風もない台風一過の夜になりました。誘っていただいた友人と川崎競馬場で待ち合わせすると、そこには「最速で地方競馬の馬主になる本」を書いたあらいちゅーさんもいました。3人の競馬好きはタクシーに乗り込み、そのまま川崎競馬小向厩舎に向かいます。
川崎競馬場には何度も足を運んでいますが、JR川崎駅をはさんで向こう側にある川崎競馬小向厩舎には初めての訪問です。小向厩舎には川崎競馬に所属する厩舎が集まっています。その中のひとつに山﨑裕也厩舎があるということです。僕の知る限り、大井競馬場も浦和競馬場も盛岡競馬場も、地方の競馬場は競馬場と厩舎が隣り合わせの距離にあり、すぐに連れて行ける(帰れる)形になっているところがほとんどです。川崎競馬は小向厩舎から競馬場まで馬運車に乗せておよそ15分から20分ぐらいの距離でしょうか。馬にとってはそれほど負担になる輸送とは思えませんが、歩かせて行ける競馬場に比べると、人間にとっては少し大変ですね。
小向厩舎の敷地内に入ると、厩舎の建物が並んでおり、馬や車、人間が十分に通れる広い道で区切られています。真正面には、大きな馬頭観音が静かに立っています。あたりは薄暗くなってきたこともあり、厩舎の看板が見えにくく、どこがお目当ての山﨑裕也厩舎かと探していると、「こちらです!」と電話がかかってきました。A―7と記されている建物が山﨑裕也厩舎で、入口のところでスタッフさんが手を振ってくれています。山﨑裕也調教師と対面し、席まで案内されました。YouTubeなどの動画で観ていたよりももっと爽やかな印象を受けました。こんな調教師の元で働けるスタッフは幸せですね。若いスタッフが多いことにも驚かされました。
2023年の8月16日時点で、山﨑裕也厩舎は川崎競馬で34勝を挙げており、昨年度の44勝を遥かに上回るペースで勝ち星を量産し、高月賢一厩舎に次ぐ2位。南関東の調教師リーディングでも8位につけています。「僕は何もしていないのですが、スタッフが頑張ってくれています」と山﨑調教師は語ります。半分本音でしょうが、半分は山﨑調教師の人脈の広さ、人柄の良さ、そしてこうしてバーベキューに僕を招待してくださるようなオープンな雰囲気が、良い人と良い馬を呼んでいるのだと思います。
上手健太郎獣医師から差し入れられた肉が焼かれ、僕たちはビールを片手に競馬談義に花を咲かせました。僕と友人Fさん、そしてあらいちゅーさんの3人は生産の世界に足を踏み入れたという点で共通していました。アラフィフ世代の僕たちは、時代の荒波に揉まれつつ、何とか生き残って、ようやく繁殖牝馬を持てるぐらいの甲斐性を手に入れたのです。それぞれに苦労があったと思いますが、今となっては良き思い出のひとつでしょう。一口馬主から共有馬主、そして1頭持ちとなり、さらにそこから繁殖牝馬を持って生産のステージに軸足を移す競馬ファンは、往年のオグリキャップを見て初期のダビスタに熱狂した世代を中心として、これからも少しずつ増えていくはずです。
もうひとり外部から招待されていた男性も僕と同学年であることが判明しました。昭和50年の2月生まれと言いますから、3月生まれの僕と1か月違い。「遅生まれですね」と握手をすると、「いや、早生まれですよ」と返されました。たしかに、人間で言うと、1月1日から4月1日までが早生まれ、それ以降を遅生まれといいます。馬の場合は同世代で1月や2月に早く生まれた馬が早生まれ、5月や6月に遅く生まれた馬が遅生まれですから、その感覚で僕自身は遅生まれだと感じていました。いずれにしても、僕と彼は同学年でも最後の方に生まれ、成長が遅いまま幼年~青年期を育った点で共通しています。
いつ競馬を始めたのかという話になり、僕は「オグリキャップが有馬記念で劇的な復活を果たして引退した年」と言うと、彼も全く同じと返ってきました。僕が高校1年生のときに友人に連れられてウインズに行き、初めて競馬を見た思い出を語ると、彼は中学3年生のときに友だちに小栗という奴がいて、その年にオグリキャップが引退して大ニュースになったから印象的に強く残っていると話しました。同学年の僕も彼も競馬を始めたのはオグリキャップが引退した年であるにもかかわらず、僕は高校1年生の時で彼にとっては中学3年生のときだったと話が食い違います。どちらも譲らず、最終的には時空が歪んでいるという結論に達しましたが、どう考えてもオグリが引退したのは昭和50年生まれの僕たちが高校1年生の年です。まあ噛み合わないところがあっても、互いに競馬が好きであればよしとしましょう。
BBQパーティーはあっという間にお開きになり、僕たちは山﨑裕也調教師やスタッフの皆さまにお礼を言って、帰途に就きました。いつか自分の生産馬を山﨑裕也厩舎に預かってもらえる日が来ると良いなと思いました。帰りがけに、馬頭観音に参ろうと誰かが言い出し、僕たちは目をつぶって手を合わせました。ひとりが「馬を持つようになってから、馬頭観音を見るたびに足を止めて、拝んでしまう癖がついてしまって」と言いました。
僕の住んでいる町田にも馬頭観音がひっそりとあります。競馬場の近くでもないのに、なぜだろうと不思議には思っていました。調べてみると、近世以降は馬が移動の手段として使われることが多くなり、その道中で急死した馬を祀って供養するために馬頭観音がつくられたそうです。もともとはヒンドゥー教の最高神であるビシュヌが、馬の頭に変身して敵を倒したとされる神話を起源としているそう。怒りの激しさによって苦悩や諸悪を粉砕し、馬が草を食むように煩悩を食べ尽くし、災難を取り除いてくれる観音様なのですね。今度、近くの馬頭観音に手をあわせて、煩悩を取り除いてもらい、ダートムーアとスパツィアーレ親子たちの健康も祈ってきたいと思います。
(次回に続く→)