ホッコーメヴィウス~「メヴィ」の長い物語~

ホッコーメヴィウスのことを思い返す時、「メヴィ」と呼ばれ愛された同馬の輪郭が浮かび上がって、夏の暑さが少しだけ和らいだような気がした。

ホッコーメヴィウスは障害レースで活躍し、9歳まで現役を続けた。重賞は4勝。47戦という長い競走成績をたどっていくと、夏の重賞、新潟ジャンプSに5回も出走している。つまり、障害に転向してから5年間はずっと、酷暑のサマーシーズンを休まずに走り続けたということだ。加えて、平地で走っていた時期も、ホッコーメヴィウスが夏に休んだ時期はない。障害レースでは先頭に立つことが多く、前に出て、一生懸命走る鹿毛の姿に、多くの競馬ファンが心を動かされたものだ。

そんなホッコーメヴィウスは、人なつっこい性格で厩舎内のスタッフたちからかわいがられていたが、一生懸命走るがゆえに、レースでその気性をコントロールすることが難しい馬でもあった。だからだろうか、障害競走へ転向してからもはじめは上手にこなせなかったという。いちから障害を教えた当時の主戦、難波剛健騎手とともに障害練習を重ね、3戦目で待望の勝利を飾った。

それから2月から5月まで、ホッコーメヴィウスは毎月のように障害レースに出走した。OP入りしてからの主戦は黒岩悠騎手に変わって、5月22日の新潟で、障害OPを制覇。障害重賞に挑戦するレベルまで成長したホッコーメヴィウスは、新潟、東京、京都と飛び回り、翌年6歳の夏、2回目の出走となった新潟ジャンプSを勝利する。それは鞍上の黒岩騎手とともに、初重賞制覇となった。その年は阪神と京都でも障害重賞をつかみとったことからも、着実に力をつけて行ったのがわかる。

ただその後は勝ちきれず、翌年、栄光をつかんだ新潟ジャンプSで2連覇に挑むが、9着に終わってしまった。そして、転戦した小倉サマージャンプの6着を最後に、約2年半、ホッコーメヴィウスの相棒を務めた黒岩騎手とのコンビ解消が決まった。

そして2024年の夏、8歳になったホッコーメヴィウスの姿は、よたび新潟ジャンプSの舞台にあった。自身の力を証明するためにまた戻ってきたホッコーメヴィウスはゲートを勢いよく出ると、これまで新潟で走った姿を記憶しているかのように自信をもって先頭に立つ。最初の障害を力強く飛び越え、スピードに乗った。ハナは誰にも譲らなかった。

この年から、暑熱対策のため新潟ジャンプSは発走時刻をずらし、夕方16時50分の発走になっていた。

といっても日付は7月28日の夏真っ盛り。距離は芝3250mで、それを斤量60キロで走らなくてはならないのだから、楽なことなんてなにもない。

3つの連続障害を飛ぶ。まだあと1周。ゴールはまだまだ。それでも、ホッコーメヴィウスにはトレセンでいつもいつも練習し、汗を流した経験がある。簡単にはへこたれない。そして、4コーナーの先の最後の障害を飛んだら、もうゴールは見えている。

しかし最後の直線で、前年の覇者、1番人気馬サクセッションが強襲する。だが、ホッコーメヴィウスは飛越から流れるスピードそのままにゴールまでを駆け抜け、2回目となる新潟ジャンプSの勝利をつかんだ。

「メヴィ」にとっては久しぶりに見るウィナーズサークルの景色。まだデビュー3年目の小牧加矢太騎手にとっては、これが重賞初勝利。小牧加騎手はインタビューで「馬に勝たせてもらった」と汗をぬぐいながら「メヴィ」を称えた。

その後は勝利には恵まれず、中間、怪我もしたホッコーメヴィウスは、翌年、5度目の出走となった新潟ジャンプSがラストランとなった。その背に乗っていたのは、彼に初めて障害の飛び方を教えてくれた難波騎手だった。

2026年からはもう、新潟ジャンプSでホッコーメヴィウスの姿を見ることはできない。しかし毎年、このレースで真夏に夢を届けてくれる馬たちが健康であり、無事に完走できることを心から願う。

厩舎からの旅立ちの日は難波騎手をはじめとする歴代の騎手たち、助手が集い、「メヴィ」をねぎらった。引退後は関西大学で乗馬となり、学生たちの馬術の相棒として活躍しているという。

ホッコーメヴィウスが厩舎を去る時、その場は柔らかい雰囲気に包まれていた。そこで黒岩騎手は、「名前が変わっても『メヴィ』の部分は残してくれたらいいな」と記者に語っていたという。
こうして、多くの人々から温かく見送られて、ホッコーメヴィウスの競走馬としての物語は終わりを告げた。

翌年、馬術大会の記録には、「ホッコーメヴィウス」という名前が残されていた。

写真:かずーみ

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