[連載・片目のサラブレッド福ちゃんのPERFECT DAYS]卵が2つと消えた卵(シーズン1-23)

夜が涼しくなってから、トイプードルのチョコを散歩していると、慈さんから携帯に電話がかかってきました。「サマーセールの申込書が今日届きましたので、明日持って行ってきます」という第一声に、そういえば明日が締め切り日であることを思い出しました。申込書がこちらに届いておらず、慈さんが気づいてくれなければ、あやうく申込みし忘れるところでした。明日、慈さんに日高軽種馬農業協同組合に書類を持って行ってもらい、それでサマーセールの手続きは完了です。何とか間に合いました。初めてのことだらけで、こんなギリギリ感も新鮮です。

この話は前置きに過ぎませんでした。慈さんが伝えたかったのは、この先に分かるふたつの話です。良い報告を先に、悪い報告は後からという原則をさすが慈さんは熟知しています。「まずひとつめは、スパツィアーレの妊娠鑑定を今日しました…」と切り出してきましたので、心の準備はできている僕は「受胎していなかったのですね」と先に答えを言ってしまいました。

準備ができているとはいえ、ホットロッドチャーリーとの配合はできる限りのアウトクロスを心がけたので、今回受胎していなければ僕としてはお手上げですし、不受胎はインクロスの弊害という理論が音を立てて崩れてしまうことになります。3年間にわたる不幸の連続の末に解き明かした数式の答えが、実は間違っていたと告げられるようなものです。僕にとっての生産はゲームオーバーということになりかねません。

「治郎丸さん、そうではなくて、受胎はしていたのです。でも、卵が2つあるのです」と、答えは合っていたけど途中式に誤りが見つかりましてみたいなトーンで慈さんは話を展開させてきます。いわゆる双子です。噂には聞いていたけど、卵2つ問題が自分に降りかかってくるとは…、しかもこの大事なタイミングで。心中を察せられないように、「昨年は一度も受胎しなかったのに、今年は受胎したと思ったら卵が2つ。ひとつ去年に回したいぐらいだよ」と冗談を言いながら、慈さんに話を進めてもらいました。

「実はかつてうちも卵が2つになったことがあって、ひとつを潰したのですが、その後、もうひとつも消えてしまったことがありました」と縁起でもない話を教えてくれます。「そのときは、ほんとうに2つの卵が重なってしまっている状態でしたから、ダメ元で潰してもらいましたが、やっぱり2つとも消えてしまいました」生産者にとっては日常茶飯事かもしれませんが、僕にとってはショッキングな話の連続です。

サラブレッドは人間と違って、卵がふたつある、つまり双子であることが分かった時点で、小さい方の卵を獣医師さんに手で潰してもらいます。そうしないと、どちらも未熟児として生まれてくる可能性が高く、また死産のリスクも極めて高く、たとえ生まれてきたとしても2頭の仔馬を1頭の母馬が育てるのは栄養的に難しいそうです。2頭も生まれてきたらラッキーだと考えるのは素人考えであり、残酷なようでも、卵がふたつあることが分かったら、一刻も早い段階で1つを潰さねばなりません。両方が大きくなってから片方を潰すと、もう片方も死んでしまう可能性が高くなるとのこと。これほどまでに待ちわびた受精卵のひとつを潰してしまうのはもったいない気がするのですが、仕方ありません。植物でいう間引きのようなものでしょうか。

獣医師さんいわく「スパツィアーレの2つの卵は離れているので大丈夫ではないか」とのこと。受精卵の位置が離れていると、片方が生き残る確率は高いそうです。そのメカニズムは全くもって分かりませんが、僕は獣医師がスパツィアーレの卵を握りつぶしているシーンを想像してしまって、どうにもいたたまれない気持ちになりました。そこまでしないと生命は生まれてこないのか、生きるということは何て残酷なのか。2つの卵のうちひとつを潰してもらうだけでこんなナイーブなことを言っているようでは、僕は生産者には向いていないのだと思います。

「もうひとつは、ダートムーアのことです」と慈さんは続けます。ここまででもうお腹いっぱいですが、「ダートムーアの受精卵の中に胎児が見えないみたいです」と聞き、僕は背中からとどめを刺された気がしました。種付けをしてから13日後の妊娠鑑定に立ち会い、自分の目でまん丸な受精卵を確認したにもかかわらず、あれから2週間後、受精卵の中に胎児が見られない、つまり受精卵はあるけれど胎児は死んでしまっているということです。「エコーで見失ってしまっている可能性もありますから、4日後にもう一度見てもらいます。僕はまだあきらめていません」と慈さんは慰めてくれますが、実は胎児が隠れていたなんて可能性は極めて低いと思います。

「治郎丸さんは本当に…」と慈さんが言いかけて、しばらく間をあけて、「いろいろありますね」と言葉を変えてくれました。僕も同じことを言いたかったので、慈さんが言わんとしたことは分かっています。でもそれを言ってしまうと、今まで我慢してきたことが雪崩のように崩れて、わずかな希望までを帳消しにしてしまうような気がして、僕も慈さんも口には出しませんでした。その代わり、「良いこともあれば悪いこともありますよ。いや違うか、悪いこともあれば良いこともありますよ」と慈さんは締めくくってくれました。

「次から次へと、どれだけ僕にネタを提供してくれるのですかね」と強がりを言ってみたものの、僕の脳裏には走馬灯のように過去のできごとが浮かんでは消えていきました。ダートムーアの臍帯捻転による流産から始まり、スパツィアーレの不妊、小眼球症の福ちゃんの誕生、卵ふたつ問題、受胎したけれど胎児消滅まで、よくぞ3年の間に詰め込んでくれたと嫌味のひとつも言いたくなるぐらい不運ネタの連続です。ここまで来ると、僕の日頃の行いやこれまでの生き方が悪かったと思うしかありません。実は本業もここ数年上手く行っておらず、何もかもうまく行かない現状は、全て僕の悪行の見返りなのです。そもそも自分の会社とはいえ、会社の利益を馬の生産につぎ込んでしまったことから間違えているのです。自分のお小遣いで遊べる範囲で良かったのに、ひとつの事業としてなどと気張って生産の世界に踏み込んだのが悪かった。ここまで来た以上は簡単には止まれませんが、僕はどこかで道を踏み外してしまったのでしょう。

(次回へ続く→)

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