「ヒシアマゾン女傑ストーリー」の原点、1993年阪神3歳牝馬ステークス

【女傑】 しっかりした気性とすぐれた知恵を持ち、実行力に富んだ女性

──出典:コトバンク

「女傑」というフレーズを耳にすると、平成の初め頃に活躍していた一頭の牝馬を思い出す。

その名をヒシアマゾンという、黒鹿毛のがっちりとした牝馬である。外国産馬ゆえに、4歳(現3歳)の春のクラッシック戦線には出走できず、秋のエリザベス女王杯でオークス馬チョウカイキャロルに競り勝って戴冠した。牡馬混合の重賞でも引けを取らず、堂々と渡り合い、何度も牡馬たちを従えて先頭ゴールした牝馬。同期のクラッシックホース、オグリローマンやチョウカイキャロル。G1戦線で常に鎬を削って戦ったホクトベガやダンスパートナー。同じ時代に強い牝馬たちは多数いても、「女傑」と呼ばれていたのは彼女だけ。生涯成績20戦10勝中、重賞制覇は9回。強く、たくましく、そして美しい牝馬だった。

 ヒシアマゾンの存在を知ったのは、1993年の9月。ツインターボが中舘騎手を背に大逃げを打って快勝した、オールカマーの日の新馬戦。ダート1200m戦、1番人気で登場した彼女はノボリリュウを先行させて楽に追走し、ゴール手前で交わして優勝。鞍上の中館騎手の手はほとんど動かず、3着馬とは7馬身の差がついていた。

 ヒシアマゾンという名から連想する、たくましさとインパクト。当時は、Amazon.comがまだ無い時代。「アマゾン」と言えば、子供のころに見た映画「アマゾネス」。最強の女武族アマゾネス、その部族最強の女戦士、主人公アンティオペに重ねていた。

 その名にふさわしい、パワーを備えた外国産の牝馬は2戦目もダート戦を選ぶ。ダート1400mのプラタナス賞、逃げ馬の直後に付け直線で抜け出しを図ろうとするが、同じように好位に付けていたミツルマサルにクビ差競り負ける。ダート戦を続けて使ったことで、ヒシアマゾンは外国産馬でもありダート路線を進むものと思っていた。

 しかし、3戦目に選んだレースは、重賞の京成杯3歳ステークス。芝に矛先を向けて重賞にチャレンジする。デビュー戦を鮮やかに勝利したフィールドボンバー、サクラエイコウオー(翌年弥生賞優勝)らが人気を集め、9頭中唯一の牝馬であるヒシアマゾンは、6番人気の低評価。

スタートと同時に、サクラエイコウオーと前走競り負けたミツルマサルが先手を奪う。芝が初めてのヒシアマゾンもその直後で軽快に追走。直線に入ると逃げる2頭に並びかけ競り潰して先頭に立つ。最後は内から伸びてきたヤマニンアビリティに交わされるが、2着をキープ。賞金を積み上げ、堂々のオープン昇格となる。

そしてこの後、ヒシアマゾンの女傑ストーリーが始まっていく。

女傑ストーリーの原点となった阪神3歳牝馬ステークス

ヒシアマゾンが制覇した9つの重賞タイトル。その中でベストレースと言えるのはどのレースか?

ヒシアマゾンと言えば、必ず出てくるのが1994年のクリスタルカップ。直線、楽に逃げ込みを図るタイキウルフに迫るヒシアマゾン。残り100m時点から4馬身差を逆転して、1馬身差で勝利する驚異の追い込みは、まさしく20世紀のベストレースだろう。

その布石ともいえるレースが、阪神3歳牝馬ステークス(現・阪神ジュベナイルフィリーズ)である。

逃げ、先行のイメージが強い中館騎手が、強烈な末脚を繰り出して突き抜けるシーンは、何となく新鮮な1コマだった。先行して押し切るパワータイプと思われていた、ヒシアマゾンのレーススタイルが一変したのは、阪神3歳ステークスから。ヒシアマゾンの能力を確信した中館騎手が、彼女の力に任せて「後方待機」×「直線大外」の作戦で牡馬陣をねじ伏せていくことになる。

1993年12月5日。良馬場の阪神競馬場に、来年の桜花賞を目指す3歳牝馬たち15頭が終結した。

1番人気は、新馬⇒もちのき賞を連勝したシスターソノ。南関東の名牝ロジータの初子で注目を浴びている話題の牝馬。ヒシアマゾンは、牡馬相手の京成杯3歳ステークス2着が評価され、僅差の2番人気。外国産馬のため、このレースに照準を合わせてきたと思われていた。以下、タックスヘイブン、ケイアイメロディー、ツルマルガールなど2勝馬が続く。

一斉のスタートから飛び出したのは1番人気のシスターソノ。ヒシアマゾンと同じ勝負服の外国産馬シアトルフェアーが、シスターソノを追う。ヒシアマゾンは先行するこれら2頭を見る位置の3番手。デビュー以来同じ戦法で、「定位置」に収まっている。そのあとにケイアイメロディー、ローブモンタント、ツルマルガールなどが一団となって中段を形成。

隊列が変化したのは3コーナーを回ってから。シスターソノがペースダウンし、シアトルフェアーが先頭に立つ。同じ勝負服のヒシアマゾンも外から並びかけ、3頭横並びで4コーナーから直線に入る。

外国産馬2頭に外からケイアイメロディーも加わり、シスターソノは沈んでいく。タックスヘイブンが外から追い上げてきたものの、残り200mのハロン棒を過ぎると、ヒシアマゾンが先頭に躍り出る。ケイアイメロディーが食らいつくが、その差は縮まらない。

残り100m地点を過ぎたとき、突然ヒシアマゾンが覚醒した。何かに弾き飛ばされたように加速し、あっという間に後続との差が広がっていく。3馬身、4馬身、5馬身…。後続馬たちが止まって見えるかのような現象がわずか100mの間に起こった。

後にディープインパクトが軽く飛び、イクイノックスがパンサラッサに襲いかかった鬼脚を、3歳牝馬のヒシアマゾンが軽く演じて見せた。

結局、2着ローブモンタントとの差は5馬身。ヒシアマゾンはG1のタイトルを獲て、その年のJRA賞、3歳最優秀牝馬にも選出された。

そして、このレースで覚醒した「ヒシアマゾンの末脚」は、彼女のレーススタイルを確立させ、翌年のクリスタルカップやエリザベス女王杯で存分に発揮することとなる。

「女傑」ヒシアマゾン、君臨への道

「エリザベス女王杯までは負けてはいけない立場だったので、後ろから行って、大外を通って、着差は小さくても最後に勝てばいいというレースをしていた」

後に雑誌に掲載された中館騎手のインタビュー記事を読んだが、4歳時のエリザベス女王杯までのヒシアマゾンのレースは、その通りのレース運びだった。

ヒシアマゾンは、「強さ」より「凄さ」が際立つレースで勝利を重ねていく。

4歳初戦の京成杯は直線で内を突き、大外から伸びてきたビコーペガサスを捕まえることができず2着に甘んじる。しかしその後は、クイーンカップからエリザベス女王杯までの重賞レース6戦、同世代のライバルたちには負けることがなかった。

当時の外国産馬はクラッシックレースには出走できず、NHKマイルCも無い時代。春はNZT4歳ステークスが最大目標のレースだった。ここに出走したヒシアマゾンは、京成杯で敗れたビコーペガサスに雪辱を果たし、秋の最大目標のG1、エリザベス女王杯に備えた。同じころ、桜花賞でオグリキャップの妹、オグリローマンが鞍上武豊で優勝。優駿牝馬はチョウカイキャロルがオグリローマンを倒して頂点に立っていた。

4か月の夏休みを経て、当時中山で開催されていたローズステークスを秋の始動戦に選んだヒシアマゾン。優駿牝馬3着のアグネスパレードを相手に「後方待機」×「直線大外」の絵に描いたようなレースパターンで圧勝。私が現地で見たヒシアマゾンのレースで、最もお気に入りのレースでもある。

続くローズステークスでは、優駿牝馬2着のゴールデンジャックと桜花賞馬オグリローマンを退け、エリザベス女王杯でのチョウカイキャロルとの決戦を待った。

エリザベス女王杯は壮絶な一騎打ちとなった。バースルートの大逃げで始まったレースは、チョウカイキャロルが中段7番手、ヒシアマゾンは後ろから5番手の位置で先頭を伺う。レースは4コーナーを回ってもバースルートの貯金が残って先頭キープ。ヒシアマゾンは坂の下りを利用して外から進出、4コーナー手前では先を行くチョウカイキャロルを射程圏に入れている。

直線に入り、脚色が鈍ったバースルートを捕まえたのがアグネスパレード。一気に先頭に立つが、大外のヒシアマゾンはまだ動かない。残り200m地点でチョウカイキャロルが仕掛け、先頭に並びかける。チョウカイキャロルが仕掛けたのを見て、中館騎手がGOサインを出すと、ヒシアマゾンが外から猛追。1馬身以上あった差は瞬く間に縮まり、二頭の鼻面が並ぶ。残り100mからは首の上げ下げで先頭が入れ替わり、最内のアグネスパレードも差し返す。壮絶な叩き合いはゴール前まで続き、外のヒシアマゾンが頭を下げた位置がゴール板だった。後方待機から直線大外一気のヒシアマゾンがハナ差チョウカイキャロルに差し勝って優勝。二頭からクビ差遅れてアグネスパレードが入線した。

                 

同期のライバルたちを全て抑えて、4歳牝馬チャンピオンとなったヒシアマゾン。次なる目標は、同期の牡馬チャンピオン三冠馬ナリタブライアン。暮れの有馬記念でその対決が実現した。古馬牡馬陣もライスシャワー、ナイスネイチャ、サクラチトセオー、秋の天皇賞を優勝したネーハイシーザーなど古馬牡馬陣の主力メンバーが揃う。ヒシアマゾンは6番人気、さすがにこのメンバーに混ざっては評価も低くなる。

しかし、ヒシアマゾンの強さは本物だった。三冠馬を標的にレースを進めたヒシアマゾン、4コーナーで先頭を奪ったナリタブライアンに並びかけようとするものの、突き放されて直線に向かう。

結局、ナリタブライアンから3馬身差の2着で入線したヒシアマゾン。それでも3着のアイルトンシンボリには2馬身半の差をつけていた。

4歳時の戦績を8戦6勝2着2回のパーフェクト連対で終えたヒシアマゾンは、1994年の最優秀4歳牝馬に選定され、2年連続のJRA賞受賞となった。

この頃からヒシアマゾンには、「女傑」という冠が名前の前に付くようになった。

「女傑」ヒシアマゾンの苦闘

 5歳になっての目標は、ナリタブライアンを倒すことと、海外G1制覇。春にはアメリカ遠征するものの、レース直前に不安発生で出走を断念する。

 しかし秋には完全復活。オールカマー、京都大賞典を強い勝ち方で連勝し、通算10勝目となったヒシアマゾンはジャパンカップに向かう。

ジャパンカップにはナリタブライアンが出走。前走の天皇賞・秋で謎の大敗を喫したものの、日本代表馬として1番人気。ヒシアマゾンが2番人気で続く。

レースはタイキブリザードの先頭で進み、サンドピット、ナイスネイチャがそれに続く展開で、ナリタブライアンは中段の内、ヒシアマゾンは最後方待機。

直線に入って仕掛けたのが外に出したナリタブライアン。内で粘るタイキブリザードに迫るも、いつもの伸びが無い。残り200mを過ぎるとドイツのランドが抜け出し先頭。ヒシアマゾンは大外から伸びてくるが、ナリタブライアンを交わし、タイキブリザードを捕まえて2番手に上がったところがゴールだった。

強烈な末脚で初めてナリタブライアンに先着したものの、先頭のランドに並びかけることができなかった。

ジャパンカップの次走に選んだのは、暮れの有馬記念。ヒシアマゾンは、ナリタブライアンを抑えて1番人気に支持される。しかしレースは、田原騎乗の菊花賞馬マヤノトップガンの独壇場。ヒシアマゾンは出遅れも響き、後手後手に回る展開で5着まで。3馬身前の4着にはナリタブライアンが入線していた。

1996年はG1レースに勝利することができなかったが、それでもジャパンカップの「負けてなお強し」の末脚が評価され、3年連続となるJRA賞を受賞。最優秀5歳以上牝馬に選出される。

さらば、「女傑」ヒシアマゾン

6歳になったヒシアマゾンは順調さを欠き、不運も重なって昔の面影が薄れて行く。古馬混合のG1となったエリザベス女王杯も、勝ったダンスパートナーに迫る2着と好走するものの斜行で降着の憂き目にあってしまう。

続く有馬記念にも出走するが、終始後方追走で、直線だけで5着まで来るのが精いっぱい。結局、このレースがヒシアマゾンのラストランとなってしまった。

翌年、1997年春に再起をかけての調整中に右前脚浅屈腱炎を発症し、引退となる。

引退後は故郷のアメリカへ帰り繁殖牝馬となることが発表された。故郷に帰る前の夏、静内の出羽牧場で繋養され、夏季限定で見学が可能となった。

見学期間終了の数日前に私も見学させていただく機会を得たが、そこに居たのは、いつもパドックで見ていたヒシアマゾンではなかった。

9時からスタートする見学時間にも関わらず、100人近いファンがヒシアマゾンを取り囲んでいる。彼女は驚くことも無く、ひたすら草を食む。その仕草はやさしく、時折頭を上げて周りを見渡すと、一斉にシャッター音が響き渡る。ファンに囲まれ撮影されていることが楽しいかのように、ゆっくりと牧柵に近づいて来る。

やさしい瞳になったヒシアマゾンは、「女傑」の面影がすっかり消えていた。

                    

華やかな闘魂。

ネスという愛称で呼ばれていた。

戦いを終えた素顔は、輝くように優しかった。

この美しさのどこに屈強な牡馬たちを競り落とそうとした闘志が潜んでいたのか。

──JRAポスター ヒーロー列伝№43より引用

後に発表されたヒーロー列伝のショルダーコピーを目にした時、私は、出羽牧場で会ったヒシアマゾンを思い出した。

Photo by I.Natsume

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