「そちらに行く準備ができたのですが、スパツィアーレはまだですかね?」
「もう生まれそうな予兆はかなり出ているのですが、まだみたいですね」
僕が行くまで待ってくれたのだと胸を撫でおろしつつ、新千歳行きのチケットを取りました。今回はスケジュール的に2泊3日滞在することができそうです。すでに予定日を3日すぎて、漏乳するほど濃い乳ヤニもついているそうなので、僕がいる間に産む確率はかなり高いと考えられます。今度こそ、奇跡の瞬間に立ち会えると思うと、鼓動が高まります。
牧場はお産で忙しい時期のため、今回は新千歳空港から苫小牧、そして鵡川(むかわ)まで電車を乗り継いで行きました。こういうとき、車の運転ができればレンタカーをしてスッと行けるのになあと、免許の更新をしなかった若かりし頃の自分を引っぱたいてやりたい気持ちになります。
ようやく牧場に到着し、2階の部屋に案内されました。そこからは、ちょうど眼下に1頭だけ放牧されているスパツィアーレの姿が見えます。はち切れんばかりのお腹を揺らせながら、のんびりと草を食んでいるではないですか。全くと言ってよいほど、これから出産するような気配を感じさせません。「もうしばらくかかるかもしれませんね」と慈さんは言いますが、この時はさすがに3日間のうちには産まれるだろうと僕たちは高をくくっていました。
初日は牧場の家族と皆で行者ニンニク入りの餃子を食べ、舌鼓を打ちました。北海道で食べると、何を食べても美味しく感じます。食卓から見えるところに、スパツィアーレの馬房がカメラで映し出されており、たまにそちらに目を配りつつ歓談し、楽しい夜を過ごしました。スパツィアーレも馬房から顔を出して外を眺めたり、草を食べたりとマイペースで過ごしています。
お産が始まるときは、馬が急に馬房を旋回し始めたり、前がきをしたりするそうです。それらがサインとなって人間が駆けつけると、いきなり横に倒れ、破水して、子どもを外に出そうとするのです。お産は朝晩問わず、いつ何どき始まるか分からないものですが、「いつもと何も変わらないなあ」と皆口を揃えています。
晩御飯も終わり、僕たちは夜飼いに行くことにしました。夜飼いとは、夜に餌を与えに行くことです。3月に入って暖かくなってきたとはいえ、夜はさすがに凍えるほど寒く、僕の鼻は一気に炎症を起こして鼻づまりになりました。都会者は軟弱です。夜の馬房は静まり返っていて、慈さんがバケツに水を入れる音だけが響きます。僕はまずスパツィアーレのところに駆け寄りました。ずいぶんと眠そうなトロンとした目をしています。僕に顔をなすりつけてくる仕草を見せたりもして、それを見た慈さんが「少しお産が近い気配が出てきていますね。人間を頼るようになるのです」と言いました。気の強いところのあるスパツィアーレにしては、たしかに珍しい行動だなと思い、もしかすると今晩にもという期待が高まります。
それから、自然と足はダートムーア親娘のもとに向かいます。1か月ぶりの対面です。だいぶ大きくなっている気がしましたし、とねっ子は人懐っこい面があるようで、こちらが寄って行って額や首を撫でても嫌がる素振りを見せません。生まれた翌日はお母さんの後ろに隠れるようにして逃げ回っていた女の子が、人間に興味を持ち始め、それほど警戒心を抱いていない姿を見て、僕は安心しました。
「サラブレッドは人間がいないと生きていけない以上、人になつくことはプラス材料でしかありません」と慈さんは言います。気が悪くて、人間に反抗ばかりして、手に負えない馬でも走る馬は出てきますが、馬と人の長い付き合いを考えたとき、お互いの距離感は近いほうが良いし、信頼関係は大切だと思います。慈さんをはじめとした牧場の人たちが、たくさん触ったりして愛情を持って接してくれているからこそ、ダートムーアの娘も人に対して好意を抱いているのではないでしょうか。
僕の期待は外れ、夜の間に起こされることはなく、朝起きてカーテンを開けてみると、昨日と変わらないスパツィアーレの姿が見えました。のんびりと草を食んでいます。リミットはあと2日。焦っても仕方がないので、僕は自分の仕事に取り組みました。「馬体は語る2」の最終仕上げとして、素読みをして、写真の配置などを決めていきます。今年になって、ようやく重い腰を上げて出版に取り組みましたが、ようやく形になりそうなところまで持ってこられました。何もしない時期もあっても良いと思いますし、何かするぞと決めて動く時期も大切ですね。あと残り何冊の本をこの世に出せるか分かりませんが、1冊1冊、丁寧につくっていきたいものです。そういえば、「馬券は語る」を出したとき、「この本の印税は全て競走馬を買うことに使わせてもらいます」と帯に書いてしまったばかりにこの連載が始まって、まさか繁殖牝馬を購入して、こうして出産を待つことになるのですから人生は不思議ですね。
昼過ぎには下村獣医師もやってきて、慈さんと3人でご飯を食べました。お産の話から次の種付けの話まで、競馬の話は尽きることがありません。1頭のサラブレッドが生まれてきて、競走馬としてデビューして引退するまで、どれだけ多くの人たちが関わるかを考えるだけで、競馬は本当に奥が深いなあと思います。自分たちだけでは決して完結できませんし、人から人の手へと渡っていき、サラブレッドの人生も大きく変わってゆくのです。その最初の一歩を生産牧場は担っていて、その貴さに少しでも触れることができて幸せです。
下村獣医師と共に、放牧されているダートムーア親娘を見に行きました。改めてひと回り大きくなったと感じさせます。生まれた当時は55kgぐらいだとすると、もう70~80kgにはなっているのではないでしょうか。「生まれてから1か月後、それからまた3か月後にも来てみてもらうと、この時期のサラブレッドがどれだけ急激に成長するのか感じられるはずです」と慈さんは言います。肉体的にもそうですし、その馬の気性や性格が現れてくる時期でもあるので、動く姿を見ているだけで面白いです。ほぼ同じ時期に碧雲牧場で産まれたツキノサバクの仔はかなりヤンチャでお母さんの周りを飛び回っているのに対し、ダートムーアの仔は大人しく草を食べながら過ごしています。ダートムーアは立派なお母さんで、娘がお乳を飲んでいるときはずっと静かに立っていますし、優しく見守っているのが伝わってきます。
「手肢が長いのはお母さん似ですね」と下村獣医師は言いました。ニューイヤーズデイは低重心で馬体の幅が厚い、ずんぐりむっくりの馬体ですから、馬体全体のシルエットはダートムーアが出ています。ニューイヤーズデイの仔は意外と肢が長い馬も多いそうで、もしかすると母系の特徴を引き出すタイプの種牡馬なのかもしれません。ウインクスやゼニヤッタなどの名牝を出したストリートクライ系だけに、もしかすると牡馬ではなくて牝馬で良かったのかもしれないとも思います。目の前にいるこの女の子が、牡馬を倒していくつもG1レースを勝つシーンを想像するだけで、しばらく時間が止まってしまいます。
何も起こらないまま2日目の夜を迎え、今晩はジンギスカンを振る舞ってもらいました。ソウルフードのひとつであり、道民は漬け込んだラム肉を好むとのこと。ご馳走に舌鼓を打ちながら、WBC(ワールドベースボールクラシック)の試合をテレビで観つつ、その横に置いてあるモニターで何も様子が変わらないスパツィアーレの姿を観察します。「今晩もなさそうだね」という意見で皆一致しました。このあたりですでに、出産シーンに立ち会えずに手ぶらで帰るという、まさかの事態が現実のものとなる予感がしました。すでに生まれてしまっていることを危惧していたのに、このタイミングで来たにもかかわらずまだ生まれないで帰るとはどういう確率でしょうか。
実は明日は僕の誕生日なのです。僕が来るまで待ってくれたのではなく、もしかすると僕の誕生日に合わせて産んでくれるのかもしれません。自分と同じ誕生日の仔が目の前で生まれてきたら、縁を感じて、売れなくなってしまいそうです(笑)。もうここまで来たら、24時を超えて、明日になってから産んでくれることを願いつつ、僕は眠りに落ちました。
(次回へ続く→)