![[菊花賞]ディープインパクト、コントレイル、ミホノブルボン。春二冠を制して菊花賞に挑んだ名馬たち](https://uma-furi.com/wp-content/uploads/2024/05/FH000020.jpg)
菊花賞でクラシック三冠制覇に挑むロブチェン。偉業が達成されれば、2代父ディープインパクトにとって孫世代初の三冠馬で、ロブチェンの父ワールドプレミアとともに父仔三代の菊花賞制覇となる。また、鞍上の松山弘平騎手と管理する杉山晴紀調教師は、2020年にデアリングタクトで牝馬三冠を成し遂げている。過去に牡・牝馬それぞれで三冠を達成した騎手と調教師はおらず、達成されれば史上初。それ以外にも、今回の菊花賞は様々な記録が懸かる。
菊花賞86回の歴史を紐解くと、三冠を達成した馬と、惜しくも夢破れた馬はそれぞれ8頭(菊花賞不出走馬は除く)ずつだった。二冠達成だけでも十分に偉業といえるが、3000mを走る間に坂を二度も越えなければならないこのコースは、想像以上に過酷な条件。春二冠と条件は大きく異なり、「最も強い馬が勝つ」レースといわれるのも納得のいくところである。
今回は、春二冠を制して菊花賞に挑んだ名馬たちを振り返りたい。
■2005年 ディープインパクト

日本の競馬を根底から変えたといわれる大種牡馬サンデーサイレンス。同馬がこの世を去った2002年に誕生したディープインパクトは、栗東・池江泰郎厩舎からデビューを果たした。
初戦は12月阪神・芝2000mの新馬戦で、後の重賞勝ち馬コンゴウリキシオーに4馬身差をつける完勝だった。ちなみに、このときマークした上がり3ハロン33.1秒は、芝2000mの2歳戦における当時の最速タイム。ただ、ディープインパクトの名を一躍全国に轟かせたのは、2戦目の若駒Sだろう。
年明け初戦のこのレースで、逃げるテイエムヒットベから一時は30馬身以上、直線入り口でも10馬身ほど離れた位置を追走していたディープインパクトは直線、一気に加速。凄まじい末脚を繰り出し残り100mで先頭に立つと、そこから2着ケイアイヘネシーを逆に4馬身も突き放し、瞬く間にクラシックの筆頭候補となった。
その後、弥生賞で重賞初制覇を成し遂げたディープインパクトは、続く皐月賞で落馬寸前の出遅れを喫しながらも、終わってみれば2着に2.1/2馬身差をつける完勝。さらにダービーは5馬身差で圧勝し、二冠を達成した。このあたりからディープインパクトは競馬の枠を超えた国民的スターホースとして認知されはじめ、その人気はやがて社会現象となった。
そして、秋初戦の神戸新聞杯も完勝して臨んだのが菊花賞だった。
このレースで単勝オッズ1.0倍、同支持率79.03%と、あたかも三冠達成が既成事実であるかのように1番人気となったディープインパクトは、これまでのソロっとしたスタートとは一転、きれいなスタート。そこからスッと下げ、中団8番手につけた。
ところが、そのすぐあとの坂の下りで異変が起きた。デビュー以来、実戦で折り合いを欠くことがほとんどなかったディープインパクトが、いきたがるそぶりを見せたのである。ゴール板が視界に入り、スパートしなければならないと勘違いしたのが原因だった。
そこで、鞍上の武豊騎手はホームストレッチに入ると、ディープインパクトを内ラチ沿い、馬群の中へ誘導。ポケットに入ることに成功した。すると、ディープインパクトも状況を理解したか、徐々に落ち着きを取り戻し、スタート直後とほぼ変わらない7番手に位置。その後は末脚を温存して2度目の4コーナーでようやく仕掛け、前との差を7馬身まで詰めたところで直線を迎えた。
直線に入るとすぐ、弥生賞でも接戦を演じた良血馬アドマイヤジャパンと「策士」横山典弘騎手のコンビがシャドウゲイトを交わし、先頭に躍り出た。ディープインパクトがこれを追い、残り300mでまだ5馬身近い差はあったものの、そこからもう一段加速するとあっという間に2頭の差は縮まり、残り100mでついに先頭。最後は2馬身突き抜け、栄光のゴールへと飛び込んだ。史上6頭目のクラシック三冠達成は、シンボリルドルフ以来21年ぶりとなる無敗での偉業達成だった。
ゴール後、1、2コーナー中間で武豊騎手と横山典騎手は健闘を称えあうように馬上でタッチ。すると、13万人を超える大観衆から期せずして「ユタカ」コールと「ディープ」コールが沸き起こった。道中ヒヤッとする場面はあったものの、史上最も確実視された三冠達成はこうして成し遂げられた。
その後、ディープインパクトは有馬記念でハーツクライの2着に敗れ初黒星を喫したものの、年度代表馬のタイトルを獲得。翌春は、阪神大賞典から天皇賞、宝塚記念まで3連勝を達成した。
ところが、日本競馬の悲願を叶えるべく出走した凱旋門賞は3着に敗戦。レース後には、体内から禁止薬物が検出(レースの10日から6日前に風邪薬として服用した薬品がなんらかの理由でレース後も体内に残り、それが検出された)され、失格となってしまった。
それでも、帰国初戦のジャパンCと引退レースの有馬記念を勝利し、当時としては最多タイとなる芝のGⅠ7勝と、2年連続で年度代表馬のタイトルを獲得。種牡馬となってからも数々の記録を塗り替え続け、世界的名馬の地位を確固たるものとした。
■2020年 コントレイル

ディープインパクト産駒で、2代母が米国2歳牝馬チャンピオンの良血コントレイルは、栗東の名門、矢作芳人厩舎からデビューを果たした。ただ、トレセンに入厩するまでの道のりは決して順調ではなかった。1歳12月に球節炎を発症し、およそ半年間も人を乗せた調教ができなかったのである。
それでも調教を再開すると、これまで順調に来ていた組とほぼ同等の体力レベルにあることがわかり、夏にはトレセンへ入厩。9月15日におこなわれた阪神・芝1800mの新馬戦でデビューを迎えると、2着に2.1/2馬身差をつけて勝利した。ただ、コントレイルの名が一躍全国に轟いたのは父と同じデビュー2戦目、重賞の東京スポーツ杯2歳Sだった。
初戦でコンビを組んだ福永祐一騎手がラインベックに騎乗するため、R.ムーア騎手を鞍上に迎えたコントレイルはレース前の輪乗りで暴れ、ムーア騎手を振り落としてしまう。この際、ムーア騎手は肩を強打したものの、いざレースが始まるとコントレイルの独壇場。直線だけで後続をグングン引き離すと、2着アルジャンナに5馬身差をつける圧勝を演じた。驚くべきは勝ち時計の1分44秒5で、2歳馬がマークしたとは信じられないようなスーパーレコードだった。
この勝利により、クラシックの筆頭候補に躍り出たコントレイルは、福永騎手と再びコンビを組んだホープフルSでGⅠ初制覇。さらに、それ以来の実戦となった皐月賞では、同じく2歳GⅠから直行してきたサリオスとの一騎打ちを制し、ダービーでは同馬を3馬身も突き放す完勝で二冠を達成した。そして、秋初戦の神戸新聞杯もほぼ追われることなく楽勝し、連勝を6まで伸ばして臨んだのが菊花賞だった。
このレースで、単勝オッズ1.1倍と圧倒的な支持を集めたコントレイルは、ガロアクリークとともに好スタート。そこからスッと下げ、好位6番手を確保した。一方、前はキメラヴェリテがハナを切り、最初の1000mを62.2秒で通過。この秋の京都開催は道悪でおこなわれることが多く、これでもミドルペースで、ホームストレッチでは全馬が内の4、5頭分を空けて追走していた。
その後もレースは淡々と流れ、2周目の坂上で、3番手以下の各馬の差が凝縮。16頭が10馬身ほどの圏内に固まった。さらに、坂の下りでこれら16頭と前2頭の差が縮まり、続く4コーナーでバビットがキメラヴェリテを交わして単独先頭に立ち、コントレイルもポジョションを2つあげるなか直線を迎えた。
直線に入るとすぐ、福永騎手がいわゆる「持ったまま」の状態でコントレイルが先頭に躍り出たものの、道中これを徹底マークしていたアリストテレスとC.ルメール騎手のコンビが外から強襲。そこからデッドヒートの幕が開いた。
ルメール騎手の左鞭に応えるようにアリストテレスがクビ差まで迫るも、福永騎手の右鞭に鼓舞されたコントレイルは、ライバルが前に出ることを決して許さない。そんな熱く、激しい、それでいて息をのむような叩き合いが300mほど続いた。それでも、このクビ差が逆転することは最後までなく、京都競馬場に集まった1018人の拍手に迎えられるようにコントレイルが先頭ゴールイン。コロナ禍で暗い話題が続く日本列島を勇気づけるような勝利だった。
父娘による三冠制覇は、同じディープインパクト産駒のジェンティルドンナが2012年に成し遂げていたものの、父仔クラシック三冠はこれが初めて。また、父仔無敗三冠は世界でも類を見ない大偉業で、デアリングタクトに続き無敗三冠馬が2週連続で誕生したことも史上初の快挙という、記録づくめの勝利となった。
その後、ジャパンCでアーモンドアイやデアリングタクトとの三冠馬対決に臨んだコントレイルは、アーモンドアイの2着に惜敗。デビューからの連勝は7でストップした。さらに、4歳初戦の大阪杯は雨に泣き3着に敗れると、それ以来およそ半年ぶりの実戦となった天皇賞(秋)でもエフフォーリアの2着に敗れるなど、勝ちきれないレースが続いた。それでも、引退レースのジャパンCを2馬身差で完勝。三冠馬の意地と威厳を見せつけ、有終の美を飾った。
レース後の勝利騎手インタビューで「この馬なにが凄いって、3000mを走れる馬ではないんです。今までの三冠馬とは違って。調教次第では1200mも走れるくらいの馬なんです」と、菊花賞が、コントレイルの適距離からは程遠い条件であったことを明かした福永騎手。それでも、凄まじい勝負根性でアリストテレスの追撃を凌ぎ続けた結果、無敗三冠を達成したことにはいっそう価値があり、300mにもおよぶあの息詰まるような叩き合いは、まごうことなき名勝負だった。
こうして、引退レースを勝利で飾ったコントレイルは、社台スタリオンステーションで種牡馬入り。25年に初年度産駒がデビューした。26年10月23日時点でGⅠウイナーは誕生していないものの、菊花賞には3頭の産駒が出走を予定。いずれ劣らぬ有力馬で、ロブチェンの快挙を阻む馬がこの中から出てきても、なんら不思議ではない。
■1992年 ミホノブルボン

改めて言うまでもないことだが、春二冠を制した馬が必ずしも菊花賞で三冠を達成できるとは限らない。トウカイテイオーやドゥラメンテのように、ケガなどの理由で菊花賞に出走すら叶わなかった馬もいた。そういった馬を除けば、冒頭で触れたとおり、菊花賞で三冠を達成した馬と夢破れた馬はちょうど8頭ずつ。そんな夢破れた二冠馬のなかで、グレード制導入後、最も三冠達成に近づいたのがミホノブルボンである。
マグニテュード産駒で、血統面からマイル以下が主戦場になると思われていたミホノブルボンの運命は、栗東・戸山為夫調教師の管理馬となったことで大きく変わった。ハードトレーニングでビシバシ鍛えることを信条とし、栗東トレセンに坂路コースが完成した際も、いち早く着目、活用していた戸山師。当時と現在では坂路の距離が異なるため単純比較はできないものの、入厩当初から1日3、4本駆け上がっていたミホノブルボンはメキメキと力をつけ、デビュー前には古馬オープン馬と遜色ないタイムをマークしていた。
そんなミホノブルボンの初戦は、9月中京・芝1000mの新馬戦だった。しかし、スタート直後に前をカットされ後方に下げざるを得ないという、1000m戦では致命的ともいえるような不利を受けてしまう。それでも懸命に挽回を図ると、上がり3ハロン33.1秒の驚異的な末脚を繰り出し追い込み勝ち。初陣を飾った。
その後、ソエを発症したことで2ヶ月半の間隔を開けざるをえなかったものの、2戦目の500万下(現1勝クラス)は、持ち前のスピードをいかんなく発揮する先行策で2着に6馬身差をつけ圧勝。さらに、中1週で臨んだ朝日杯3歳Sも連勝し、鞍上の小島貞博騎手とともにGⅠ初制覇を成し遂げた。
そして、馬の気分を尊重させるため、逃げるようになった翌3歳(現馬齢表記)シーズンからミホノブルボンの走りはいよいよ凄みを増した。初戦のスプリングSを7馬身差で圧勝すると、皐月賞は2着に2.1/2馬身差、ダービーに至っては4馬身差をつけて逃げ切り二冠達成。さらに、秋初戦の京都新聞杯もコースレコードで制してデビュー7連勝とし、シンボリルドルフ以来8年ぶり史上2頭目の無敗三冠馬となるべく臨んだのが菊花賞だった。
これまで以上に距離不安が囁かれていたとはいえ、単勝オッズ1.5倍と断然の支持を集めたミホノブルボンは、好スタート好ダッシュを決めた。しかし、なにがなんでも逃げたいキョウエイボーガンが外から交わしていくとハナを譲り、2番手につけた。ただ、2番手からレースを進めるのはおよそ1年ぶり。そのせいか、それとも有り余るスピードを抑えきれないのか、ミホノブルボンは1000mを59.7秒とやや速いペースで通過したキョウエイボーガンを追いかけるように、同馬の2馬身後方につけた。
一方、ダービーの4馬身差2着をはじめ、過去4度の対戦すべてでミホノブルボンに敗れながらも、血統面などから長距離適性があると推測されていた2番人気ライスシャワーは、先頭から15馬身ほど離れた5番手を追走。折り合いを欠くことなく末脚を温存し、好位で機を窺っていた。
レースが動いたのは2周目の坂の上りで、中団以下の各馬が追い上げを開始すると、30馬身を超えるほど縦長だった隊列は徐々に凝縮。坂の下りでさらに差は縮まり、続く4コーナーでミホノブルボンがキョウエイボーガンを交わして先頭に立つなか直線を迎えた。
直線に入ると、逃げ込みを図ったミホノブルボンが2馬身のリードを取り、無敗三冠がさらに現実味を帯びはじめた。追ってきたのはライスシャワーとマチカネタンホイザで、じりじりとミホノブルボンとの差は詰まり最後は我慢比べとなるなか、この争いから抜け出したのはライスシャワーだった。
これまでの鬱憤を晴らすように残り100mを切ったところで先頭に立つと、最後は1.1/4馬身差をつけ1着ゴールイン。勝ち時計3分5秒0は、従来のタイムを0.4秒更新するコースレコードだった。
一方、ミホノブルボンもマチカネタンホイザに一度は交わされたものの、驚異的な差し返しで2着を死守。史上2頭目の大偉業達成はあとわずかのところで叶わなかったが、「負けて強し」という言葉がこれ以上なく当てはまるような、素晴らしい内容だった。
ところが、ミホノブルボンにとってこの菊花賞が最後のレースとなってしまった。ジャパンCを目指す過程で跛行し回避を余儀なくされると、この年の年度代表馬にこそ選ばれたものの、翌シーズンも骨折など故障に悩まされ、5月には管理する戸山調教師が病気のためこの世を去った。そして、菊花賞から1年2か月が経った1994年1月。ミホノブルボンの引退と種牡馬入りが発表された。
JRAの重賞ウイナーを送り出すことはできなかったものの、ミヤシロブルボンを筆頭に地方の重賞ウイナーを複数輩出したミホノブルボンは、17年2月に老衰で亡くなった。競走馬としての実働はわずか1年2か月であったものの、それとは対照的に28歳の馬生を立派に生き抜いた。
引退から30年以上。調教で鍛えられて強くなった馬の代表格として、今なおキタサンブラックとともに必ず名前があがり「坂路の申し子」とも呼ばれたミホノブルボン。惜しくも三冠達成はならず、ライスシャワーとの再戦や、トウカイテイオー、メジロマックイーンとの夢の対決は実現しなかったものの、戸山調教師にとって最後で最高の傑作となったミホノブルボンを最強馬に推す声は少なくない。
写真:しんや、かず、I.Natsume
