
1.「クレオパトラの鼻」
「クレオパトラの鼻がもう少し低かったら、世界の歴史も変わっていたであろう」とは、哲学者ブレーズ・パスカルの言。歴史の転換は些細な事象によって起こるものだ、という警句だが、小説家の芥川龍之介はこの説に対して次のような反論を行っている。
クレオパトラの鼻が曲っていたとすれば、世界の歴史はその為に一変していたかも知れないとは名高いパスカルの警句である。しかし恋人と云うものは滅多に実相を見るものではない。いや、我我の自己欺瞞は一たび恋愛に陥ったが最後、最も完全に行われるのである。
──芥川龍之介『侏儒の言葉』より引用
アントニイもそう云う例に洩れず、クレオパトラの鼻が曲っていたとすれば、努めてそれを見まいとしたであろう。又見ずにはいられない場合もその短所を補うべき何か他の長所を探したであろう。何か他の長所と云えば、天下に我我の恋人位、無数の長所を具えた女性は一人もいないのに相違ない。アントニイもきっと我我同様、クレオパトラの眼とか唇とかに、あり余る償いを見出したであろう。
(中略)
つまり二千余年の歴史は眇たる一クレオパトラの鼻の如何に依ったのではない。寧ろ地上に遍満した我我の愚昧に依ったのである。哂うべき、──しかし壮厳な我我の愚昧に依ったのである。
つまり、クレオパトラの容貌それ自体ではなく、「実相」である短所を見ずに長所を見ようとする欺瞞をもたらす人間の「愚昧」こそが、歴史を動かす本質なのだ…というのが芥川の説である。
2.見落とされた才能
人間の先入観は時に判断を曇らせる。芥川が挙げたのは長所だけを見てしまった例であるが、逆に短所に注目したばかりに「実相」を見落とすことも多々あるだろう。
「アメリフローラは未出走で、膝の構造に難があり、競走馬として成功するとは思えませんでした。血統は素晴らしかったのですが、自己所有馬にする確信が持てませんでした」と経緯を話す。その不確かさもあって、グラスワンダーをキーンランドのセールに出すというビジネス上の判断を下したのだという。
──デイヴィッド・モーガン「「ケンタッキーから日本の英雄へ」グラスワンダー、国を越えた伝説の原点を探る」(『Idol Horse』2025年8月26日)より引用
こちらは、ダービーダンファームのオーナー、ジョン・フィリップス氏の言である。未出走のアメリフローラを母に持つシルヴァーホーク産駒に対し、フィリップスオーナーは自己所有馬として走らせるという判断を躊躇した。
結果として1996年のキーンランドセールに出されたこの馬を尾形充弘調教師が見初めて落札。グラスワンダーは日本にやって来ることになる。牧場経営において可能な限りリスクを避けようとする考え方は重要であろう。しかし、フィリップスオーナーが「競走馬としての実績は無くとも自分の配合は名馬を生んだはずだ」と考えていたなら、「不死鳥」と呼ばれたグラスワンダーの才能が日本で開花することは無かった。
「実相」を見抜くことはかくも難しいと思い知らされる。

3.名伯楽の決断
グラスワンダーは尾形調教師のもとでグランプリ3連覇を果たすなど素晴らしい実績を残して種牡馬入り。その3世代目の産駒がスクリーンヒーローである。このスクリーンヒーローの場合は「実相」を見抜くことに長けた調教師と出会ったことが馬生を大きく変えた。
スクリーンヒーローを管理したのは矢野進調教師。「皇帝」シンボリルドルフに土をつけた天皇賞馬ギャロップダイナや、スプリンターズステークス(当時はGⅡ)や毎日王冠を制した女傑ダイナアクトレスなどを育てた美浦の名伯楽である。スクリーンヒーローはダイナアクトレスの孫に当たり、厩舎ゆかりの血統でもあった。
スクリーンヒーローがデビューしたのは2006年の11月。年明けのダート未勝利戦で勝ち上がると、芝重賞でも堅実に走り、セントライト記念3着で菊花賞への優先出走権を手に入れる。ところがこの後左前脚の剥離骨折が判明。ただし症状としてはレースに使うこと自体は可能な程度であった。矢野調教師は2008年に定年を迎えるため、最後の菊花賞となる。クラシック未勝利の矢野調教師にとってのラストチャンス。しかし名伯楽は目先のレースを取りに行こうとはしなかった。
「菊は断念する。私は定年になるが、この馬には将来がある。無理しなければ、この馬は必ず大成する。そういう血統なんだ」
──「【追憶のジャパンC】08年スクリーンヒーロー 自分の名誉より馬の将来 2人の伯楽がたぐり寄せた頂」(『スポニチ競馬Web』2023年11月22日)より引用
矢野調教師はスクリーンヒーローが持つ将来性を見抜いていた。そして、無理に使わず休ませることを決断したのである。鹿戸雄一調教師に引き継がれたスクリーンヒーローはアルゼンチン共和国杯を制した勢いそのままにジャパンカップを制してGⅠ馬に。2008年の競走馬レーティングでは日本馬1位の座に輝き、その実績をもって種牡馬入りした。欺瞞にとらわれず「実相」を見た名伯楽の判断が、その後の飛躍に繋がった。
もし仮に、矢野調教師が菊花賞出走を強行していたら、この馬の未来は大きく変わっていただろう。

4.転厩が生んだマイル王
グラスワンダーもスクリーンヒーローも、出逢った人の「実相を見抜く力」が大きく馬生に関わっていた。スクリーンヒーローの初年度産駒・モーリスにもその「血の運命」が働いていたように思われる。母メジロフランシスはメジロ牧場の解散に伴い、戸川牧場が引き継いだ繁殖牝馬。この馬の曾祖母・メジロボサツについては以前コラムを書いたことがあるが(「禍福は糾える縄の如し - メジロボサツとメジロドーベル」『ウマフリ』)、幼い頃に父母を亡くし、寺山修司に「孤児馬」と呼ばれた数奇な運命を持った馬だった。
サラブレッドの血が繋がることの尊さを感じさせる血統を持ったモーリスだが、吉田直弘厩舎でデビューした当初は目覚ましい活躍を見せたわけではない。2歳のセリであるトレーニングセールで落札され、新馬戦ではレコード勝利と来れば、早期の活躍を期待したくなるもの。だが、万両賞でオープン入りを果たしたあとは連敗が続き、3歳春のGⅠへの出走は叶わなかった。
ここで心機一転を図るべく転厩が決定。選ばれたのは、キンシャサノキセキやリアルインパクトなど、数々の名馬を管理してきた美浦のトップステーブル・堀宣行厩舎であった。堀調教師は、先入観を捨ててモーリスの「実相」と向き合った決断をした。レースに使わず、馬のケアを最優先にしたのである。
「トレーニングセール出身で若い頃に無理しているのでしょう。(昨秋)うちの厩舎に来たときは背腰の痛みが取れなくて、全てが手探り。今の姿は想像できなかった」という。背腰に負担がかからないよう、糸を紡ぐように丹念な調教を重ねた。レース間隔を空けなければ痛みがぶり返す。
──「【安田記念】モーリス4連勝でマイル王!堀厩舎2週連続G1制覇」(『スポニチアネックス』2015年06月08日)より引用
競走馬にとって飛躍の時期となることも多い3歳秋を全休し、2014年5月の白百合ステークス以来の復帰戦となったのは2015年1月、自己条件の若潮賞。ここで勝利すると間隔を空けながらレースを使い、GⅢダービー卿チャレンジトロフィーまで3連勝を収めてとうとう春のマイル王決定戦・安田記念に出走する。
GⅠ馬5頭が揃う好メンバーや府中コースでの実績不足などの条件が重なりながらも1番人気に支持されたモーリスは、落ち着いたレース運びで4連勝。1月には条件戦を戦っていた馬が見事GⅠになったのである。しかし堀調教師はこの馬の潜在能力はまだ出し切れていないと感じていた。レース後のインタビューでこのように語っている。
「今後は距離を延ばしていきたいが、速い流れでも掛かっていた。道のりは遠いです」
──「【安田記念】モーリス4連勝でマイル王!堀厩舎2週連続G1制覇」(『スポニチアネックス』2015年06月08日)より引用
馬の将来を見据えて状況把握に努めるその姿は、「無理しなければ、この馬は必ず大成する」とスクリーンヒーローを評した矢野調教師にも重なる。楽観的にも悲観的にもならず、ただただ「実相」を見ることは、名伯楽に共通する資質なのかも知れない。
秋は毎日王冠から始動して距離延長を試すプランだったが、疲労を考慮して回避。ぶっつけで秋のマイル王決定戦・マイルチャンピオンシップに臨んだ。
モーリスの活躍ぶりを考えると、いくら安田記念からの直行とは言え4番人気は評価が低いと思われるかも知れない。しかし、2015年のマイルCSは、マイラーの枠に留まらない出走馬が集結した頂上決戦であった。1番人気はモーリスと同世代の皐月賞馬イスラボニータ。この年も毎日王冠・天皇賞(秋)を連続3着と高いパフォーマンスを維持していた。2番人気は前年このレース2着のフィエロ、3番人気は富士ステークス2着のサトノアラジンとマイル巧者が続く。この他NHKマイルカップの1・2着馬クラリティスカイとアルビアーノ、桜花賞馬レッツゴードンキと3歳勢も虎視眈々。この他前々年の皐月賞馬ロゴタイプや豪州の中距離GⅠランヴェットステークスで2着の実績を持つトーセンスターダムなど、世代も適性距離も幅広いメンバーであった。
その中でもモーリスは外枠も何のその、長くいい脚で先行勢をねじ伏せ後続勢を抑え込む快勝。春秋マイル制覇を成し遂げたのである。勢いそのままに香港に遠征し、香港マイルも勝利すると、「最強マイラー」の称号を確固たるものにすると共に、新たな疑問が生まれてくる。
「果たしてモーリスはマイルに留まる馬なのか?」

5.「中距離馬」モーリス
作家・島田明宏氏はマイルCSのレースレビューの中で、次のようにモーリスを評している。
『マイル界の「絶対王者」』と書いておきながら矛盾したことを言うようだが、この馬の真のポテンシャルは、もっと長い距離でこそ引き出されるような気がしてならない。
(中略)
モーリスはひょっとしたら、適性としてはベストではない舞台で走ってきたにもかかわらず、とてつもないパフォーマンスを発揮してきた怪物なのではないか、と思えてくる。マイル王として獲るべきタイトルを獲り尽くしたあかつきには、ぜひ、1マイル半(2400m)なり、それ以上の舞台にも上がってもらいたい。
──島田明宏「GIを2連勝したマイルは本当にベスト?モーリスが秘める圧倒的なポテンシャル。」(『Number Web』2015年11月24日 )より引用
父スクリーンヒーローはジャパンカップを、祖父グラスワンダーは有馬記念を勝利。母系を見ても母父には凱旋門賞馬カーネギーがいるから、モーリスのベスト距離がマイルではない可能性は十分にある。先述したように堀調教師もメンタル面の問題の解決を前提に距離延長を示唆していた。モーリスは、中距離でも王者の座を掴むかも知れない。
期待を抱かせた5歳シーズン、陣営は2016年の初戦がドバイ遠征になることを発表。前年の毎日王冠で試すはずだった1800mへの距離延長にドバイターフで挑戦することとなった。ところが疲労が抜けないことから回避が決定。始動戦は再び香港、チャンピオンズマイルとなった。ここはきっちりと勝利するものの、凱旋帰国となった安田記念では少しかかる面を見せてロゴタイプの激走の前に2着。改めてメンタル面での不安が現れた敗戦であったが、堀調教師は距離延長を決断。札幌記念で2000m戦に挑戦することとなる。中距離重賞への出走は、転厩前の京都新聞杯以来であった。するとここも同厩のネオリアリズムの逃げを捉えられず2着。ただし鞍上のジョアン・モレイラ騎手は距離ではなく馬場の緩さを敗因に挙げており、折り合い自体はついていた。
──とは言えGⅠの舞台で力は発揮できるのか。
やや懸念もありながら、モーリスは天皇賞(秋)に出走。モーリスが回避したドバイターフを制したリアルスティールや日本ダービーでドゥラメンテの3着に入ったサトノクラウン、大阪杯で春の天皇賞馬キタサンブラックを破ったアンビシャスなど、強豪と謳われた4歳世代から有力馬が集結する。さらには安田記念でモーリスに勝ったロゴタイプや海外GⅠ2勝のエイシンヒカリなどベテラン勢も実績馬が揃った。それでも昨秋の飛躍をエスコートしたライアン・ムーア騎手とのコンビ復活も好材料とされて1番人気に支持されたモーリスは直線で先頭に立つと追いすがる各馬を突き放し、堂々たるレースぶりで快勝する。見事な「二階級制覇」であった。
ムーア騎手・堀調教師はこのレースについて次のように評価している。
「厩舎のスタッフが完ぺきに仕上げてくれた。今までにないモーリスの走りを見せられたと思いますよ」とムーア。
──森永淳洋「モーリスに距離の壁なし、秋盾2000も完勝 名手ムーア驚嘆「誰も追いつけない」」(『スポーツナビ』2016年10月30日)より引用
(中略)
堀調教師はこれまでの日々を噛み締めるかのように語った。「非常に強かったなと思います。今まではマイルがベストパフォーマンスかなと思っていましたが、見ようによっては今日のレースがベストパフォーマンスになるかもしれません。馬自身もそうですが、牧場スタッフの皆さん、厩舎スタッフも一生懸命にやった結果ですので、誇らしく思います」
2人のコメントに共通するのは、モーリスが日本最高峰の中距離GⅠでこれまでに無いパフォーマンスを発揮した実感を持ったという点。島田氏の「マイルがベストではないのでは」という推測が正しいと思わせるような勝利であった。
そしてラストランの舞台として選ばれたのはこれまで負け無しの香港・沙田競馬場。しかし出走したのは香港マイルではなく2000mの香港カップであった。中距離GⅠへの挑戦は2度目。それでも単勝オッズは日本では1.6倍、迎え撃つ立場であるはずの現地香港でも1.7倍だったから、国境を越えてこの馬の強さを確信していた競馬ファンが多かったことが分かる。その期待にモーリスも圧巻の走りで応えた。スタートで後手を踏んだものの、直線では素晴らしい差し脚を見せる。地元の大将格・シークレットウェポンにつけた着差は3馬身半。香港の地でも「二階級制覇」を達成した。天皇賞からの継続騎乗で引退の花道をエスコートしたムーア騎手は、モーリスの走りを次のように評している。
最後は流す余裕があった。マイルでもスペシャルホースだけど、2000メートルではむしろもっと強い。乗っていてすごく楽しい。
──太田尚樹「【G1復刻】アジアの帝王モーリス、名手ムーアも舌巻く圧勝 G1・6勝目を花道に引退/香港C」(『日刊スポーツ』2022年12月10日)より引用
ムーア騎手はモーリスの力はマイルより2000mで発揮されると確信していた。
種牡馬入りしてからも大阪杯覇者ジャックドール、エリザベス女王杯を勝利し有馬記念で3着に入ったジェラルディーナ、AJCCや札幌記念を制したノースブリッジなど、中距離の活躍馬を多数輩出。シャトル種牡馬として供用されたオーストラリアでもヒトツがオーストラリアンダービーを勝っているから、モーリスの本領が中距離だった可能性はやはり捨てきれない。
香港カップの前に行われた2400mの香港ヴァーズでは厩舎の後輩・サトノクラウンが悲願のGⅠ制覇。香港国際競走の2週間後に行われた有馬記念ではキタサンブラックとサトノダイヤモンドの「二強対決」が話題を呼んだ。いずれかのレースにモーリスが参戦していたらどうなったのか、興味は尽きない。「世界のマイル王」として君臨しながら、「実相」を全ては見せずに引退した名馬だったと言えよう。
6.サラブレッドによる「自己の告白」
冒頭で引用した『侏儒の言葉』には、次のような一節もある。
完全に自己を告白することは何人にも出来ることではない。同時に又自己を告白せずには如何なる表現も出来るものではない。
──芥川龍之介『侏儒の言葉』より引用
「自己」を表象することの難しさを端的に表した箴言は、言葉を持たぬサラブレッドには更に重くのしかかる。
「自己の告白」も「自己の表現」も、走ることでしか行うことができない競走馬にとって、「実相」を見抜く力を持ったホースマンとの出逢いこそが重要だということは、グラスワンダー→スクリーンヒーロー→モーリスと紡がれてきた血統がこれ以上無く物語っている。
先述したジャックドールやヒトツなど、既にモーリスの後継種牡馬も登場しているが、この血統からまた「実相」を巡る新たな物語が生まれることを待ち望んでいる。
写真:かず、RINOT

