言わずもがな、競馬は優勝劣敗の世界。
1着こそが名誉であり、1着馬の関係者こそが拍手喝采を浴びることが許される世界だ。
けれど、長年競馬を観て来た私が
“賞賛される2着というものがある”
と感じたことが、過去に3回ある。
まずはトゥザヴィクトリーが2着となった、2001年のドバイワールドカップ。これまで日本最強のダートホースが挑んでも跳ね返されていたレースで、芝の重賞勝ち馬であるトゥザヴィクトリーが果敢に挑戦して2着となった。衛星中継されたそのレースをLiveで観ながら、大声を出して応援していた。
2つ目は、エルコンドルパサーの凱旋門賞。その時代時代での日本の最強馬でさえ見せ場すら作れなかった欧州競馬の最高峰のレースでも、臆することなくハナを切って自分でペースを作った。モンジューの決め手には屈したものの、この2着は日本だけでなく欧州でも高く評価されている。
そしてもう1つは、1983年のジャパンカップ。当時は外国馬に全くと言っていいほど歯が立たなかった中、キョウエイプロミスが自身の競走生活と引き換えに2着に好走したレースだ。その当時の時代背景も含めて、この年のジャパンカップを掘り下げて書き進めていきたい。
1983年は元号に置き換えると昭和58年。
時の総理大臣は中曽根康弘で、朝の連続テレビ小説の「おしん」は平均視聴率52.6%、最高視聴率は62.9%という、大ブームを巻き起こていた。
村下孝蔵の『初恋』、細川たかしの『矢切の渡し』、ヒロシ&キーボーの『3年目の浮気』がこの年のヒット曲となり、最も売れたシングルは大川栄策の『さざんかの宿』だった。任天堂から『ファミリーコンピューター』が発売をされたことも、大きな出来事と言えるかもしれない。数年後、日本にやって来る「バブル景気」の胎動すら、まだ見えていなかった。
この年の日本の競馬界は、シンザン以来となる三冠馬ミスターシービーが誕生し、大いに盛り上がっていた。この出来事は海の向こう、つまり海外にも知れ渡っており、外国の競馬関係者はミスターシービーがジャパンカップにも出るものだと思っていた。
ところが、いざ彼らが来日してジャパンカップの出走馬の一覧を見ると三冠馬の名はなく【Kyoei Promise】という馬が日本のエースとしてエントリーしていたのである。
キョウエイプロミスは、当初からこのジャパンカップで有力視された存在ではなかった。
この前年の6歳(旧表記)時、暮れの有馬記念ではヒカリデュールの3着に入ったものの、明けて7歳となった1983年のキョウエイプロミスの春は全休。慢性的な脚部不安を抱えており、それが再発したため、この年の始動レースは10月の毎日王冠からだった。そこで3着と好走、そして当時はまだ3200mで行われていた天皇賞(秋)に出走した。タカラテンリュウと1番人気を分け合う形になったが、レースでは見事に勝利し勇躍、ジャパンカップ挑戦となった。
そのジャパンカップの2日前に行われた公開記者会見でのこと。
キョウエイプロミスの関係者として壇上にいた高松邦男調教師と柴田政人騎手の顔色が変わる出来事があった。
「なぜ、ミスターシービーがジャパンカップにエントリーしないのか?」
「今の日本で、最も強いと思われる三冠馬が参戦しないことが理解できない」
海外からやって来た競馬記者が、そう問うたのである。後から考えればナンセンスな質問だと理解できるが、これが海外の競馬記者の当時の偽らざる気持ちだった。
おもしろくないのは、キョウエイプロミス陣営である。三冠馬に敬意を払いつつも
「ミスターシービーより格下」
と、あからさまに指摘された事実に怒りを抱いていた。そして、その怒りを隠しつつ、努めて穏やかな表情や声で高松調教師がこう答えた。
「(今の日本最強馬はウチの馬)ですから、キョウエイプロミスがあなた方の馬のお相手をするわけです」
キョウエイプロミスの背に乗る鞍上の柴田政人騎手(当時)も、デキの良さを感じていた。春先に無理をさせなかったことが馬には良かったようで、自信を持って臨む、とレース前には話していた。
そして、1983年のジャパンカップのゲートが開いた。
1番人気のハイホークが出遅れ、そして“黄金の馬”ハギノカムイオーが捨て身の逃げでレースを引っ張った。淀みのない流れはサバイバル戦の様相を呈して、1頭また1頭と脱落していった。
最後の直線、先頭に立ったエスプリデュノールに馬体を併せにいったのは──何と、キョウエイプロミスだった。さらにその外から伸びて来たのは、アイルランドのスタネーラ。
3頭並んでの叩き合いとなった。
テレビ中継の解説で放送席に居た“競馬の神様”大川慶次郎さんが、マイクのスイッチが入ったままになっているのも忘れて「プロミス!プロミス!!」と絶叫するほどだった。
結果、外のスタネーラが1着、頭差の2着がキョウエイプロミス、そしてさらに頭差でエスプリデュノールが入った。
初めて日本の馬が2着に入ったことで、場内は大いに盛り上がった。
直前の天皇賞(秋)を勝ったものの、人気は16頭立ての10番人気。それでも、日本のエース格と位置付けられていた古馬の代表が意地を見せた。
けれど次の瞬間、その大歓声がかき消されてしまうような光景が、目の前で広がっていた。
キョウエイプロミスの背に居た柴田政人騎手が下馬。馬は馬運車に乗ってコースを後にしたのだ。それはつまり、脚が故障したことを意味していた。常々、脚元の様子を見ながら調整されていたキョウエイプロミスだったが、それがついにジャパンカップのレース後に出てしまったのである。
右前脚繋靱帯不全断裂。競走能力喪失という重い診断が下され、これが現役最後のレースとなった。
「たら・れば」は勝負事の世界では禁句だけれども、ジャパンカップのレース後の共同記者会見でイギリスのブラフ・スコット氏から、柴田政人騎手に今度はこんな質問が飛んだ。
「あの脚のケガがなく無事だとしたら、どういう結果になっていたと思いますか?」
この問いに対して柴田政人騎手はぶっきらぼうに、こう答えた。
「ご想像にお任せします……」
それまでジャパンカップは、世界との差を痛感させられるだけのレースだった。けれど、競馬後進国とされていた日本の競馬が世界の強豪相手にも通用することをキョウエイプロミスは日本の競馬ファンの前で証明してくれたのである。
翌1984年、ついにカツラギエースが日本馬として初めてジャパンカップを制した。以降、日本の馬でも外国馬と互角に渡り合うようになり
「20世紀のうちに、日本馬はジャパンカップを勝てない」
などというフレーズは死語となっていった。
四方を海に囲まれた島国である日本で私は育ったからこそ、海外の猛者と戦う姿に心を奪われるのだと思う。21世紀、ましてや令和の時代なら、野球やフットボールの選手が海外のチームに移籍することに違和感すらないし、海外の競馬情報も簡単に手に入れることができる。
けれど、インターネットもSNSも無い昭和50年代に、これだけの走りを見せたキョウエイプロミスの偉業は、いつまでも色褪せないものだと思う。
自らの競走生命と引き換えにした1983年のキョウエイプロミスのこのジャパンカップ『2着』は、日本競馬が初めて“世界に手を掛けた”瞬間であり、名前のとおり翌年以降の日本馬の活躍を“約束”した、大劇走だった。