[連載・馬主は語る]下見(シーズン1-27)

いよいよ決戦の日の朝。碧雲牧場の長谷川慈明さんが空港まで車で迎えに来てくれて、同乗させてもらいノーザンホースパークに向かいました。実は長谷川さんと会うのは2、3年ぶり。相変わらずの明るい性格で、まるで昨日も会っていたような雰囲気に。僕たちが馬の話をし出すと止まりません。車中も今日のセリのことでもちきりです。気がつくと、フロントガラスに雨の跡がつきはじめました。どの繫殖牝馬を買うべきかで頭が一杯だった僕は、まさか雨が降るという状況を全く想定していませんでした。僕にとっての恵みの雨となるのでしょうか、それとも…。

ノーザンホースパークの会場に到着すると、雨は次第に強くなり、下見が始まっても一向に止む気配はありません。繁殖牝馬の下見とはいえ、(驚かせてしまうとマズいので)さすがに傘を差すわけにはいかず、ズブ濡れになることを覚悟していると、長谷川さんがどこからか雨カッパを手に入れてきてくれました。このあたりの気遣いと俊敏さはさすがです。そうこうしているうちに、下村獣医と落ち合うことができ、彼とも毎日会っているような感じで挨拶し、そのまま下見に付き添ってもらうことにしました。

下見は受胎馬と未供用馬に分かれて、2つの会場で行われました。まずは1番の受胎馬から順番にざっと見ていくことにしました。受胎馬のエリアは、高齢馬も多く、全体的に落ち着いた雰囲気です。特にお腹に子どもを宿している牝馬は、全体的な体型が崩れているため、僕には見極めが難しい。現役時代の馬体を頭に入れてきて良かったと思いました。しかし、下村獣医は繁殖牝馬の馬体を見ても、「トモが足りないですね」、「胴部が長すぎます」など、その特徴を的確に言い当てていきます。さすがに千を超える受胎馬を看てきただけのことはありますね。

10番ぐらいまでは順番に見て回ったのですが、このままでは最後まで見られないことに気づき、まずは狙っている馬たちを優先的に見ることにしました。20番のグリントオブライトまで一気に飛んでみると、意外と小さく見えました。現役時代は馬体を大きく見せていたタイプでしたが、こうしてみるとステイゴールド肌らしいというか、気性的な難しさも伺えました。とはいえ、販売希望価格(初値)が700万円ですし、ひと声で落ちることも考えにくいため、この馬は買いたいけど買えない候補のナンバーワンです。

ちなみに、ひと声で落ちるというのは、他の誰も手を挙げないことを意味します。たとえば、販売希望価格が500万円の繫殖牝馬であれば、最初のひと声が500万円からスタートします。500万円で買いたい人が手を挙げるということです。最初の人の手が上がったら、そこからセリがスタートし、次に550万円で買いたい人が手を挙げて、次に600万という形で競り上がっていきます。つまり、誰も競ってくる人がいなければ、ひと声で落ちるため、販売希望価格=底値で買えるということですね。

次は25番ノーブルワークスです。この馬は直前になって僕の中で急浮上した1頭です。血統的には決して派手ではありませんが、競走成績を見ると能力が高いのは明らかですし、何と言ってもまだ5歳ですから、繫殖牝馬としての可能性は十分です。パッとみて、手肢がやや短くて、重心が低いタイプに映りました。下村獣医も同じ感想を抱いており、この重厚な血統にもかかわらず、短距離戦で2勝した肉体的な理由が分かります。こういうタイプの馬は長めに出る種牡馬を配合することで、産駒はバランス良く出るはずです。受胎しているリーチザクラウンは決して派手な種牡馬ではないため、意外と嫌われて安く落とせたら買おうということになりました。僕の中では500万円が上限と決めました。

続いて、29番のダートムーアです。この馬が馬体的にも、血統的にも、予算的にも大本命です。もっと大型馬をイメージしていましたが、近くで見てみると意外とコンパクトで、正面から見ると薄いぐらいで、よくこの馬体でよくダート戦を4勝したなと思わせます。13歳ということもあって、実に落ち着いていますし、セリの下見という環境の変化にも全く動じることはありません。受胎しているニューイヤーズデイはすでに立派な産駒が続々と出ていると聞いていますので、お腹にいる仔はダートの舞台で活躍してくれることになりそうです。ただし、ダイナカールの牝系だけに、決してダート馬ということではなく、配合によっては芝の中距離で走る馬を誕生させることができるのではないでしょうか。ダービーを狙える繫殖牝馬ということです。400万スタートですから、この馬の予算は600万円までと決めました。

このあたりから雨が強く降り始め、まともに馬を見ているのも辛いほど。それでも、大金が掛かっているだけに、雨に濡れるからなんていう理由で下見をやめるわけにはいきません。下村獣医には申し訳ないと思っていると、彼の方が僕よりも雨など気にする素振りもなく、キラキラした目で「次は未供用馬のエリアに行きましょう!」と言っています。カッパのフード部分から滴る雨越しに彼の顔を見ながら、この人は本当に馬が好きなのだなと思いました。

未供用馬のエリアに移動すると、こちらは3歳馬が中心ということもあって、あちこちから嘶(いなな)いている声が聞こえてきます。候補馬の50番アメリカンウェイクのところに真っ先に行くと、今すぐにでもレースで走れますよと言っているように、雄大な馬体を揺らしてのっしのっしと歩いていました。筋肉の付き方も素晴らしく、顔つきも良く、理想的な繫殖牝馬に思えました。この馬はお腹に何も入っていないため、100万円スタートではありますが、軽く1000万円は超えるはずと僕は予想していました。今年は未供用馬に血統馬が多く、総じて高くなりそうだという声も聞こえてきたので、このあたりから受胎馬を狙おうという共通意識が僕たちに生まれ始めていました。

買えないと分かっていても、51番のエトワールだけは見ておきたいと思いました。この馬もイメージどおりの立派な馬体であり、全てのパーツがしっかりしています。血統的にもサンデーサイレンス系も問題なく配合できますし、同馬のバランスの良さを考えると、変に種牡馬で補正する必要もなさそうなので、どんな種牡馬を相手にしても良い子が生まれそうです。まさに理想的な繫殖牝馬であり、この馬が5歳で手に入るのであれば最高ですね。とはいえ、アメリカンウェイク同様に、この馬も1000万円を優に超えることはほぼ確実でしょうから、見てるだけ~ということになりそうです(笑)。

あっという間に、下見の時間が終わりを迎え、繁殖牝馬たちは少しずつ引き上げていきます。セリが始まる前に、腹ごしらえということで、おにぎりやサラダ、ステーキやコロッケなど、ノーザンファームから食事が振る舞われます。この頃には長谷川さんと彼の弟さんも合流し、僕たちはおにぎりをほおばりながら、下見の感想を言い合いました。「僕は受胎馬の中ではダートムーアが本命なのだけど、13歳という年齢だけがネックですね」と話したところ、「13歳はまだ大丈夫ですよ。たしかに受胎するのが難しくなったりしますが、あのキズナは母キャットクイルが21歳の時の産駒ですし、実績のある繫殖牝馬であれば20歳ぐらいまでは種付けしますから」と下村獣医から返ってきました。未供用の3歳馬も多くいる繁殖牝馬セールの中では、13歳は高齢に見えてしまいますが、冷静に考えてみると、あと少なくとも5年間は種付けが可能であるということです。さきほどのダートムーアの馬体を見ても、まだ若々しいというか、年齢よりも若く見えましたので、もう後がないなんて考えること自体が失礼に当たるでしょう。

12時になると、セール開始のアナウンスが流れ、会場が静かになりました。僕たちはそそくさと移動し、正面の比較的前目のポジションを取りました。初めての繫殖牝馬セールで、勝手が分からず不安ではありますが、大金を持った猛者どもからの視線を後ろから背中に受けつつ、正々堂々と戦うしかないのです。僕たちの最初の候補は25番ですから、まずは様子をうかがうことにしました。

(次回に続く→)

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