私はリバーセキトバの現役時代を知らない。それでも、大好きな馬の一頭だ。第1回黒船賞の映像を見た時の感動、雷に打たれたような感じというのは、現在に至るまでなかなか味わえない感覚だった。
1995年に中央・地方の交流が強化され、1997年からはダートグレード競走としてさらなる対戦の場が確立されていく。高知競馬にも交流化の波は押し寄せ、黒船賞が新設された。
そんな時代において、誇り高き中央馬と、強力な他地区の馬を、地元の意地で跳ね返したリバーセキトバの姿は、ダートグレード競走の魅力そのものだと思う。
たどり着いた南国、高知競馬。
リバーセキトバは父マルゼンスター、母サンコートクイーン、母の父イングリッシュプリンスという血統。
父のマルゼンスターは、スーパーカーの異名で鳴らしたマルゼンスキーの直仔で、現役時代は岩手→東海→南関東→東海→中央→北関東と渡り歩き、60戦近くを戦った。主にダートで活躍したが、1985年の天皇賞(春)にも出走。実にタフな戦績だ。父と同様、息子であるリバーセキトバも様々な競馬場を渡り歩くことになる。
1992年12月に中山競馬でデビューを迎えたリバーセキトバは、初戦でブービーの15着に大敗。続く2戦目も二桁着順だったが、4戦目に待望の初勝利を挙げる。その後もコンスタントに勝ち星を挙げるものの、1年に1勝ペースといった感じで、重賞には手が届かず。数多いる、素質を感じさせつつも開花までには至らないダート馬の一頭に過ぎなかった。
1996年の春からは南関東に本拠地を移したが重賞では2着止まり。上位入線はしても、1着馬からは決定的な着差を付けられてのものだった。結局、1997年の夏前には高知競馬へ移籍。だが当地でも重賞で3着、2着、8着……気づけば、70戦近くして重賞未勝利。これでは人気に推されるはずもなく、1998年3月に行われた第1回黒船賞は9番人気・単勝61.5倍の超人気薄で迎えた。
大一番で見せた、魂の走り。
重賞3勝のストーンステッパーが1番人気に推され、以下、東海のトミケンライデン、GI好走歴もあったフジノマッケンオーなど。同じ高知所属では元JRAのOP馬マルカイッキュウのほうが人気を集め、リバーセキトバは隠れた存在だった。
ゲートが開くとトミケンライデンが勢いよく飛びだしていくが、リッコージョオー、ヨシノキング、マルカイッキュウなども先行争いに加わり、横に大きく広がったまま1コーナーに入っていく。最終的にドージマムテキが半ば強引にハナを奪うが、明らかにハイペース。
しかも向正面でも隊列が落ち着かず、フジノマッケンオーが早めに仕掛けていった。
こうなると後方に控えたリバーセキトバにとってはお誂え向きの展開。
勝負どころで軽く促され、飛ぶように前との差を詰めていく。先行馬の脚色が鈍っているところを一気にまくりきると、直線はまさに独走。
北野真弘騎手が3〜4完歩も手前から、立ち上がってガッツポーズするほどの大楽勝であった。これまで70戦近くを戦い、勝負弱い印象があった馬が一変。しかも苦労して創設したビッグレースで、格上のJRA所属馬を完璧に封じたのだから、関係者の喜びもさぞかし大きかったことだろう。
その後のリバーセキトバは珊瑚冠賞を勝つなど12歳まで現役を続け、25歳の時に世を去った。高知競馬も一時は廃止の危機に直面しリバーセキトバの栄光も過去のものになろうとしていたが、懸命の努力によってV字回復。競走馬のレベルも格段に上がり、全国区の馬を多数送り出すまでになった。
高知競馬ファンにとって楽しみのひとつが、次なるスターホースの出現。そろそろ、第二のセキトバが現れないだろうか──。
写真:齋藤美香