日本競馬史そのものの戦い

ジャパンカップにはすでにコントレイル・デアリングタクトが出走を表明。過去に例のない三冠馬3頭の対決となった。報道によれば指定席には5万人が応募、競争率11.5倍となったという。
競馬ファンの誰もが、三冠の誰が勝つのかと予想する日々となっただろう。コントレイルとダービーや皐月賞で凌ぎを削ったサリオスがマイルCSでまさかの敗北、彼の評価がより一層悩ましいものになった。3歳牝馬デアリングタクトは53キロと軽ハンデなのも妙味がある。早く見たい一方で、一生始まらなくてもいいような気さえした。誰かが負ける場面も、見たくなかった。なんと幸せな悩みだろう。

ゲートが開いた瞬間、予想を遥かに上回る展開に度肝を抜いた。
彼女との最後の戦い、キセキは大逃げに出た。これまでも彼女に勝つためにあの手この手を講じる中で、逃げる選択をした馬たちがいた。それぞれがそれぞれのペースで、前が残る展開を狙い、そして虚しく敗れてきた。後に角居師は報道で「作戦ではなかった」と語ったが、私には勇気ある決断のように思えた。先頭とアーモンドアイは圧倒的な大差のまま、最後の直線を迎える。ひょっとして、がよぎった。36年前の三冠対決、シンボリルドルフとミスターシービーは最後まで、逃げたカツラギエースを捕まえることができなかった。
でも彼女なら、届いてしまうんだろうな。秋華賞だって、天皇賞だってそうだ。最終コーナーを過ぎた時、彼女から先頭まで200メートル近くあったはずだ。それでもアーモンドアイはみるみるうちに並びかけ、瞬く間にキセキを抜き去った。

このまま勝ち逃げされるものか。食い下がるのは無敗の三冠馬2頭、僚馬カレンブーケドール、海外GⅠ覇者・グローリーヴェイズ。ここで負けたら、もうあの子に勝つチャンスはないのだ。オルフェーヴルだって、シンザンだってできなかった無敗の三冠。無敗の牝馬三冠に至ってはデアリングタクトただ一頭。彼らが負けたら、これまでの競馬史を築いてきた先輩たちに顔向けできないじゃないか。
そうだ。これはアーモンドアイと無敗の三冠馬だけの戦いではない。これまで日本競馬が築いてきた歴史そのものの戦いなのだ。

──決勝線をすぎた時、不思議とホッとした。

1着、アーモンドアイ。2着、コントレイル。3着、デアリングタクト。
アーモンドアイの競走馬生活において最後の「最後の直線」だった。見事だった。無敗の三冠馬にはじめて土を付けたのが、アーモンドアイでよかった。でも負けた馬たちはこれで終わりではない。彼らもまた、新しい時代を築いていくはずだ。

四千の拍手の中でふと、聞こえないはずの歓声が重なった気がした。指定席に当たらなかった多くの人々、かつてWINSや競馬場にいたはずのおっちゃんたちの今を思った。
もう一度、あの目の覚めるような末脚を見られたら。それも、できればたくさんの歓声の中で。目を閉じれば浮かぶ、見るはずのなかった景色。ラッキーライラックとのターフでの再会。グランアレグリアとの再戦。そして、パリロンシャンの大舞台──欧州最強牝馬エネイブルが前段でフォルスストレートを過ぎ、残り300メートルでエンジンがかかると、三馬身突き放し先頭へ。すると後方からものすごい脚で白いシャドーロールが飛んでくる。日本のアーモンドアイだ!残り50メートルの死闘、粘るエネイブル、迫るアーモンドアイ、勝負の行方は……

……目を開けると、穏やかな西日が差し込んでいた。中継に映る東京競馬場のターフは、旅立ちを祝福するかのようにキラキラと輝いていた。

アーモンドアイは最も美しく、強いままでターフを去った。

いつか母の名で

12月になり、寒さも途端に厳しくなってきた。ジャパンカップで火照った頬もさすがにさめてきたころだろうに、それでも私たちはなおも熱を帯びていた。香港国際競争で日本馬が大健闘を見せたのだ。香港マイルではかつて出遅れながらもアーモンドアイの3着に食らいついたノームコア、2度の天皇賞・秋でアーモンドアイと戦ったウインブライトがワンツー。日本競馬はアーモンドアイだけではないことを世界に証明した。
それでも、彼らが活躍するたびに、彼らの数馬身先にいたアーモンドアイの強さを思い起こしてしまう。これから先どんなに強い馬が出てきても、彼女と比べてしまうのだろう。気の毒だが、くじけるな。がんばれ、後輩たち。

12月19日。日没は16時30分、次第に暗くなる中山競馬場のパドックは静かな熱気をたたえていた。太陽も沈むのが惜しいように見えた。チケットを勝ち取った幸運な人々が、声を殺しながら、息を潜めながら、彼女との最後の対峙を待ちわびていた。
アーモンドアイの引退式だ。彼女がパドックに入場した時、たくさんのシャッターの雨が降り注いだ。灯るライトで照らされた彼女の瞳は変わらず大きくて、まんまるで、愛らしかった。もう戦うことはないと知っているのか、穏やかな眼差しに見えた。
彼女の勝負服と同じ柄のマスクをした人、横断幕を掲げた人、水色の服を着てきた人、スマホのカメラを目一杯拡大しながら、画面いっぱいにアーモンドアイの最後の姿を捉える人、インカメラでアーモンドアイと一緒に写真に写ろうとする人。言葉を発せない中で、それぞれの形で彼女への愛と感謝を表現していた。

この場にいる人々は、持つ限りの運を最大限生かして今日ここに立っているのだろう。ちなみに私もその一人だったわけだが、その日の馬券は当然、全滅のボロ負けだった。
でも当たらなかったから、観に行けなかったから不幸というわけではない。
私たちは、幸せと不幸せの行ったり来たりを繰り返して生きている。苦しい時代だったが、一頭の牝馬が世界を置き去りにした瞬間を、歴代の名馬たちが築き上げた歴史を塗り替える瞬間を、幾度と目の当たりにしてきた。彼女が競走馬として生きた時代をともにした私たちは、とてつもない幸運の持ち主に違いない。

引退式でルメール騎手は、ことばを紡ぐように手紙を読み上げる。

「私たちは彼女の背中で味わったスリルと興奮をこれから先永遠に忘れないでしょう」

きっとみんなも忘れない。
へとへとになるまで走った女の子がいたことを。
白いシャドーロール、大きな瞳が美しかった女の子を。かろやかに大地を置き去りにし、日本競馬の新時代を創り上げた女の子を。

引退式を終え、人々は散り散りに帰路に着く。画面の前で観ている人もいるだろう。ひとつの時代が終わる。頬を突く冷たい空気が不思議と気持ちよかった。まだ熱は冷めていない。いつか彼女と母の名で再会する日が来る。

それぞれがそれぞれのエンドロールの中で、胸に広がる寂しさと幸福を静かに噛み締めていた。

写真:手塚 瞳

出典:明治安田生命 名前ランキング2018 名前ベスト100 / 名前ランキング2017 名前ベスト100

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