[連載・馬主は語る]どれだけ幸せな時間を共にすごせるか(シーズン2-27)

日高の牧場の生産者さんたちを誘って、軽く食事に行くことにしました。ミックスセールでは、誰も繁殖牝馬を買えなかったようです。生産者同士の声には競馬の源流が感じられ、僕にとっては興味深い話ばかり。ひと昔前、馬が全然売れなくて食卓に肉が出てこなかった時代の貧乏話から、最近流行りの引退馬支援についてまで、理想と現実のはざまで世の中の景気に大きく左右されながら、生き抜こうとしている男たちの物語です。今は馬が売れて良い時代になったけれど、いつまでたっても貧乏性は抜けないし、プロとしては馬を処分する現実から目を背けてはならないしと彼らは語ります。

馬が高く売れる時代だからこそ、牧場もお金を持っていて、それを繁殖牝馬に投資してくるから繁殖牝馬市場も高騰する。だからといって、繁殖牝馬を買い控えていては、気がつくと牧場の繁殖牝馬は高齢になり、血も古くなってしまって、時代の流れに取り残されてしまう。そんな危機感を持って彼らは繁殖牝馬セールに臨んでいるのです。だからこそ、口を揃えて、「この日(繁殖牝馬セール)のために1年頑張って来ているからね」と言い、昨日はドキドキして寝つきが悪かったと苦笑していました。

馬を売る生産者としてのノウハウとして興味深かったのは、セレクションセールに出すことを目標にして、全力を傾けているという話です。セレクションセールはその名のとおり、選ばれし馬たちだけが上場できる日高のセリ。セレクションセールに上場できれば高く売れる可能性が増すのですが、選考基準を満たして選んでもらうことが難しいそうです。選考基準としてはまずは血統です。母や兄弟姉妹が重賞等を勝って実績がある、産駒がすでに活躍している、つまり母もしくは兄弟にブラックタイプがあると受かりやすいそうです。その後に馬体が来て、素晴らしい馬体を誇る馬や動きの良い馬は評価されます。ただし、いくら馬体や動きが良くても、血統が地味では選考の土台にすら載らないとのこと。それから、父(種牡馬)が誰かも関係してくるそうです。セレクションセールに上場される馬たちの中でも種牡馬があまりにも偏りすぎているよりも、商品のバリエーションがあった方が良いため、たとえエピファネイア産駒でも多すぎると選考から外されてしまうこともあったり、意外とマイナーな種牡馬だから通ったりすることもあるとのこと。

僕もセレクションセールに上場させたいとは思っていましたが、詳しい選考基準まで考えが及んでいなかったので、まさに目からうろこが落ちました。ダートムーアに基準を当てはめてみると、産駒は目立って走っていませんが、自身は4勝を挙げ、エンプレス杯(交流G2)でも3着していますし、全兄のフラムドパシオンはUAEダービー3着馬ですから実績は十分でしょう。父ニューイヤーズデイもそれほど産駒が溢れているわけではなく(2022年の種付け頭数はおそらく100頭以下)、むしろちょうど2024年ごろには産駒が走り始めて、ニューイヤーズデイ産駒が引っ張りだこになっている可能性もあります。

引退馬支援の話にもなりました。運営の実態は分かりませんが、引退した馬たちの面倒を最後までみるという考え方は、生産者から見ると甘いと思えるのでしょう。もちろん、普段から馬と一緒に過ごしている彼らにとって、馬たちが可愛くないわけがありません。彼らだって、馬を生かしたいのです。それでも全ての馬たちを救えるわけではなく、天命を全うさせてあげられない馬の方が圧倒的に多いのが現実です。彼らはその現実に向き合っているからこそ、引退馬支援の物語は表面的に映ってしまうのでしょうし、自分たちのやっていることを否定されているような気がするのではないかと僕には思えました。この話題の中に何度も登場した「プロとして」という言葉に、彼らの矜持を感じました。

馬の行く先をちゃんと知っておかなければならないということで、ある生産者さんは弟を連れて、馬を処分する現場を見に行ったことがあると言っていました。昨日まで家族同然に暮らしていた馬を殺処分場に連れていくのです。弟さんは二度と見たくないとおっしゃっていたそうですが、プロとしては現実から目を背けることなく、その目で見て、心に刻んでおかなければならないということです。

また、ある生産者さんのお子さんがお気に入りの馬がいて、ある日、その馬がいなくなってしまったとき、「あの馬はどうしたの?」と聞かれたそうです。生産者さんは「もううちには置いておけなくなってしまったんだ」と話し、それでも納得がいかない娘さんに、こういう話をしたそうです。「それじゃあ今、〇〇ちゃんが食べているご飯やお菓子をずっと買わずに節約してくれたら、置いておけるかもしれないよ」と。そうしたら、娘さんは考えてくれたそうです。このたとえが正しいかどうかは別にして、馬は猫や犬と違い、ペットではなく、飼育しておくだけで大きなコストがかかる経済動物なのです。自分ごととして、経済を含めて考え始めたとき、馬と共に生きることの難しさを感じることができるのでしょう。

僕は彼らの話を聞きながら、ダートムーアやこれから買おうとしているもう1頭の繁殖牝馬のことを考えました。彼女たちにもいつか、繁殖牝馬としての役割を果たせなくなってしまう時が来ます。そのとき彼女たちはどうなってしまうのだろうか?僕は彼女たちに何をしてあげられるのだろうか?今から考えてもきりがない問題ではありますが、必ず直面することでもあります。1頭の馬を持つ以上、自分が関わったその馬だけでも最後まで面倒を見てあげたいと思ってきましたが、彼らの話を聞くにつれ、それは僕がアマチュアだからではないかと思うようになりました。最後まで生かしてあげたい、生きてもらいたいという気持ちは同じでも、いざ自分がその現実に直面したとき、ほんとうにそのナイーブさを貫くことができるのでしょうか。馬の平均寿命は25~30年。20歳まで繁殖牝馬として活躍してくれたとしても、残りの馬生は5~10年残っています。1頭の馬を生かすために、およそ月10万円以上、年間にして120万円以上を払い続けられるのだろうか。僕の心は揺れています。

映画「今日もどこかで馬は生まれる」のあるシーンが走馬灯のように蘇ってきました。ウインレーシング代表の岡田義広さんは「ペット感覚なのだと思います。これは一般のファンというよりは、日本人の問題ではないでしょうか」、「馬だけを特別視するのは視野が狭いと思います。私たちはせめてうちにいる間はハッピーに過ごしてもらいたいと思ってやっています」とおっしゃっていました。まさにそのとおりです。

岡田さんが日本人の問題と言及したのは、命に対する考え方や死生観の幼さについて指摘していると僕は感じました。死というものをできるだけ遠ざけ、避けてきた日本人にとって、命とはあるかないかのモノのような存在であり、とにかく命がゼロになることを忌み嫌います。その傍らで牛や鶏などを殺した肉を何ごともなかったように食べているにもかかわらず、その矛盾には気づきもしない。命とはモノではなく時間なのです。長ければ良いということではなく、その時間をいかにハッピーに過ごせるかが最も大事なのです。

一方で引退馬支援協会の女性は、「1頭の馬に対して、熱い想いの人がひとりでもいないと馬は助からない」ともおっしゃいます。こちらも正しいと思います。その馬のことを家族の一員のように思い、一緒に過ごしたいと考える人がいて、その馬もその人と一緒に過ごすことを幸せだと感じている関係性があることを前提として、あとは経済的な問題さえクリアすれば、1頭の馬はその生涯を全うすることは可能でしょう。ただ、僕たち人間も経済状況などが大きく変化することもありますので、最初は何とかなったけれど、次第に月10万円を払うことが難しくなるという方もいるのではないでしょうか。1頭の馬ですらこのような感じですから、全ての馬を救うことに無理があることはお分かりいただけると思います。個別論としては可能でも、全体論としては極めて困難なのです。

そこで重要なのは、どれだけ幸せな時間を共にすごせるかという観点ではないでしょうか。園田競馬場の厩務員が描いた「サラブレッドと暮しています」という素晴らしい漫画があります。競走馬に対する愛情や理解という点においては、さすがに群を抜いている1冊です。厩務員から見た競馬の世界が実に見事に表現されていて、(マンガをそうすることはほとんどない)僕が2度も読んでしまいました。そして2度泣かされました。

著者である田村正一氏がこれまでに担当した、個性的な馬たちが続々と登場します。ひきこもりの馬、牡馬にモテモテの栗毛牝馬、走る気をまったく失くしてしまった馬など、競走馬といえどもこれほどまでに性格や気性が違うものかと驚かされます。その中でも最も多くの回に登場するのは、著者が園田競馬場にやってきて、初めて担当することになった9歳馬サイレントウイナーです。2歳から100戦以上を走り続け、複勝率が40%を超える、衰え知らずの堅実派。しかし実は気性が荒く、油断するとすぐに悪さをする、扱いの難しい馬でもあります。噛まれたり、振り落されたり、怪我をさせられながらも献身的に尽くす厩務員は、人間の母親のそれに似ていますね。

衝撃のラストシーンには胸が詰まります。サイレントウイナーが競走中に故障を発生し、安楽死処分になってしまったのです。突然の別れに戸惑いながらも、こんなことがあっても涙を見せないと決めていた著者ですが、サイレントウイナーのいない馬房に戻ってきた瞬間に崩れ落ちます。そこには共に過ごした家族との日々がありました。担当馬の死に遭遇した著者は、それ以降、「果たしてサイレントウイナーは幸せだったのか?」と自問自答することになります。人間の都合で管理され、休むことなく走り続け、たった1度のアクシデントで命を落とした彼が幸せであったはずがないと。しかし最後に、彼はあるひとつの結論に辿り着きます。

それは、生きていた時間を誰とどのように幸せに過ごしたかが重要なのだということ。ありきたりな平凡な答えかもしれませんが、生きることの真実を突いていると僕は思います。生きるか死ぬかのゼロサムで命を考えるのではなく、今その馬はあなたと共に幸せに過ごしていますか?その馬は生きていたとき幸せでしたか?ということです。長く生きたかどうかよりももっと大切なことは、生きているときにその馬は幸せだったかどうか。これは馬にたずさわる人たちのみならず、僕たちの人生観や死生観としても胸に刻むべきではないかと思います。

ひとしきり競馬について語り、僕たちは別れました。夜空にはっきりと見える星たちが綺麗です。僕は碧雲牧場に泊めてもらうことになっていました。明日の8時に迎えに来てもらい、その足で静内に向かう予定です。シャワーを浴びて、今夜はもう何もすることなく、そのままベッドに入りました。枕の横にはセリ名簿を置いて、セレクションセールに上場できるような産駒を出せる繁殖牝馬かどうかの基準に合わせてピックアップし直そうと思いましたが、今さらという気持ちもあり、明日の朝に備えて目を閉じました。

ところが、寝られないのです。これで2夜連続。昨夜はなかなか寝付けずに眠いはずなのに、繁殖牝馬の名前が頭を駆け巡って、目が冴えてしまい、寝させてくれません。羊が一匹の、羊が二匹の逆の繁殖牝馬バージョンです(笑)。普段は寝つきが悪くて困ることはないのに、なぜこの大事な時にと思っていると、ふと、「僕は生産者になったのだ」と思えたのです。今夜、生産者たちが抱いている気持ちと同じ気持ちを僕は今抱いている。昨年とは違って、繁殖牝馬セールの前日に気持ちが高ぶって眠られなくなるなんて、僕は少しは生産者に近づいたのではないでしょうか。彼らがこのセリで繁殖牝馬を買うために毎日頑張って仕事をしてきたのと同じように、僕もこの繁殖牝馬セールの日を楽しみにして働いてきたのです。

(次回に続く→)

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