キタノオーザ - 戦後初の三冠を阻んだ悲運の良血馬と、寺山修司が描いたファンの物語

1.「三冠馬」の権威

2026年8月、競馬界を大きく揺るがすニュースが飛び込んできた。米国競馬で2027年度から「サラブレッドチャンピオンシップシリーズ」と称される3歳王者決定シリーズが創設されるというのである。全6戦のポイントを競い、その順位に応じたボーナスが与えられるとのこと。これまでの「米国三冠」は5週間で3レースを戦い抜く過酷な日程だったが、このシリーズは5月のケンタッキーダービーから9月のチャンピオンシップレースまでの5ヶ月間に亘って開催されるため、ローテーションの組み方も大きく変わってくるだろう。更に「三冠」には含まれていたプリークネスステークスはシリーズの対象レースではなく、米国競馬における3歳戦線は大きく様変わりすることとなる。米国では2018年のジャスティファイ以来三冠馬は現れておらず、近年はケンタッキーダービーとベルモントステークスで二冠を狙うローテーションも定着。そもそも「三冠馬」を目指すという価値観自体が薄れているのかも知れない。

米国と並ぶ競馬先進国である欧州各国でも「三冠馬」はもはや歴史上の存在である。「三冠レース」の発祥である英国では1970年のニジンスキーが最後の三冠馬。日本競馬で言えばタニノムーティエと同世代であるから、今やリアルタイムで目撃したファンの数も減っているだろう。フランスでは現状の三冠レースが整備された2005年以降、三冠馬は一頭も現れていない。アイルランドはセントレジャー(日本における菊花賞に相当)を1983年から古馬にも開放しているから、事実上「三冠レース」が存在していない。

そういう意味ではコントレイルの「父子無敗三冠」を大記録として称えたように「三冠馬」に依然として権威を持たせる日本競馬は異質な存在かも知れない。3歳の三冠競走だけでなく、「春古馬三冠」「秋古馬三冠」も存在している。ドウデュースやクロワデュノールなど、「古馬三冠」にリーチをかけた馬の達成に夢を見るファンが今でも多いのは、日本競馬において「三冠」が特別視される証だと言える。

「三冠」と言えば野球の「三冠王」を思い浮かべる方も多いだろうが、中川淳一氏は「三冠馬」と「三冠王」の初出を調査し、「三冠馬」が「三冠王」というネーミングに影響を与えた可能性が高いと指摘している(中川淳一『「三冠王」 定着の陰に伝説の強打者』、『日本経済新聞』2011年10月18日)。それだけ「三冠」という呼称には日本人を惹きつける魅力があったのだろう。

2.三冠を逃した最強馬

1965年、戦後初の三冠王となったのは南海ホークスの野村克也選手。その前年である1964年に戦後初の三冠馬となったのが「最強の戦士」の異名を持つシンザンであった。図らずも時代を同じくして「三冠」の偉業が達成されたのである。1941年のセントライト以来、23年ぶりの三冠馬誕生は競馬人気を押し上げる要因となったが、その背景には1960年、同じく武田文吾調教師が手掛けた優駿が「三冠」の夢を絶たれていたことも大きいだろう。東海道線の特急列車に因んでその名が付けられた、コダマである。 

後に「ミスタープロ野球」と称される読売ジャイアンツの長嶋茂雄選手が新人ながら「三冠王未遂」(本塁打・打点の二冠、打率はリーグ2位)で話題を攫ったのが1958年。翌年にデビューしたのがコダマである。デビューから3戦3勝で阪神3歳S(現・阪神JF、当時は牡馬牝馬混合の重賞であった)を勝利して一躍クラシックの有力候補となり、翌年は春二冠制覇を目指して東上。スプリングSで関東での重賞初制覇を飾るとそのまま皐月賞と日本ダービーを制して「無敗二冠馬」となった。

1951年にダービーを制した後急死した「幻の馬」トキノミノル以来となる無敗二冠の偉業は、世間の関心を集めたようである。江面弘也氏によると、『週刊文春』や『アサヒグラフ』といった一般誌でもコダマの特集が組まれ、競馬ファンにとどまらない人気を集めていた(江面弘也『オグリキャップ 日本でいちばん愛された馬』星海社、2025年)。『アサヒグラフ』には犬と遊ぶコダマの写真も掲載されていたというから、現代まで続く「競走馬の写真集」の先駆け的な存在と言えるかも知れない。ハイセイコーによる競馬ブームはしばらく先のことであるが、その素地を作る上でコダマの果たした役割は決して小さくないだろう。

そんなコダマであるが、勿論菊花賞での三冠制覇を目指していたものの、夏期の休養中にコンディションを落としていた。武田調教師は何とか立て直そうと奮闘するも、秋始動戦となるオープン戦を2着に敗れて無敗記録が途切れると、前哨戦の阪神大賞典(当時は秋に開催され、3歳馬も出走可能な2200mの重賞であった)は3着と更に着順を落とした。それでも菊花賞では単勝オッズ2.1倍の1番人気に支持されたから、どれだけコダマの実力が買われていたかが分かる。しかし悪い流れを断ち切ることは出来ず、コダマは7頭立ての5着と惨敗。寺山修司によれば、コダマは当時「史上最強の名馬」(寺山修司「あの馬はいずこに 旅路の果て」『旅路の果て』新書館、1979年/河出書房新社より2023年復刊)と評価されていたというから、ファンの落胆は大きかっただろう。戦後初の三冠馬誕生の夢は破れた。「最強のコダマでさえ敗けた」という事実がむしろ三冠の価値を高め、シンザンから始まる三冠馬の系譜に権威を持たせる一つの要因になったと言えるかも知れない。

3.三冠を阻んだ良血馬

そしてこの菊花賞を5番人気と伏兵評価ながら勝利したのが、キタノオーザである。管理する久保田金造調教師は第二次世界大戦中の「無観客ダービー」をカイソウで制し、1958年にはダイゴホマレでダービー2勝目を飾った名伯楽。人材育成にも長けていて、弟子にはダービー馬サクラチヨノオー・名スプリンターのサクラバクシンオーなどを手掛けた境勝太郎調教師や2021年の年度代表馬エフフォーリアなどを育てた鹿戸雄一調教師がいる。

その久保田厩舎の看板ホースの一頭が菊花賞と天皇賞(春)を勝利したトサミドリ産駒のキタノオー。キタノオーザはその全弟だから期待の良血馬と言って良い。ただし祖母のバウアーストックが血統書の紛失により「サラブレッド」として認められていないため、「サラブレッド系種」(所謂「サラ系」)という形での競走馬登録になっている。兄キタノオーは朝日盃3歳S(現・朝日杯FS)を勝って最優秀3歳牡馬(現・最優秀2歳牡馬)に選定されたが、キタノオーザは条件戦から皐月賞へ。ここを3着と健闘するが、日本ダービーは13着と惨敗。コダマが休養に入る中、札幌記念で古馬と混じって戦い3着となり、最後の一冠を目指してセントライト記念に出走した。

日本競馬史上初の三冠馬セントライトを記念して創設された3歳重賞・セントライト記念。当時は中山競馬場に芝2400mコースがあり、日本ダービーと同じ距離のこの条件で施行されていた。キタノオーザの兄キタノオーや前年覇者のハククラマもこのレースをステップに菊花賞を制している。ダービー4着のオンワードアゲインと皐月賞2着・ダービー5着のマツカゼオーが人気を集め、キタノオーザはそこに続く3番人気。しかしオンワードアゲインを1/2馬身差抑えて勝利し、兄弟制覇を成し遂げて西へ向かった。ところが京都競馬場での前哨戦として出走した芝マイル戦でオンワードアゲインに惨敗。菊花賞で人気を落としたのはこれが要因だろう。

ということでキタノオーザは7頭立てのレースで単勝オッズ17.5倍の5番人気となった。2.1倍の1番人気はコダマ、4.3倍の2番人気はダービー2着で阪神大賞典ではコダマを抑えて勝利しているヤマニンモアー。オンワードアゲインが3番人気だった。ところがレースはセントライト記念から直行したマツカゼオーをアタマ差抑えたキタノオーザが勝利。3着もオンワードアゲインだったから、「セントライト記念組」が上位を独占し、「セントライト以来の三冠馬」の夢を打ち砕いた格好だ。

先述したようにコダマは勝ち負けに絡めず5着と惨敗。外厩はおろかトレーニングセンターも無い時代、春から秋までトップコンディションで三冠レースを完走することの難しさを示すような敗戦であった。武田調教師はコダマの反省を踏まえ、シンザンを夏期も放牧せずに在厩(当時は京都競馬場に厩舎があった)で調整するという異例の方法で三冠を成し遂げたが、それ以降ミスターシービーまで20年間三冠馬が現れなかった理由がうかがえる。

4.キタノオーザのたてがみ

1960年のクラシック三冠を分け合った2頭であるが、古馬となってから道が交わることは無かった。前秋の不調を立て直したコダマは、始動戦となる大阪杯を快勝。大目標である天皇賞(春)を目指す中で屈腱炎に見舞われるが、翌年復帰すると宝塚記念を制し、「最強の名馬」たる面目躍如の活躍を見せた。再度故障が発生したためこのレースを最後に現役を退いたが、産駒から桜花賞馬ヒデコトブキなど活躍馬を輩出。現役馬でも毎日杯2着などの実績があり、現在は大井所属のベジャールなどがコダマの血を継いでいる。

一方キタノオーザは菊花賞の次走である有馬記念こそ4着と好走したものの、その後は勝てないレースが続き、地方競馬へ移籍。しかし馬場が合わなかったのか、ここでも活躍することが出来ずに引退している。普通なら競馬史の中に埋もれてしまうような存在だろう。しかし、この馬を正に人生をかけて愛したファンがいたことを我々は知ることが出来る。そのファンの姿が描かれているのは、寺山修司のエッセイ「キタノオーザのたてがみ」という一篇である。

寺山の友人・鎌田仁は出稼ぎで青森から東京に出てきたというから寺山と同郷である。そんな彼がキタノオーザのファンになった経緯はこのように書かれている。

出稼ぎで青森から東京へ出てきていた鎌田仁は、天皇賞馬(※)キタノオーザのファンであった。キタノオーザが中央競馬で活躍していたころに、その配当金で息子に誕生祝いを買って送ってやれたことが、よほどうれしかったのであろう。
※引用者註:天皇賞を勝ったのは先述したように兄のキタノオーであり、「菊花賞馬」が正しいはずである。寺山が誤ったとは思えないが、校正時にミスが生まれたのだろうか。

寺山修司「キタノオーザのたてがみ」(『馬敗れて草原あり』角川書店、1979年)より引用

先程紹介したようにキタノオーザの菊花賞の単勝オッズは17.5倍。マツカゼオーとの枠連ならもっと付いたであろうから、豪華なプレゼントを買えたことだろう。これで終われば家族の微笑ましいエピソードなのだが、鎌田はキタノオーザにどんどん入れ込んでいく。

キタノオーザが出走する日は、たとえ土曜日でも仕事を休んで府中まで出かけて行く、というほどの熱の入れようであった。キタノオーザが零落して草競馬に売られたときなどは、気の毒なほどがっくりきて、馬主を恨んでいたようだった。しかし、まもなく気を取り直して、せっせと大井や川崎に通うようになった。

寺山修司「キタノオーザのたてがみ」より引用

キタノオーザが菊花賞を制した1960年は池田勇人内閣の「国民所得倍増計画」が開始された年。「働いて豊かになる」という価値観が当たり前の時代に、出稼ぎ労働者が仕事を休むことの重みはかなりのものだっただろう。地方に移籍した後も競馬場に通って応援を続ける姿は、もはや「ギャンブル」という範疇からは外れていたと言える。現代の「推し活」に近い感覚、いやそれ以上の熱量かも知れない。

しかし、鎌田の応援虚しくキタノオーザの成績は振るわない。

だが、草競馬に落ちてからのキタノオーザには、昔日の面影はなかった。出るたびに負ける日が続き、八歳、九歳と老いてゆき、レースが終ると口から泡を吹いているという老衰ぶりは、あまりといえば無惨な「英雄の末路」を思わせるものだった。―そのころから鎌田仁も酒の飲みすぎで、胃カイヨウにかかっていたらしいが「面白くない、面白くない」といって、競馬場にもぷっつりと行かなくなってしまった。

寺山修司「キタノオーザのたてがみ」より引用

往時の活躍は望むべくもないキタノオーザの姿に酒量が増えた鎌田。もはや「妄執」とも言えるようなその愛情は身体を蝕んでいく。

先述したようにキタノオーザは地方競馬でも活躍出来ずに引退。鎌田への心配もあったのだろう、寺山はその後を追ったが「行方不明」になってしまった。

一度は種牡馬にするという話があって、北海道の馬喰が連れて行ったというところまでは突きつめたが、その後は牧場側の話も実にあいまいで、荷馬車馬になったという話から屠殺されたという話まで、どれもがほんとうらしくもあり、またウソらしくもあるのだ。

寺山修司「キタノオーザのたてがみ」より引用

兄のキタノオーは現役中に命を落とし、その血を次代に繋げなかった。晩年は振るわなかったとは言え、二冠馬トサミドリの後継として種牡馬のオファーもあったのだろう。しかし先述したようにキタノオーザは純粋なサラブレッドとして認められない「サラ系」であった。おそらくその点で折り合いがつかず種牡馬入りは破談になったものと思われる。

キタノオーザの引退で精神的な支えを失ったこともあってか鎌田の病状は悪化していく。

鎌田は入院し、腹膜炎を併発して、かなりの重症になっていた。見舞いに行った私に彼は、
 「つまらない頼みだと思うかもしれないが……」
 と前置きして、「なんとかキタノオーザの行方を捜してもらえないだろうか?」
 といった。それは、たかが病人の感傷であった。しかし、病人の感傷だからこそ大切にしてやらねばならぬものであった。 

寺山修司「キタノオーザのたてがみ」より引用

命の灯が消えかかっている「病人」のために寺山は伝手を駆使してキタノオーザの行方を追う。そして鎌田に一つのプレゼントを贈った。

 私が最後に鎌田に会ったのは、その年の十月である。私は、ようやく彼の手に一つかみのたてがみを渡していった。
 「キタノオーザは種牡馬になっていたよ。アラブにかけ合わせるのだそうだ。ほら、キタノオーザの元気のしるしに、たてがみを送ってもらった」
  鎌田は、そのたてがみをお守りにして三日間だけ長生きした。四日目に、死んだあとの枕の下に大切にチリ紙に包んだたてがみが出てきた。だが私には、仏前でほんとうのことを打ちあけることなどできなかったのである。 そのたてがみは、実はスガホマレのたてがみだったのだ。

寺山修司「キタノオーザのたてがみ」より引用

寺山は最後に優しい嘘で鎌田を見送ることを選んだ。補足しておくとスガホマレは1964年にデビューした中村広厩舎の所属馬で、1968年まで現役を続けている。おそらく現役馬の中でキタノオーザによく似た毛色の馬を見繕ってもらい、たてがみを送ってくれるように頼んだのだろう。

しかし、鎌田にとって「キタノオーザが次代に血を繋げられる」と知ったことはどれほどの救いだっただろうか。息子へのプレゼントから始まったキタノオーザと鎌田の縁はこうして終わりを迎えた。

文字通り人生をかけてキタノオーザを愛して身を持ち崩した鎌田を愚かと断ずることも、嘘をよすがに最期を迎えた姿に憐れみを持つことも、容易ではある。しかし寺山がこのエッセイを世に問うたことで、キタノオーザという名馬の存在と、「競馬はギャンブル」という認識が強い時代にそれを超えた思い入れと熱量を持って競走馬を応援するファンがいたことを令和に生きる我々も知ることが出来る。競馬が国民的娯楽として定着していく過程において、欠くべからざる1ページであろう。

5.「月見草」にもなれない者たちの物語

先程紹介したように戦後初の三冠馬となったシンザンの登場は競馬人気を高める要因となったが、戦後初の三冠王となった野村克也選手はその注目度の低さに劣等感を抱いていた。

何をしても日陰の存在のパ・リーグで脚光を浴びようと思ったら、セ・リーグにも通じるような記録を作るしかない。そう思って日夜練習に励んでいるのに、気がつけばおいしいところをすべて王に持っていかれる。

私が通算600本塁打を放った1975年、マスコミの取材で「王や長嶋はヒマワリ。それに比べれば、私なんかは日本海の海辺に咲く月見草だ」と発言したのは、そんな自分の現状をそのまま表現しただけだった。

野村克也「野村克也の名言「王や長嶋はヒマワリ、私は月見草」の真意が分かった」(『マネー現代』2019年4月8日)より引用

どれだけ偉大な記録を残そうとも、注目されるのは王貞治選手・長嶋茂雄選手の「ONコンビ」。そんな自分自身を「月見草」に喩えたこの言葉は「野村語録」の中でも有名なものの一つだろう。

しかし、月見草も立派な花である。世の中には花を咲かせずに枯れていく者たちの方が圧倒的に多い。鎌田仁の物語は、「月見草」にもなれない者たちの哀しみの物語である。花が咲かない中でどのように生きるべきか、「キタノオーザのたてがみ」は問いかけてくれる。競馬というスポーツが持つ深淵の一端がここにあるような気がするのは私だけだろうか。

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