[追悼]強く、美しく、永遠に - ジェンティルドンナ

陽がすっかり沈んだ競馬場に、独特の気配が漂う。歓声と蹄音の余韻が空に溶け、風がどこか名残惜しげにスタンドの隙間を抜けていく。

カクテルライトがターフへ降り注ぐ中、ほんの数時間前にレースを終えたばかりの一頭の名馬が歩いている。師走の急いた空気と、一年の終わりの気配。そのすべてが、別れを惜しむ万雷の拍手と混ざり合い、惜別の光景をいっそう鮮烈なものにしていた。

その馬はその日、ラストランの有馬記念を制したジェンティルドンナ。「貴婦人」を意味する名を持つ女の子はピンク色の可愛らしいイヤーネットを揺らし、レースで見せる凛々しさとは少し異なる表情で、ファンに別れを告げた。

あれからもうすぐ11年が経つ。

彼女が天へ帰っていったという報せに触れ、彼女が競馬場に遺した光が、再び灯り、瞬くのを感じた。

思い返せば、彼女はいつだって弾むように駆けていた。

しなやかで軽やかで、なのに圧倒的。そのフットワークに才能が溢れていた。


オークスで距離不安を吹き飛ばして後続をちぎった日、「規格外」という言葉が、まだまだ成長途上だった彼女の姿に追いついた。彼女の強さを疑うファンは、この日を境にいなくなった。

三冠の道のりでは、ヴィルシーナと互いの影を濃くしあった。

桜花賞、オークスはどちらもジェンティルドンナが制し、ヴィルシーナが2着。そして秋華賞――鼻面を並べ、ほとんど一つの影のまま2頭はゴールへ飛び込んだ。負けられないジェンティルドンナと譲れないヴィルシーナ。ぶつかりあう意地と誇り。そのわずかな差は、勝ち負け以上に、名馬が互いを映し合う美しさと厳しさを教えてくれた。

ヴィルシーナがのちにヴィクトリアマイルを連覇したことで、三冠牝馬の強さは一層鮮烈さを増した。

三冠牝馬として挑んだ2012年のジャパンカップ。待ち受けるのは、一つ年上の三冠馬・オルフェーヴル。

西日が差し込む府中の直線で、伸びた影が絡み合う。体を寄せ、弾き、弾き返され、それでも怯まない。意地と意地が火花を散らしてぶつかり合う。2頭だけの世界で繰り広げられた死闘。その末にわずかに前へ出たのはジェンティルドンナだった。

決して優雅ではない。むしろむき出しの、身を焦がすほどの闘争心。あの日、貴婦人は上品さの奥底に宿していた熱を、世界へ向けて惜しみなく発信した。

翌2013年にはジャパンカップを連覇した。大きく横に広がる馬群の最内から先頭に躍り出て、次々に襲い掛かるライバルを迎え打ち、退けていく。その姿には、歴戦の女王の貫録が宿っていた。

2014年のドバイシーマクラシック。

直線で進路を失う絶体絶命のピンチ。首を振り、喘ぎ、苦しみながら、右へ左へと一完歩ごとに切り返す。ようやく見つけた僅かな隙間を切り拓いて、ついには外へ持ち出されたその刹那――抑え込まれていた力が一斉に噴き出す。馬体がぎゅっと収縮し、それから四肢が力強く放たれると、海外の強豪をあっという間にねじ伏せて、突き抜けた。砂漠の国の夜風の中、彼女は日本で見せる以上の力強さで躍動した。

その年の暮れの有馬記念。

宝塚記念、天皇賞・秋、そして三連覇のかかったジャパンカップ…勝てない日々が続いた。もうピークは過ぎてしまったのかもしれない、そんな声がよぎった。けれど暮れゆく空の下、薄暗さを孕んだターフで、彼女は最後の最後にもう一度弾けた。彼女は最後まで気高かった。

陽が沈んだターフに灯りが落ちていく中、静かに行われた引退式。冬の冷たい空気と、スタンドから湧く温かい拍手が混ざりあい、白い息の向こうに立つその姿はどこか可愛らしく見えた。

数年後、彼女は母としてジェラルディーナをこの世に送り出した。その姿かたちは母と少し違って見えたけれど、エリザベス女王杯で見せたタフな走りには、確かに母の影が重なった。血が受け継がれ、力が受け継がれ、物語は未来へ永遠に続いていくのだと思えた。

彼女のあとも三冠牝馬は現れた。男勝りの名牝も現れた。けれど、ジェンティルドンナにはその誰とも違う「唯一無二の輝き」があった。強さだけでは説明できない何か──気高さ、意地、しなやかさ、その全てが共鳴し合うような存在感。

彼女の死を悼む。この胸に満ちるのは寂寥感。そして染みわたるような感謝。

あの時代に生き、あの走りを見せてくれたこと。本当はあともう少し生きていてほしかったけれど、母となり、血を未来へつないでくれたこと。そして、競馬という世界に「忘れ得ぬ光」を残してくれたこと──その全てに心から「ありがとう」を伝えたい。

陽が落ちても、その影はなお輝く。かつてターフを駆け抜けた名馬たちの残影は、微かな光となって、これからもどこかで点り続ける。

京都、阪神、東京、そして中山。場所を選ばずG1を制した名牝の姿は、今も至る所に残っている。戦場を選ばずに勝ち続けることの難しさを誰より知りながら、それでも彼女は、最後の最後まで美しく強かった。

ジェンティルドンナという名は、これから先の季節を照らし続ける。

永遠に、貴婦人として。

写真:s1nihs

あなたにおすすめの記事