2002年、夏。
北海道の牧場で、ある大物馬主と開業前の調教師が出会った。
そしてその場で「開業してから俺が面倒を見てやる」と調教師と口約束を交わしたというその馬主は、約束通り自分の多くの馬達を師へ預託した。
──そんな話から6年後の2008年、5月の京都競馬場。
その馬主、近藤利一氏が所有するアドマイヤジュピタが天皇賞春を制覇し、師に初のG1制覇をもたらすと、以後友道康夫師は名伯楽としてのステップを順調に歩んでいくこととなる。
それからさらに10年の月日が流れ、師に再びアドマイヤの有力馬が巡ってきた。
名はアドマイヤマーズ。
父ダイワメジャー同様、栗毛の綺麗な牡馬だった。
鮮烈に、マイルのホープ誕生
ダービーから1週間後、6月末の中京でミルコ・デムーロ騎手を鞍上に迎えデビューを迎えたアドマイヤマーズ。直線、1度は先を行かれたケイデンスコールに対し父譲りの勝負根性を見せ、見事に差し返すデビュー勝ちを挙げる。
そこから中京2歳S、デイリー杯2歳Sと勢いに乗って連勝。暮れの大一番、朝日杯フューチュリティステークスへと駒を進める。
ここまで無傷の3連勝。
普通ならば断然の1番人気に推されていてもおかしくないはずだ。
しかし、この年は天才少女グランアレグリアが阪神ジュベナイルフィリーズをパスし、あえて牡馬相手となるこちらに参戦。
デビューからの2戦で我々ファンに強烈なインパクトを与えてきたその末脚は、どちらかと言えば根性で勝ち上がってきたようにみえたアドマイヤマーズよりも上位と評され、牝馬ながら1.5倍の断然人気に支持された。追うアドマイヤマーズは4.6倍の2番人気として、牡馬のプライドを賭けて臨んだ。
逃げるイッツクール、その内を進むグランアレグリアをじっと見つめる3番手からレースを進めると、4コーナーで加速。楽にコーナーを回ってきたグランアレグリアとやや中を空けた叩き合いに持ち込む。
一瞬のキレに賭けたグランアレグリアに対し、デビューから3戦、熾烈な叩き合いを演じてきたアドマイヤマーズ。初の競り合いに苦しくなったグランアレグリアとは対照的に、坂の上り付近でもう1段階ギアを入れた。
突き抜けた彼に、迫りくる者はいなかった。
4戦4勝、無敗の2歳王者。
同時に、友道康夫師も10年ぶりとなる"アドマイヤ"とのコンビでのG1制覇を飾った。
見事世代の頂点に立った彼が、2019年のクラシック最有力候補に躍り出たのも、この時点では何ら異論はなかった。翌週、同じくデムーロ騎手が手綱を取るサートゥルナーリアがホープフルSを制覇するまでは。
2頭の無敗馬、一体どちらがクラシック路線を席巻するのか。
ファンは翌年の展開を楽しみに、年を越した。
3歳マイルの首領、そして背水の陣
そして、2019年。
年が明け、昨冬の評価は一変していた。
無敗で1冠を制したサートゥルナーリアの地位は盤石たるものになっていたが、2歳王者アドマイヤマーズは2戦して連敗。皐月賞では上位3頭に大きく水を空けられる結果となってしまう。
この2度の敗戦で陣営はダービーを諦め、NHKマイルCへと矛先を切り替えた。
離されたとはいえ、皐月賞でも上位3頭とのタイム差はそれほどなく、加えてG1を制している距離。
しかし、万全の適性とそれを裏打ちする実力がありながらも、その評価は2番人気だった。
1番人気には、またもグランアレグリアが推されていた。
朝日杯から直行した桜花賞で、他の追随を許さない完勝劇。
そして鞍上は、目下絶好調のクリストフ・ルメール騎手。
まさに鬼に金棒。朝日杯時よりも成長していたその走りに、再び断然の支持が集まる。
それでも、負けられない。
1度は下した相手、マイルでは負けられない。
乾坤一擲。
先団につけてグランアレグリアを見る、朝日杯同様の作戦は、再びハマった。
直線で外にヨレたグランアレグリアとダノンチェイサーの不利を受けながらも、その脚は衰えないばかりか、持ち前の闘争心に火をつけたように見えた。
そんな彼の渾身の末脚に対抗できる馬は、1頭もいない。
内の2頭を競り落とすと、後は並ばせもせずに新緑の1マイルを先頭で駆け抜けた。
マイルでは4戦4勝、G12勝。
令和最初のG1馬は、名実ともに3歳マイル王へと輝いたのである。
この勝利の後も予定通り、ダービーには向かわず休養。秋の最大目標はなんと、菊花賞でもマイルCSでもなく、異国の地のマイル王者を決める香港マイルとなった。
3歳路線をすべてスキップし、アドマイヤマーズは古馬相手となる富士Sから始動した。
しかし、出遅れて中団からのレースとなると、NHKマイルCのようなキレも闘争心も見せることはなく、外からノームコア、レイエンダにも置いていかれ9着と敗戦。
マイル戦初黒星。
そしてデムーロ騎手はこれを最後に、アドマイヤマーズの手綱を取ることは無かった。
暗雲立ち込める香港遠征。しかし陣営は、鞍上に名手クリストフ・スミヨンを迎え予定通り香港遠征を敢行することを発表。
そしてこの決断が、日本競馬に新たな歴史を刻むこととなる。
日本から香港に輝く一等星へ
遠征のひと月前の11月、近藤利一氏がかねてから自身の体を蝕んでいた癌との闘病生活の末、逝去。
多くの名馬、そして伝説を作ってきた同オーナーの死に、競馬界には激震が走った。
そして迎えた、12月8日の香港遠征当日。
友道師は、無事であれば近藤氏が身に纏っていたはずのスーツを着て、香港の地に立っていた。
関係者は皆、彼が無事に走り切ることを願い、異国の地で見守っていた。
日本での単勝人気は出走10頭中13.4倍の5番人気。
様々な事情を加味した応援──という人気だけではなく、並ばれれば負けないその闘争心に、期待を寄せていた人は少なからずいた。
それでも、この年の香港マイルは、最強と謳われていた現地の怪物が立ち塞がる。
2018年のチャンピオンズマイルの制覇から実に10連勝を遂げ、ここで香港マイル3連覇をめざすビューティージェネレーション。前2走で3着が続いていたとはいえ、未だその強さは健在。現地、日本ともに1番人気に推されていた。
一方、アドマイヤマーズは、現地では単勝32倍。
伏兵と言っても過言ではない状況だった。
3歳馬が香港マイルを勝ったことは、日本馬・香港馬ともにゼロ。加えて、前走では全く見せ場のない大敗──。
現地のファンは、「なぜこんな馬が遠征してきたんだ?」とでも言わんばかりに、アドマイヤマーズを伏兵扱いした。
パドックを周回するアドマイヤマーズに、スミヨン騎手が跨る。
初めて跨る栗毛の牡馬、そして直近の人間の事情に、欧州の天才は何を感じたのだろう。
ゲートが開くと、アドマイヤマーズは五分のスタートを切る。
現役香港最強マイラー、ビューティージェネレーションを前に置き、徹底マークの様相。
その後ろにも、続々と日本馬が続く。
アドマイヤマーズ同様、富士Sをステップに香港マイルへ挑戦してきたノームコア。
アーモンドアイを下し、マイルCSも制したマイル王者インディチャンプ。
3歳にして古馬を下し、その後も健闘を続けるペルシアンナイト。
日本を代表するマイラーの4頭が、香港最強マイラーを前に見ながらのレースを展開した。
そして最後方に、前走でビューティージェネレーションを下したワイククが不気味に構えていた。
4コーナーまで馬群はほぼ一団で進むが、直線に向いたところでビューティージェネレーションがレースを引っ張ってきたカーインスターを捉え、先頭に立つ。
手綱は、ピクリとも動かない。
直後、狭い所からアドマイヤマーズが鞍上の追い出しに応え迫るが、脚色が悪い。
寧ろ外から追い込んでくるノームコア、ワイククの方が切れ味は上だ。
そしてアドマイヤマーズは、一度は確かに馬群に飲まれかけた。
しかし、彼を捉えんと外から迫るノームコアとワイククが、彼の勝負根性に火をつけた。
抜かされないままスミヨン騎手が外に持ち出し、前が開く。
朝日杯、NHKマイルで見せたあの猛烈な末脚を一気に繰り出す。
──その末脚は、前を行く香港の王者をあっという間に捉えた。
後ろから迫るワイククにも、絶対に前を譲らない。迫られるたびに伸びる。まるで、白と水色と青の勝負服の主が、背中を押しているようにも見えた。そのままアドマイヤマーズは、世界のマイル王者として、ゴール板へ飛び込んだ。
モーリス以来5度目となる日本馬の香港マイル制覇──そして史上初、3歳日本馬による制覇の瞬間である。
ゴールの瞬間、友道師は関係者と何度も抱き合い、号泣した。
自身が購入を推薦し、マイル王の座につき、ローテーションも相談し、香港行を決めた矢先の逝去。
そんな状況下で、ずっとお世話になってきた人の期待馬が、最大級の結果で応えてくれた。
「天国のオーナーに、良い報告ができてよかったです」
涙ぐみながら、インタビューにそう答えたという。
そして口取り式で、マーズはその鼻面を近藤氏の遺影へ向けた。
「アドマイヤ総帥の弔い合戦」は、大団円で幕を下ろした。
さらば、マイルの君主
年が明け、当然国内外を問わない活躍も期待された同馬だったが、感染が拡大した新型コロナウイルスの影響で始動戦に選んだドバイターフが中止。実に半年近く間をおいて、6月の安田記念で川田将雅騎手を新たに迎え復帰したものの、休み明けの影響か、見せ場なく6着に敗れる。
8冠の期待を賭けられたアーモンドアイを破ってこのレースを制したのは、2度下したグランアレグリアだった。
再度の休養を経て始動したスワンSは3着。続く阪神のマイルCSでは、直線抜け出したインディチャンプとの競り合いに持ち込むが、その外から強襲したグランアレグリアのキレに再び屈して3着。連覇を賭けた香港マイルも、並びかけてきたビューティージェネレーションとワイククは競り落としたが、後方から追い込んできたゴールデンシックスティーとサザンレジェンドには敵わず3着──。
勝ったゴールデンシックスティーはこの時点で15戦14勝。ビューティージェネレーションと共に、香港での世代交代を印象付けられるような結果でもあった。
そしてアドマイヤマーズは、このレースをもって引退。
ダイワメジャーの後継種牡馬として種牡馬入りすることが発表された。
父譲りの勝負根性と、美しい栗毛の馬体。
そして、オーナーと調教師の縁が織り成した、最高の勝利──。
その決してあきらめない勝負根性と末脚を、ぜひ、後の世代に伝えていってほしいものである。
時代が映り、もし「アドマイヤ」が遠い昔の話として語られるようになっても私は決して、この香港マイルを、数々の名馬たちを忘れない。
そして、素晴らしきアドマイヤのオーナー、近藤利一氏に、改めて敬意の念を。
写真:Horse Memorys