有馬記念、もうひとつのラストラン物語/スマートレイアーとアエロリット

「有馬記念は名馬のラストランを見送るレースである」。

その言葉には、「別れ」への一抹の寂しさと、次のステージに旅立つ「夢」が宿る。

長い歳月をかけて磨かれた血が、冬の中山に最後の蹄跡を刻む瞬間。私たちは勝敗だけでなく、名馬が今まで積み重ねてきた勝利の記憶までも見届けようと、静かに息を呑む。

ラストランとは、終わりではなく、血統と魂が次代へ受け渡される儀式のようでもある。

有馬記念を引退レースとして、毎年競馬場を湧かした馬たちが去って行く。最後のレースとなる有馬記念で勝利し、大団円を迎える馬がいれば、往年の力を発揮できず馬群の中で静かに去って行く馬もいる。いずれの馬にも、ここまで応援してきた「推し」たちが必ずいて、最後の雄姿をカメラに収めようとする者。最後のシーンを一挙手一投足見逃すまいと、涙ぐみながら目に焼き付ける者。何百人、何千人の「推し」たちが、旅立つ馬へ拍手を贈っている。レースが終わりスタンドに響き渡る歓声は、去って行く馬たちへの「はなむけの言葉」なのかもしれない。

過去の有馬記念を紐解くと、最も「カッコいいラストラン」だったと、真っ先に頭に浮かぶのが、ディープインパクトのラストランだ。スタートからゴールまで、ディープインパクトのために演出されたような展開。終始スタンドに近い大外に進路を取り、ゆったりと後方を追走する。そして、最後の直線。一完歩ごと、常に美しいフォームで先頭に立つディープインパクトは、映画のラストシーンを見ているようだった。

「これだ! これがディープインパクトだ! 圧勝で、今、ゴールイン!」

実況に合わせたようにゴールするディープインパクトのラストランを、今でもはっきりと覚えている。

オグリキャップ、シンボリクリスエス、オルフェーヴル、キタサンブラック…。ラストランとして有馬記念を選んだ名馬たちが、勝利で引退するシーンを多く見てきた。有馬記念の優勝レイを懸けた彼らが、誇らしげに本馬場を周回している姿は美しい。

しかし、それ以上に記憶に残るのが、推し馬たちが有馬記念をラストランに選び、敗れて競馬場を去って行く姿である。ラストランを終え、無事に検量室前に帰って来る姿を見た時の安堵感。それは私だけでなく、鞍上も関係者たちも、そして馬も。何ともいえないホッとしたムードが、検量室前のスペースに漂う。鞍を外した推し馬が、厩務員さんに引かれて去って行く姿を見送るのが、私にとって、その年の有馬記念での〆になっている。

牝馬がラストランに有馬記念を選ぶ…ましてやラストランを優勝で飾るのは稀なこと。近年では2014年にジェンティルドンナが、2019年にはリスグラシューがラストランで優勝を飾っているが、多くのラストラン牝馬たちは、馬群の中でゴールを迎えている。繁殖入りが確定し、引退レースに有馬記念を選ぶ牝馬たちは、そこに至るまでの輝かしい蹄跡と、牡馬たちと互角に戦ってきた気迫を備えた名牝たちだ。ただ、ピーク期を過ぎて、パドックを周回する彼女たちの眼力が優しくなっていくのを見ていると、勝つことより、無事に帰ってきて欲しいと願うばかり。いつもそんな気持ちで、有馬記念ラストランのパドックを見ている。

2010年代後半、有馬記念で思い入れのある牝馬たちのラストランを見送った。彼女たちのラストランは、有馬記念をラストランに選ぶまで紆余曲折、さまざまな選択肢の中で、「有馬記念で引退」を選んだはずだ。まだまだ現役で走りたい気持ちを心の中に閉じ込め、有馬記念に向かった彼女たちの走りは、その個性を存分に発揮し、ファンたちの記憶の中にしっかり刻みつけた。

■2018年 8歳牝馬の大団円、スマートレイアー

「レイア―姐さん」と慕われ、多くの「姐さん推し」をスタンドの最前列に集めたスマートレイアーも、レースを重ねるごとに8歳の秋を迎えた。牝馬が8歳で現役生活を送ることさえ珍しい中、スマートレイアーは7歳秋の京都大賞典を制している。3歳秋に秋華賞でメイショウマンボの2着に入り注目されると、阪神牝馬特別、東京新聞杯を制するなど、主にマイル前後の重賞戦線で活躍した。6歳以降は長い距離の重賞戦線にも顔を出し、香港ヴァ―ズ5着、京都記念2着などを経て、7歳秋に2400mのGⅡを制する。しかし、8歳になると、気丈な「姐さん」も、次第に往年のパワーが翳りを見せ始め、凡走を重ねるようになった。芦毛の馬体は真っ白になり妖艶さを増す。レース中の馬群の中でも、白い馬体は際立って目立った。秋になり京都大賞典、エリザベス女王杯で着外に敗れると、次走に有馬記念が選択される。そのリリースを耳にして、「姐さん推し」たちは現役引退を感じ取ったという。

誰もがラストランとして見送った有馬記念。スタートしてすぐ馬群の中に潜り込み、周囲の馬たちの気迫が伝わる中を静かに追走する。4歳馬キセキが誘導しペースを作る展開で、若い馬たちの鼓動は速く、力強い。スマートレイアーはその波に逆らわず、鞍上の戸崎騎手と自分のリズムを守る走りに徹した。ラストランは終始後方を追走してゴールインするという、決して華やかなものではなかった。しかし、その姿を見ていた「姐さん推し」たちに、悔いなく走り切ったことが伝わったはずだ。

スマートレイアーがレースを終えてゆっくりと帰って来る。首を振りながらゆっくりとしたリズムでスタンドに近づく。スマートレイアーは、心が満ちるところまで走ったように思えた。

「ああ、終わった──。でも、私は幸せだった」

スマートレイアーのつぶやきは、スタンドの「姐さん推し」たちに、確かに届いた…。

■2019年 心地よい疾走のセルフ引退式、アエロリット

クラブの規定で、牝馬は6歳の3月で現役を引退しなければならない。3歳時NHKマイルカップを制したアエロリットの逃げ脚は、5歳になってさらに軽快さを増した。ビクトリアマイルではゴール手前まで先導して5着。安田記念は、ゴール前100mで絡みつくグアンチャーレを競り落とし、外から来るアーモンドアイを完封したが、ゴール直前でインディチャンプにクビ差で敗れ涙を飲んだ。秋になり、2000mの天皇賞(秋)でもアーモンドアイ、ダノンプレミアムに次いで3着に逃げ貼る。

まだまだ、アエロリットのスピードは健在だ。しかし、次に出走するレースが無い。得意とする1600mの次のGⅠはビクトリアマイルになる。彼女の出資者からは、血統的にも走法を見てもダートに適性があるのでは…という意見もあった。マイルのダートGⅠフェブラリーステークスなら規定内で出走できる。しかし、もしダートの適正がなく惨敗すれば、アエロリットのキャリアに傷がつく。結局、クラブの公式レポートで発表された次走は、「有馬記念という大舞台をラストランとして、競走生活の最終章を有終の美で飾ってもらいたい」というものだった。

津村騎手を背に、スタートと同時に飛び出して行くアエロリット。1周目の3コーナーから4コーナーにかけて、二番手以下との差を広げていく。そして、1周目の直線。観客のざわめきと歓声の中、アエロリットはすでに“別の世界”を走っていた。白い馬体が冬陽を跳ね返し、まるで「これが私の生き方」と言わんばかりに、ただひとりで風を切ってゴール板を駆け抜ける。

2コーナーを回り、向こう正面へ向かう頃、二番手との差はさらに広がる。それはレースを作る“逃げ”ではなく、アエロリットという存在が最後に見せた「彼女本来の逃げ」のように見える。そこには、自分のリズムで、自分の呼吸で気持ち良さそうに走る、のびのびとしたアエロリットがいた。

そして3コーナーへ向かう長い直線。スタンドから見れば、白い影がまるで“別れの挨拶”をしながら走っているようだった。「私はこうして走ってきた」そんなメッセージが聞こえてきそうなアエロリットの逃げを、彼女の出資者たちも、一票を投じた者たちも、芦毛推したちも…みんなが目に焼き付けていた。

やがて後続が迫り、勝負の趨勢は別の馬へと移っていく。しかし、アエロリットにとってそれは問題ではなかった。最後の直線で脚が鈍っても、あの独走こそが、彼女自身が選んだ引退セレモニーだったからだ。

今年も、有馬記念をラストランとして出走する馬たちがいる。ラストランで有馬記念制覇なら最高だろうが、まずは無事に完走し、スタンド前に帰ってきて欲しい。そこには多くの推したちが、蹄跡の最終章を完成させるため、拍手と歓声を携えて待っている。

──有馬記念は名馬のラストランを見送るレースである。

Photo by I.Natsume


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