![[大狩部だより番外編]サマーセール密着ルポ「大狩部牧場の長い一日・後編」](https://uma-furi.com/wp-content/uploads/2026/08/wakaba2-scaled.jpg)
午前中の公開展示が終わった時点で、Yシャツに沁みができるほど汗をかいた。北海道の夏は湿度が低く、カラッとしていると言われるが、前日に降った雨の影響でこの日は妙に湿度が高く、おまけにセール会場は風が吹いていなかった。下村さんが言うには、日高は場所によって風向きも強さもまるで違う。特にこのセール会場周辺はあまり風がない。天気予報が当たらず、晴れわたった空の元で公開展示が行われたのはよかったが、不快指数も高く、その分、体力を奪われる。ただ立っているだけの私でさえそう感じるということは、休むことなく動き回る職員たちはたまったものではない。おまけに待機場所の馬房は外よりさらに蒸し暑い。もちろん、普段から牧場作業で鍛えられているが、やはり年に一度、緊張感高まる競り当日となると、勝手も違う。前日しっかり休めたかどうかも定かではない。それでも集中力を切らさない。ますますその仕事ぶりに感心した。
午前11時30分。サマーセール4日目の競りが開始された。パレードリンクを落ち着いて歩いたアッシュは出番を待つ列に並び、その時を待つ。競りは初っ端から1000万円を超えても競りあがるほどハイテンションではじまった。競りには流れがある。手が上がりにくい状況であれば、その影響を受けて、思ったほど高くならない。究極の点である競りはそんな雰囲気でも変わる。鑑定台の通路を抜け、鑑定台の下に立ち、そして通路を出ていく。わずか数分間で人と馬の運命が決まる。それほどの重い時間は流れひとつでいかようにもなる。「競りは怖いです」下村さんの言葉が響く。そういった意味でいえば、アッシュの前に上場された2頭が1000万円を超えたのはいい流れだった。これなら大丈夫だろう。そう思う反面、主取りの恐怖はまだ残る。サマーセールで一声もかからなかった場合、競走馬になる道はかなり限られてしまう。たとえなれたとしても、生産者はこれまで育ててきた苦労に見合う報酬を受け取れない可能性が高くなる。競りに上場するということは、ある種の賭けに近い。セール当日まで長い時間をかけて上場馬を最高の状態にもっていく作業はその賭けの勝算を高めていく。それでも賭けである以上、勝算は決して確信にはならない。100%勝てるギャンブルなどこの世に存在しない。それは競りの世界も同じだ。

「上場番号712番参ります。アッシュケーク2025 雄 鹿毛 5月16日生まれ。父はパレスマリスでございます」
アッシュは鑑定台への通路を抜け、会場に入る。すぐに一声がかかった。この瞬間、下村さんは静かな笑みをたたえ、専務と私と握手を交わした。その握手は大狩部牧場のアッシュに注いだ時間が報われ、無事に競走馬としての道を切り拓いたことを意味した。落札価格は850万円(税抜)。前の2頭と比べて安かったが、おそらくそんなことはこの瞬間、どうでもよかった。アッシュが鑑定台を通り、出口へ向かう通路を抜け、競走馬への未来を踏み出したことがすべてだった。生産者にとってその道をつくってあげられたことが無情の喜びなのだ。落札された上場馬は広場に出る。そこにはカメラマンが待機しており、すぐさま記念撮影を行う。下村さんと専務は落札者に挨拶にいく。この瞬間、緊張は一気に緩む。それはアッシュも同じだったようで、思わず立ち上がり、軽く放馬してしまった。これまでセールに向けてアッシュなりに頑張り、我慢してきた面があったんだろう。放馬はそこから解放された気分を表現した結果だったように映った。すぐに捕まると、職員に曳かれ、馬房へと戻っていった。大狩部牧場の一番手として堂々たる姿だった。さすがは大狩部牧場を支えるアッシュケーク牝系。その風格すら感じた。
次は760番イリデッセンスの出番だが、その前にどうしても気になる一頭がいた。上場番号750番オメガシュプリーム2025。大狩部牧場で生まれ、春先まで牧場でともに過ごした馬だ。上場するのはオメガシュプリームを所有する株式会社99.9。育成牧場として生産にも関わりながら結果を残したいという情熱に満ちた若い会社だ。下村さん含め大狩部牧場の関係者はイリデッセンスの準備に追われていたので、私は代理のつもりでセリ会場に入って見守った。200万からはじまった競りはハイテンポで金額が上がっていく。オメガシュプリームはじっと動かず、競りあがっていく様子を眺めているようだった。最終的に最低金額を5倍も上回る1000万円(税抜)で決着がついた。落札者はコスモヴューファーム。日高の大手ブリーダーから評価された。
オメガシュプリームの未来を見守り、私はすぐさまイリデッセンスの元に戻る。やはり競り会場独特の雰囲気に馴染めないのか、時折落ち着かない仕草を見せる。それでも曳き手を頼るように落ち着こうとする姿があった。イリデッセンスも懸命に戦っていた。出番が近づき、運命の通路に入ったとき、思わず壁を強く蹴り上げた。このとき、曳き手の担当者にアクシデントが発生していたが、そのときは誰も気づかなかった。担当者もまた戦っていた。イリデッセンスが入場すると、カタログのアップデートが紹介され、姉ナンセイスコピオンの連勝と兄ホワイトフジが前日に川崎で2着に好走したことが告げられた。きょうだいのあと押しもあったか、やはりすぐに一声かかり、下村さんは専務と握手を交わした。イリデッセンスは美しい黄金色の鬣をなびかる。その美しさにつられるかのように値段が上がっていく。鑑定台の前にいる時間が少し長くなったが、イリデッセンスは我慢した。立ち上がりかけることもあったが、懸命に曳き手の指示に応えた。最終的な落札金額は700万円(税抜)。後日、知り合いの調教師からイリデッセンスに手を挙げたことを知らされた。「展示もちょっと暴れていたので、なんとかなるかと思ったけど、予想外に高くて」。そのコメント通り、この700万円はうれしい誤算だった。そして、このとき、私ははっきりと今日の競りはこれまでの3日間と比べ、特に高いことを実感した。
馬房に戻ると、イリデッセンスを曳いていた担当者が両足を攣っていた。おそらくは脱水症状によるものだろう。その詳細を聞くと、順番待ちをしていたイリデッセンスが壁を蹴った瞬間に片足を攣り、さらに競りの最中にもう片一方も攣ってしまったという。改めて鑑定台の前にいる映像を見直しても、とてもそうは見えない。まさにプロの仕事。たとえ自分にアクシデントが発生しようとも、絶対に曳き手を放したり、馬に引きずられるようなことはしない。固い意志が伝わった。下村さんは言う。「牝馬ですが、牡馬とそん色ないぐらいパワーがあるイリデッセンスを曳けるのは彼しかいません」。YouTubeやブログをご覧になっている方はお気づきかもしれない。大狩部牧場が誇る優秀なホースマンのひとりが、両足を水につけてうなだれている。ここにも「競りは怖いです」という言葉が甦る。
幸い、イリデッセンスから次のヒメワカバまで100頭ほど間があく。この間、ようやく職員たちはひと休みすることができた。といっても、ワカバを改めて下見したいという参加者が訪れれば、すぐさま対応する。なかなか気が抜けない。それでも少し時間ができたので、下村さんはオメガシュプリームを見にいった。馬房から出してくれたシュプリームを下村さんはこれでもかと撫でて労っていた。シュプリームもさすがに毎日のように遊んでくれた「じぃじ」のことを覚えていたようだ。自分に向けてカメラを構えるじぃじが懐かしかったにちがいない。

午後3時すぎ。ワカバを馬房から出し、職員たちがテキパキと身なりを整える。パレードリンクを歩くワカバは午前中の比較展示で見せた馬っ気はなく、完璧に環境に順応していた。落ち着き払い、大きなストライドを見せつけるように歩く様は頼もしくもあった。下村さんが大狩部牧場の土壌に合うと語るカラヴァッジオを父にもつワカバは「ヒメワカベ」と紹介されるや、ひと鳴きして突っ込みを入れた。ここも最初の一声で下村さんは専務と握手する。競りは場内とオンラインが入り混ざる攻防の末、1300万円(税抜)で落札された。

そしていよいよ最後の上場馬マレンの出番になる。先に競りを終えたアッシュ、イリデッセンス、そしてワカバは順番に牧場に帰っていった。留守番を任された職員たちはその往復の間、脱水症状を起こした職員のために経口補水液や塩飴を買って差し入れていた。マレンを曳くのはイリデッセンスと同じ職員であり、懸命に回復に努めた。その上場番号が929番と遅かったことも助かった。当初の予定通りの職員を曳き手にマレンはパレードリンクに姿をあらわした。ワカバの落ち着きも頼もしかったが、マレンにはそれ以上のものを感じた。以前見せた人に触られるのを嫌がる仕草も遅生まれゆえの小ささもなにもかも忘れさせてしまうほど、マレンは悠然とパレードリンクを周回していた。正直、この時点で胸にこみあげるものがあった。サラブレッドは必ず自分の力で成長していく。人間はそれを助けてあげればいい。人間の都合を無理に押しつけてしまえば、人にも馬にもいいことはない。下村さんが私に語った言葉を思い出す。マレンはまさにその言葉を証明している。絶対に自分の力で競走馬になる道を拓いていくはずだ。

その運命のとき。鑑定台の前に立ったマレンにすぐに声がかかった。下村さんはこの日いちばんの笑顔で専務とグータッチを交わした。4頭完売が決まったこと、なにより母マレンカヤ最後の産駒が未来へ向けて歩み出したことへの感謝が込められていた。その後も活発な声がけがあり、マレンは600万円(税抜)で落札され、未来の扉へと消えていった。
すべての上場を終えて下村さんは改めて大狩部牧場の縁の深さを痛感した。アッシュを落札したのは社台ファーム勤務時代から付き合いがあり、大狩部牧場が預かっているブルトンクールのオーナーだった。イリデッセンスのオーナーははじめての付き合いになるが、代理で落札した調教師は先代のときに関係があったという。ワカバをオンラインで落としたのは牧場が所有する繁殖牝馬スパークオブライフの現役時代のオーナーであり、マレンは同じく牧場の繁殖牝馬エナハツホの現役時代のオーナーによって競り落とされた。エナハツホは今年の春に現役を引退した。マレンはオーナーにとって大狩部牧場との縁を復活させてくれる役目を担うことになった。そして、いま、エナハツホは母マレンカヤと一緒に馬生の楽園「Life is…」で暮らしている。なんだか不思議な話だ。翌日、「Life is…」を訪れると、2頭は横に並んで休んでいた。集団のボスであるエナハツホとあまり集団のなかにいない母マレンカヤが近くで休むのは珍しく感じた。もしかして、息子のことを話していたのではないか。そんな想像が頭をよぎり、ふと笑みがこぼれる。

大狩部牧場の長い一日をともに過ごし、間近で感じたことはひとつ。
すべては馬のために。そして誰かのために。 サラブレッドは何百年もの長い時をかけ、人がつくりあげていった。だから馬も人も大切にしないとこの先も続いていくことはない。生産者は常に馬を通じて未来をつくる。競りを終え、牧場に戻った下村さんは真っ先に1歳馬の放牧地に入り、カメラを回しはじめた。1歳馬たちが一斉に下村さんを取り囲む。その風景を眺めていると、人と馬の理想の関係を築ける人なんだなと実感した。この人の描く未来が見たい。大狩部牧場を、そして北海道を離れるのがイヤになった自分がいた。だから私はセプテンバーセール当日の航空機のチケットを予約した。
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