[連載・馬主は語る]踵を返す(シーズン2-28)

朝起きて、準備を済ますと、碧雲牧場の慈さんはすでに迎えに来てくれていました。「昨日もなかなか眠れなかったですよ」と僕が言うと、「いやー、僕もです(笑)」返ってきました。彼も僕も昨日は買えなかったのですから、今日1日が勝負です。ジェイエス繁殖馬セールが開催される静内の会場まで、車でおよそ1時間。今日の狙い馬について話しながらドライブします。

彼の本命馬はエターナルディーバです。父キングカメハメハ、母ミラクルレジェンド、祖母パーソナルレジェンドという超良血馬。パーソナルレジェンドからはローマンレジェンド、ミラクルレジェンドはグレートタイムが誕生しているように、バリバリのダート血統です。エターナルディーバ自身は中央で1勝と物足りない成績であり、馬体重も430~450kg台で走ったようにやや小ぶりな馬体でした。とはいえ、クリソベリルの仔を受胎中でもあり、無事に生まれてくれば高値で取り引きされることは間違いありません。ただし、かなりの人気にもなりそうとのこと。

熱い繁殖牝馬談義を重ねていると、静内のセリ会場に到着しました。7年前に訪れたオータムセール以来となる、懐かしい建物の黄色い壁が見えてきます。すでに馬が外に出されていて、バイヤーたちが下見を開始しています。ピリッと身が引き締まるのを感じました。駐車場に車を止め、歩いて厩舎に向かいました。すぐに慈さんの弟さんと目が合いました。彼は社台ファームで働いているので、さっそく僕の候補馬を見せてもらうことにしました。まずは第一候補であるスパツィアーレ(父シンボリクリスエス)から。早い番号の馬たちは外に出されていますが、スパツィアーレは122番と遅めですから馬房へと向かいます。スタッフに連れられて出てきたスパツィアーレは、思っていたとおりの雄大な馬格で、手肢も長く、胴部にも伸びがあって、面積が広いタイプの馬体に感じました。ルーラーシップの仔を受胎していますので、ここからどれだけ馬格のある馬が出てくるのか想像するだけでワクワクします。とはいえ、ステラマドリッドの孫にあたり血統的にも筋が通っていますし、馬格も十分にあるので、この馬もさすがに高くなりそうです。

続いて、外に出されていたアスクミーホワイ(父ドゥラメンテ)やアスワンサンセット(父Pioneerof the Nile)、ついでに長谷川さんの本命エターナルディーバも見せてもらいました。どの馬もスパツィアーレと比べるとコロンとしていて、パワータイプに映りました。特にエターナルディーバは多くの人たちが見に来て、周りを囲まれているにもかかわらず、実に大人しく落ち着いていました。これは繁殖牝馬としては良いなと僕でも思えたほどです。

このあたりから下村獣医師が合流してくれて、付きっ切りで他の社台ファームの繁殖牝馬たちも案内してくれました。3勝馬のデザートムーンやサイレントハピネスの仔であるサイレントクロップなど、見れば見るほど素晴らしいと思える繁殖ばかりで目移りしてしまいます。その中でも特に、候補馬の1頭としてピックアップしていたビートゴーズオン(父Curlin)は、馬体といいい雰囲気といい、誰もがこれは良いと思うほどの馬でした。いかにもアメリカのダート馬という雰囲気で、どんな種牡馬を配合してもスピードとパワーのある産駒が誕生しそうです。これも間違いなく高くなるでしょう。

夢と希望に満ち溢れた幸せな時間を過ごしている僕を現実に引き戻すかのように、セリ会場から掛け声が聞こえてきました。我に帰るとはこのことで、僕は下見を切り上げ、会場の中へと向かいました。上場頭数も多いこともあるのか、ノーザンファーム繁殖牝馬セールとは少し違ってまったりとした雰囲気が漂っていて、会場にはまだ人がまばらで空席も目立ちます。「序盤で誰もが様子見をしているようであれば、9番のデザートムーンは狙い目ですよ」という下村獣医師のアドバイスを受け、僕は席に座って一応の戦闘態勢を整えておくことにしました。テンポよく進んで、あっという間に9番の出番がやってきました。

昨年と違い、どうしても繁殖牝馬を買わなければならないわけではなく、今年は良い買い物ができればという冷静な気持ちです。この冷静さが良い方向に出るか、それとも消極的な面として出てしまうのか分かりませんが、昨年のように熱くならず、500万円の予算をできるだけ守ろうと考えていました。

リザーブ価格の100万円からスタートしたものの、あっという間に値は上がっていき、500万円を突破しました。不思議なもので、ホッとしたというか、これで買わない理由ができたという気持ちが湧いてきます。本命がセリの後ろの方にいる状況では、7、8番手の候補に対して思い切って競ることは難しいのです。今この馬を競り落としたばかりに、本来は予算内で買えるかもしれない本命馬を見送ることになるからです。このあたりがセリの難しいところです。9番デザートムーンは935万円で落札されました。

僕の葛藤など微塵も気にされることなくセリは続き、注目していた16番ダンツエリーゼの番がやってきました。そもそも買えると思っていないので、下見すらしていませんでしたが、目の前に現れた姿は実に立派です。これは後から人づてに聞いた話ですが、ノーザンファームと矢野牧場が競って、最終的には矢野牧場が3740万円で落としたそうです。この馬に賭けた矢野牧場が気合で優ったというところでしょうか。その後もロードカナロアを受胎したクリスマス(函館2歳ステークス勝利馬)が5170万円と値をつけ、隣に座っていた下村獣医師とそうだよねと目を合わせました。

いよいよ慈さんの本命である66番エターナルディーバの出番です。長谷川さんは今年、日本軽種馬協会から最大500万円の補助を受けて繁殖牝馬を購入できますので、自前の1000万円を合わせて1500万円を予算としています。先ほど下見で実馬を見た感じでは、たしかに高くなるかもと思いましたが、さすがに1500万円もあれば何とか落札できるのではと僕は楽観的に見ていました。ところが、いきなり競りはヒートアップしていき、一瞬のうちに2000万円を超え、さらに3000万、4000万と上がっていきます。長谷川さんは呆れたような諦め顔。最終的には6270万円まで上がったところでハンマーが振り落とされました。

今年のジェイエス繁殖馬セールは全ての馬が高いというわけではなく、主取りになる馬もいれば、この馬がこの安さで?と不思議に思うほどあっさりと落札される馬もいます。しかし、皆が良いと思う馬はやはり値が高騰しているようです。人気が集中してしまうというか、安い馬は安く、高い馬はかなり高いという偏りが生じている感じ。だからこそ、購買者にとっては盲点になる馬も出てくるはずです。

そのような状況判断をしていると、僕の本命候補の1頭である84番ビートゴーズオンが登場しました。中央で3勝を挙げているカーリン産駒の牝馬です。この馬が盲点になるようであれば、思い切って攻めて落札しようと心を決めました。右手を挙げる準備はできています。250万円からスタートしましたが、僕が手を挙げようか迷う暇もなく、500万円の大台を突破しました。この馬も人気だったかと失望しているうちに、1000万円を超え、2000万円を超えたとき、僕もさきほどの慈さんと同じ顔をしていたと思います。これは競りにならない、今年は僕の出る幕はないと痛感したのです。

この時点で、半ばあきらめたというか、8割方はあきらめました。僕は牧場をやっているわけではなく、どうしても今年繁殖牝馬を買い付けないと来年以降の収入源が減るということではありません。心からほしいと願う繁殖牝馬を持たなければ愛着も生まれません。無理に買って帰る必要はないのです。この後の順番で、僕が心からほしいと思っているのは、122番のスパツィアーレだけです。この流れで考えると、スパツィアーレが500万円で買えるとは考えにくいので、つまり今年は終了ということになります。あとは冷やかしというか、自分がチェックしていた繁殖牝馬たちがどれだけの価格をつけるのかを見物して帰ろうと気持ちを切り替えました。昨日の夜まで、生産者に近づいたのではないか、この繁殖牝馬セールの日を楽しみにして働いてきたと意気込んでいたのに、少し劣勢になるとこうして踵を返してしまう僕の弱い面が顔をのぞかせたのです。

(次回に続く→)

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