「今日のこのレースを現地で観た、ということはこの先、きっと自慢できるよ」
競馬を始めたばかりの細君に、東京競馬場でそう告げたのは、2019年11月16日のことだった。
メインレースの東京スポーツ杯2歳ステークスをコントレイルが勝利し、レースが確定した直後のことだった。この2か月前の新馬戦でデビュー勝ちして、1戦1勝で臨んだコントレイル。コントレイルを軽視した予想だったっため私自身の馬券は外れていたけれど、その勝ちタイムに驚かされた。
1分44秒5。
2歳の馬がマークしたとは思えない走破タイムに、大げさではなく背筋が凍り付いた。もちろんタイムが全てというわけではない。相手関係や馬場状態、展開など不確定要素が特に多いのが競馬という競技でもあるし、これだけ早い時計が出ると脚への負担も頭をよぎる。けれど、冒頭の言葉が口をついたということは、30年近く競馬を見続けてきた私がこのレースのコントレイルの走りを見て、何か心に響くものがあったのだと思う。
デビュー直後からレースを追いかければ、きっと細君の競馬キャリアで思い出に残るのではないか──。
なるべくなら、現地で、Liveでコントレイルの走りを見て欲しい。
そう考えていたのだけれど、年が明けた2020年はコロナウイルスの影響で2月中旬からは無観客での競馬となってしまい、「WINS自宅」というスタイルが長く続く状況となった。大観衆の姿が無くともG1レースは開催をされ、コントレイルは春に皐月賞とダービーを勝利。そして父と同様に「無敗での三冠制覇」へと挑むこととなった。
菊花賞も、自宅での観戦だった。無敗の三冠馬を見たい、という思いも抱きつつ穴党の看板を掲げている私はディアマンミノルに◎を打った。最後の直線、終始マークをしていたアリストテレスに交わされそうになりながらも──クビ差という辛勝ではあったけれど──コントレイルは、父子二代による「無敗の三冠馬」となった。この時の京都競馬場は、およそ1000人という限られた人数ではあったが観客を迎え入れての開催だった。ゴール直後、自然発生的に沸き起こった拍手をバックにコントレイルと福永祐一騎手が画面に映ると、私の目からは涙が溢れていた。
「G1レースは大観衆の中で行われるのが当たり前」
という固定概念があったが、競馬という種目はたくさんのファンの熱量が──拍手や歓声も──レースを盛り上げる要素なのだと、無観客競馬の際に思い知らされていた。
だからこそ、数は多くないけれど勝者を称える拍手が聞こえた瞬間、テレビの前の私は込み上げるものを抑えることが出来なかったのだ。
──けれど、その菊花賞を最後にコントレイルは勝ち星を挙げられなくなった。そして、2021年秋、天皇賞とジャパンカップの2戦を走り引退をすることが表明された。もちろん種牡馬としての価値を考えれば早いタイミングでの引退というのも頷けるし、当たり前だけれども競走馬のローテーションや引き際というのは関係者が決めることであり外野のファンがどうのこうの言うものではない。そう決まったのであれば、それを受け入れていくしかない……。
秋の天皇賞でも年下のエフフォーリアをつかまえきれず2着となり、残されたコントレイルのレースはジャパンカップのみとなった。
「同世代の他の馬たちが弱かっただけ」
「観客が入ると力を出し切れない馬」
「恵まれただけの三冠馬」
そういった揶揄する声すら、ジャパンカップの前には一部のファンから聞かれるようになっていた。
そして私と細君はジャパンカップ当日の抽選に当選し、コントレイルの引退レースを目の前で観ることが許されることとなった。
泣いても笑っても、これが最後のレース。三冠馬の名前を汚すことなく堂々とした走りを見せて欲しいと思う一方、私の予想は配当的な妙味からライアン・ムーア騎手の乗るブルームが軸だった。
レースはキセキが逃げると思われていたが、アリストテレスがハナ、番手にはシャドウディーヴァがつけて1コーナーを通過するという、予想もしない隊列となった。向こう正面からキセキが一気にロングスパートをするなど、出入りが激しいレースとなったが、コントレイルは最後の直線でも不利を受けない進路取り。福永騎手の素晴らしいエスコートに導かれてオーソリティを交わして先頭へ──そして、菊花賞以来となる1着でゴール板を通過した。
その時、東京競馬場のスタンドに居た私は不思議な感覚に陥ってた。
ゴールする直前、そしてゴールを過ぎてから、場内は大きな拍手に包まれていた。これと似た光景に出くわしたことがある、と思ったのはJ・G1のゴール前。長丁場を走り、難関な障害を飛越してきた馬に対して馬券の当たりハズレを度外視して、馬や騎手へのリスペクトの意味合いで拍手が起きる光景と重なって見えた。
単勝オッズ1倍台ということは多くの人がコントレイルを買っていたわけだが、他の馬に夢を託したファンももちろん居たはずだ。それでもゴール前でコントレイルが抜け出すと ―きっと馬券を外した私のような人も含めて──無敗の三冠を達成し、引退レースを見事に勝利した人馬への敬意を表す拍手が沸き起こっていた。
きっとその拍手は「三冠馬の力強い走りが見たかった!」というファンの想いが叶えられたからこそ、生まれたものだと思う。
予想の的中・不的中は関係なく、単純に強い馬が強いパフォーマンスを見せてくれたことに対しての拍手だったのではないだろうか。私自身も強いコントレイルを目の当たりにしたことで、またしても込み上げてくるものがあった。
コロナ禍という特殊な社会状況下で誕生した三冠馬。日常生活に様々な制約がかけられたけれど、その希望の象徴としてコントレイルは思い出される馬なのではないかと思う。いろんな外野の声に負けることなく、限られた数とはいえファンの居る前で最後の引退レースで有終の美を飾ったことで、福永騎手も重圧から解放されたのかもしれない。彼のインタビューを聞いて、様々なものを背負っていたことを改めて知った気がする。
だからこそ……この日の競馬の帰り道、私はまた細君にこんなことを言った。
「今日のこのレースを現地で観た、ということはこの先、必ず自慢できるよ」
2年前の東スポ杯の後に発した私のその言葉には半信半疑な表情をしていた細君だったけれど、この日は私がこのセリフを言った後、「そうだね、うん」と言って満面の笑みで頷いていた。
拝啓、コントレイル様。
たくさんの素晴らしいレースを見せてくれて、ありがとう。引退レースを現地で観たことを誇りに思います。ずっと語り継いでいきます。
本当に、お疲れ様でした。