日本時間2021年11月7日午前7時55分。
日本の朝がラヴズオンリーユーと川田将雅騎手が成し遂げた壮挙の余韻に浸る中、私は一人焦っていた。
それまで快適に視聴できていたブリーダーズカップ公式サイト上のライブ動画が、急にカクつき始めたのだ。
マルシュロレーヌの勇気ある挑戦を、追いかけ続けたステイゴールドの血が見せてくれる夢の続きを、どんな結果になっても最後まで見届けようという覚悟を決めていたその時になって、スマホの画面上はブロックノイズで埋め尽くされてしまった。
ネットがおかしくなったか?
確認のため、もう1台のスマホで他の動画サイトを再生してみたが何の引っ掛かりもない。
わが家のインターネット環境は2年半前に切り替えた光回線で、今までネット上で見ていた動画が途中で止まることなどなかった。
ひょっとしてグリーンチャンネルでブリーダーズカップディスタフの生中継がないことを知った日本のファンから、公式サイトにアクセスが殺到してサーバーがスローダウンしたのか?
サイト側の問題だとしたら、ユーザー側には何の手立てもない。
だとしたらどうすれば?
発走5分前。私は脳内で必死に代替手段を検索し始めた。
──あ、ラジオが聞けるアプリって、なかったっけ?
ダメだ。インストールしていない……。これからダウンロードしてユーザー登録して、ってやってるうちにレースが終わってしまう……。
──短波ラジオは? ステイゴールドのドバイはそれで聞いたじゃないか……!
いや、それは20年前の話だ。とうの昔に捨てちまった……。
自問自答しているうちに、時刻は8時を回ろうとしていた。こうなればもうすべての望みを公式サイトに託すしかない。祈るしかない。
画面上ではすでにブリーダーズカップ・ディスタフのゲート入りが始まっていた。画質はだいぶ荒いが、何とか動画の体を保っていた。
出走11頭中前走GⅠ勝ちが4頭。GⅠ2着が2頭。GⅡ勝ちが2頭、GⅡ2着、GⅢ勝ちがそれぞれ1頭。
アメリカ競馬のダート牝馬路線の1年を締め括る最高峰の競走でその年のアメリカの最強女王決定戦の位置付け
──フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』ブリーダーズカップ・ディスタフの項目より
Wikipediaの説明そのままのメンバーが、次々とゲートに入っていく。レーシングポスト紙のレーティング(RPR)は、5連勝中(うちGⅠ4勝)の圧倒的1番人気レトルースカとデビュー4連勝中の3歳上がり馬プライベートミッションがトップの「118」。続いて2番人気のマラサートが「117」で続く。
出走11頭中レーティング10番目のアルゼンチンからの移籍馬ブルーストライプで「108」を与えられていたのに対し、最下位マルシュロレーヌは100にも届かない「99」。国際格付のない「JpnⅢ」からの転戦ということを鑑みれば、仕方なかった。
全馬、ゲートに入った。
家族はまだ寝ている。私は自室の寝床で息をひそめてスマホを見つめる。
ゲートが空いた。
"They are off!"
牝馬ダート頂上決戦の開幕を、実況が告げた。マルシュロレーヌはゲートを出た後若干外に膨れた。次の瞬間、画面が止まった。
私は頭を抱えた。そして祈った。
頼む、挑戦の行く末を、見届けさせてくれ…。
"fourty four!! point nine seven! What a blazing half mile of the back stretch!!"
祈りが通じたのか、画面が再び動き始めた。レースは向こう正面、実況が半マイル45秒を切る「火の出るような」ハイペースであることを告げたところだった。
超ハイペースだ。これまでか。
前日のジュヴェナイル。ハイペースの中後方の位置取りを強いられたジャスパーグレイトはその位置を上げることができないままゴールした。
2時間半前に行われたダートマイル。ディスタフと同じ半マイル45秒を切るペースを好位から追いかけていったピンシャンとジャスパープリンスは3コーナー、ほぼ同時に糸が切れたように後退していった。
私はマルシュロレーヌを探した。彼女は後方3番手にいた。しかも先頭2番手をひた走るのはRPRトップタイ、レトルースカとプライベートミッションの2頭だ。
「ああ、ジャスパーグレイトのパターンか。このペースに何とかついて行って、最後の直線で何頭かでも抜いてくれれば……」
これが3コーナー手前時点での私の正直な気持ちだった。
次の瞬間、私は目を疑った。
後方3番手にいたマルシュロレーヌが、「スーッ」と前に進出しているのだ。
父オルフェーヴルやその兄ドリームジャーニーのように「ギュイィィン」と唸りを上げるのではない。
同じステイゴールド系の超個性派ゴールドシップのように「ドドドド」と押し寄せるでもない。
鞍上オイシン・マーフィー騎手の手もそれほどせわしなく動いていない。
馬群の内から外にその身を持ち出したマルシュロレーヌは3,4コーナーを文字通り「スーーーッ」と上がっていった……ように、私には見えた。
気が付けばレトルースカをかわし切り、マルシュロレーヌは、4コーナー、先頭に立っていた。
……先頭に、立っていた。
6頭雁行状態のど真ん中、扇の要の如く力強く抜け出し切ったのは、ゼッケン番号10番、マルシュロレーヌに間違いない!
残り1ハロンだ。
”Marche Lorraine is trying for the Giant Upset!!"
「マルシュロレーヌがとんでもない大番狂わせを演じようとしている!」実況が驚きを隠せない様子でマルシュロレーヌにクローズアップする。
「行け! オイシン! 粘れ!」
声帯を震わせないギリギリの線で、私はマルシュロレーヌを応援していた。
残り100。内から前走レトルースカの2着だったダンバーロードと2番人気のマサラート、さらに外からは4番人気のクレリエールが追いすがる。
最後は粘るマルシュロレーヌと追うダンバーロードが全く鼻面を合わせたところがゴール板だった。
"Oooooh!! definitely close!!!!"
実況が「まったく並んでゴールイン!」と告げた瞬間、私のスマホの画面は、再び静止した。
私の息も、止まった。
再び映像が動き始めるまでの数十秒、私は祈り続けるしかなかった。祈り続けると同時に、SNSを覗き込んだ。
タイムラインは最初「勝った???」で埋め尽くされ、その「?」がすぐに「!」に置き換わっていった。
おもむろに動き始めた公式サイトの動画では、オイシン・マーフィー騎手が馬上でインタビューを受けていた。
「UNOFFICIAL」だった着順表示が「OFFICIAL」に変わった。何度目をこすって見直しても、一番上には「Marche Lorraine」の名があった。
マルシュロレーヌ、いや、「Marche Lorraine」が、日本馬として、本場アメリカのダートGⅠ、しかも牝馬最高峰のブリーダーズカップ・ディスタフを制した瞬間だった。
それから時間がかなり流れた、この記事を書いている今でも、私の両眼は充血し、心臓は普段より速く拍動している。単なる一競馬ファンでもこうなんだから、より深く競馬にかかわっている方々は、もう大変なのではないだろうか。
三冠馬オルフェーヴルの娘であり、日本産日本調教馬として初めて海外GⅠを制したステイゴールドの孫であり、親子三代天皇賞制覇を成し遂げたメジロマックイーンの曾孫であり、快速の桜花賞馬にして2度のダートGⅠ2着も光るキョウエイマーチの孫であり、7代母クインナルビーに遡れば、笠松のダートから中央のターフに羽ばたいた不世出のアイドルホースオグリキャップにも通じるマルシュロレーヌ。
日本国内で脈々と受け継がれてきた血が、陣営の鍛錬と進取の精神によってアメリカで開花のチャンスをもたらされ、ヨーロッパのトップジョッキーの手で持てる力を出し切って頂点に立った。
奇跡かもしれないが、偶然ではない。
未来の競馬は、僕たちにどんな新たな驚きをもたらしてくれるのだろうか。想像は尽きない。
きっと、いくら荒唐無稽な想像をしても、それをはるかに上回る驚きと興奮を、明日の競馬は僕たちに見せてくれるんだろう。
ありがとう、Marche Lorraine。
写真:Breeders’ Cup