グレープブランデー 祝杯は、まだ遠くても

年の瀬を迎えたとある日、駅前の小さなイタリアンレストランは活気に満ちあふれていた。

白髪混じりで黒縁眼鏡、体型は少し痩せ型の初老の男に、若々しい新入社員が花束を送る。彼が着るスーツはしっかりとアイロンがかけられていて、綺麗すぎるネクタイも体に馴染んでいない。今日の気合いの入れ方が伝わってくるようだった。

僕は上司や同僚と一緒に、あるパーティーに招待されていた。数十名の仲間たちが彼を取り囲んでいる。そこには部長クラスの管理職もちらほら。長年現場で活躍し、人徳を集めてきたということなのだろう。係長という肩書きがもったいないくらいだ。

「いやー、昔、大きな病気をしなければなあ」と僕の部署の課長が続ける。

「何かあったんですか?」

「まあ、色々あってね。タイミングが合えば出世してたのだけどねえ。勿体ない、という感じがするね」

そこで話は途切れた。

楽しい会も終わりに近づいてきた頃、主役が僕らの席にやってきた。近くで見ると、年齢以上に若々しい。どちらかというと、課長が年上に見えるくらいだ。

「ナイトウさん、定年おめでとうございます!」

主役は微笑み、感謝の言葉を僕らに送った。

「物流の部署のみなさまにもお世話になりました。ささやかな会ではありますが、ぜひ楽しんで下さいね」

まずは課長とナイトウさんの二人だけで、話は盛り上がる。

「ナイトウさん、今日は呑んでる? 家に帰ったあともガバガバ呑まないでね!」

「いやいや、家で呑む量は大丈夫ですよ」

「ナイトウさんは晩酌するタイプですか?」と僕は話を振ってみた。

「そうだね、家では高価なお酒を、ゆっくり少しずつ楽しむ感じだね。こうやってみんなでワイワイもいいけれど、家で一人のお酒というのも、それはそれで楽しいものだよ」

「家呑み、良いねえ。料理も得意だから、つまみにも困らないね。で、家でもビールなの?」課長は続ける。

「家は違うね。何が多いかな……。あっ、この前、お祝いでブランデーを頂いたんだ。それを開けるのが楽しみになってきたね。でも、どのタイミングで開けようか迷っているんだ」

「もうお勤めも今月一杯だから、そのタイミングで良いんじゃない? あとは、クリスマスとか大晦日とか」

「いやあ、そのタイミングじゃないと思うんだよね。ちょっと違うというか……」


追い続けていた好きな競走馬が、GⅠレースを制する。競馬ファンにとって至福の瞬間だ。僕が初めてその状況に達したのが、グレープブランデーである。

4歳の夏から5歳の冬にかけてが、彼の最盛期だった。阿蘇ステークス、シリウスステークスで足がかりを掴み、年明け1月の東海ステークスで久々の重賞制覇。素質馬の完全復活まで、あと一歩のところまで近づいた。

迎えた第30回フェブラリーステークス。タイセイレジェンドが引っ張り、人気のカレンブラックヒルが続くタフなペーズでレースは突入する。直線に入り人気馬が大きく失速する最中、抜け出したのは古豪・エスポワールシチー。復活の勝利か! と思ったのもつかの間、それに迫ってきたのが、内でしっかり脚を溜め、徐々に外に持ち出して進路をこじ開けたゼッケン2の馬だった。

ジャパンダートダービー以来、約1年半振りのGⅠ制覇である。

この勝利で、グレープブランデーには明るい未来が待っている……そう思えたのは一瞬のことだった。レース後、再び骨折が判明。復帰まで半年以上要することになってしまった。

この怪我が、再び運命の歯車を狂わせることとなる。あの時のような、力強い走りが取り戻せないのだ。

陣営は、あの手この手で復活を目指した。

中距離で頭打ちならば、距離を縮めた。地方交流や海外のレースも厭わなかった。惜しいレースもあった。しかし、勝利は遠かった。

試行錯誤の中でも、変わらなかったことがある。府中ならば、我々の想定以上の結果を残せる。武蔵野ステークスや根岸ステークスで穴を開けた。2年前のフェブラリーステークスも、馬券圏内まであと一歩だった。そう、良い記憶のある府中ならば、もしかしたら……。

1月29日の第31回根岸ステークス。事実上のラストチャンス。でも、グレープブランデーは輝けなかった。

そして、レースの数日後、障害レースへの転向が伝えられた。

今年のフェブラリーステークスの特別登録に、名前は無かった。

「ナイトウさんが今、何やっているか知ってる?」

根岸ステークスでの落胆がなかなか醒めない、とある2月のお昼休み。弁当を食べている僕に、向かいの席に腰掛けていた課長が話しかけてきた。

「何かあったんですか? 悠々自適な生活を過ごしているんじゃ?」

「これはあくまでも噂なんだけどさ……。それがよ、お菓子の専門学校に春から通うことにしたんだって! で、いずれはチョコレートの専門店をやるつもりだと」

お菓子? チョコレート?

「いやー、確かに辛いのより甘党な人間だったし、ちょっと前に酔った勢いでパティシエになるとか言ってたけど……」

「……というか、ナイトウさんは何を目指してるのですか?」

課長は首を傾げて少し考え込んだあと、まくし立てた。

「うーん、確かに、ナイトウさんは甘いものが好きな人間ではあるんだけどねえ。でも、そういう風に転身するのは本当に意外というか、予想外なんだよね。真面目な性格なのは買うけど、大丈夫かなあ。パティシエのイメージも無いし、接客業のイメージも無いし、一国一城の主という感じでも無いし。趣味じゃなくて、何でこんな本気になるのかがわからんなあ。やっぱり会社にいた時に、何かやり残したことがあったのかなあ……」

新しい挑戦だと捉えたいけれど、どう考えても茨の道である。

周囲で見守るだけの人間は、時にそんな気分になってしまう。

でも、それは頑張る人たちにとって、余計なことなのかもしれない。

あのブランデーは、まだ栓を開けていないに違いない。祝杯はまだ遠くても、その時が訪れると信じる限り、きっと開けられることはない。

写真:和良拓馬

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