「あなたの、そして私の夢が走ります」
数々の名実況で知られた杉本清・元関西テレビアナウンサーが、宝塚記念を実況する際によく使われていたフレーズである。
有名なところでは1991年の宝塚記念の実況で、このフレーズとあわせて杉本氏ご自身の「夢」を披露されておられた。
「今年もまたあなたの夢が、そして私の夢が走ります。あなたの夢はメジロマックイーンかライアンかストーンか、私の夢はバンブーです」
杉本氏の「夢」として推されたバンブーメモリーは、残念ながらシンガリの10着に敗れたものの、メジロライアンと横山典弘騎手が積極的な先行策からGⅠ初勝利を飾っている。
杉本氏のフレーズの通り、宝塚記念にはどこか「夢」という言葉が似合う。
同じグランプリ競走である有馬記念が、年の瀬も押し迫った中での一年の総決算としてどこか張り詰めた雰囲気があるのに対して、宝塚記念はどこか優しい。
障害から平地に戻ってGⅠ制覇を成し遂げた1992年のメジロパーマー。
稀代の快速馬でありながら、その生涯唯一のGⅠタイトルとなった1997年のサイレンススズカ。
宿敵テイエムオペラオーに一年越しで先着を果たした、2001年のメイショウドトウ。
遠くロンシャンへ、夢の懸け橋となった2010年のナカヤマフェスタ。
オペラオーが背中を押してくれたと和田竜二騎手が語った、2018年のミッキーロケット。
振り返ってみれば、どの「夢」も味わい深く、ファンの記憶に刻まれている。
そして、それらの記憶とはまた違った形の「夢」を見せてくれたのが、あの年の宝塚記念だった。
その年、1996年の宝塚記念は、2年ぶりに阪神競馬場で開催された。
前年の1995年1月17日に発生した神戸・淡路大震災によって、阪神競馬場もまた大きな被害を受けていた。
桜花賞・宝塚記念を含む、その年のほとんどの阪神開催は、京都競馬場もしくは中京競馬場での代替開催を余儀なくされた。
阪神競馬場は関係者による懸命の復旧作業により、震災から11か月後の1995年12月にようやく再開にこぎつける。
そして、迎えた1996年の宝塚記念。
震災禍から、1年半。
ようやく見え始めた復興の兆しと、まだ残る生々しい傷痕と。
2年ぶりに仁川に戻ってきた夏のグランプリには、前年に続いて「震災復興支援競走」という副称が付けられ、売上金の一部が義援金として寄付されることになった。
1995年年度代表馬・マヤノトップガンとその陣営にとって、1996年の春は不本意なものだっただろう。
1995年1月に明け4歳(当時)で初出走と遅いデビューだったマヤノトップガンだが、未勝利戦・条件戦を勝ち進み、トライアルで出走権を得た菊花賞では先行策から抜け出し、重賞初勝利をGⅠの舞台で飾る。
鞍上の名手・田原成貴騎手にとって、意外にもこれが初めての牡馬クラシック勝利だった。
返す刀で出走した年末のグランプリ・有馬記念では、復活を期すナリタブライアンや女傑・ヒシアマゾンらの古馬を相手に、スタートからハナを奪うと、そのまま逃げ切りで勝利を収める。
確たる配合理論で知られた、新冠郡新冠町・川上悦夫氏の生産馬で、父は初年度産駒からナリタブライアンとチョウカイキャロルという2頭のクラシックホースを出したブライアンズタイム。
母のアルプミープリーズはアメリカ産で不出走ながら、父・Blushing Groom、母の父・Vaguely Nobleという血統に惹かれ、川上氏が購入した輸入牝馬である。
そんなマヤノトップガンの血統表には、Nasrullah4×5、Alibhai5×5などのクロスに加え、チョウカイキャロルはじめ多くの活躍馬が出たFlower Bowl×Aureoleのニアリークロスも見ることができる。
夏には条件馬に過ぎなかったマヤノトップガンが、年末にはGⅠを連勝するまでに化けたのも、成長力と大一番での底力に富むこの血統らしい結果と言える。
オーナーであった田所祐氏は、神戸市を望む夜景で有名な摩耶山から取った「マヤノ」の冠名を所有馬に付けていた。
その田所氏もまた、震災で大きな被害を受けていた。
そんな中でのマヤノトップガンの活躍は、どれほど大きなものだっただろう。
ところが、年が明けた3月の阪神大賞典では、ナリタブライアンとの歴史的なマッチレースを演じたもののわずかに競り負け、迎えた4月の天皇賞・春ではどこかチグハグなレース運びで5着と、勝ったサクラローレルの後塵を拝した。
前年の年度代表馬としては、悶々とする春2戦。
坂口正大調教師をはじめとする陣営は、失意の春を取り戻すべく、初夏のグランプリ・宝塚記念に焦点を当て、天皇賞の後にマヤノトップガンを短期放牧に出して再調整を図った。
折しもこの1996年の宝塚記念は、前年からレーシングプログラムが改訂され、4歳馬の出走を促すために前年から施行時期が約1か月遅い7月7日、七夕の日の施行となった。
だが天皇賞・春と安田記念の上位馬の多くは、秋に備えて休養に入ったことで、宝塚記念には不出走となる。
その中で、前年の年度代表馬・マヤノトップガンは、抜けた1番人気に支持された。
続く2番人気に、唯一の関東馬であり重賞3勝と本格化してきたカネツクロスと的場均騎手。
そして前年のオークスを勝ち、その後はフランス遠征や菊花賞出走など積極的な挑戦を続けてきたダンスパートナーと四位洋文騎手が3番人気、さらには骨折と長期休養から復帰して素質が開花しつつあったサンデーブランチと熊沢重文騎手が続く。
加えて前哨戦の金鯱賞を勝ってきた古豪・フジヤマケンザン、1993年のジャパンカップを勝ったレガシーワールド、あるいは1994年の阪神3歳牝馬ステークスを勝っているヤマニンパラダイス、4歳馬からは外国産馬のヒシナタリーといったメンバーが集い、1996年の宝塚記念は13頭で争われることになった。
2年ぶりに阪神競馬場に戻ってきた夏のグランプリ、第37回宝塚記念。
GⅠのファンファーレともに、目に染みるようなターフの緑が映える。
例年ならばぐずつく天候が多い時期だが、この年は良馬場での施行となった。
4コーナー奥のポケットのゲートから、13頭が飛び出す。スタンド前を通り、1コーナーまでの直線を目いっぱい使っての先行争い。
内枠を利してレガシーワールドが出るが、12番枠からカネツクロスが先手を主張する。
9番枠のマヤノトップガンは、外からカネツクロスに被され、少し行きたそうなそぶりを見せるも、田原騎手がなだめながら3番手あたりを確保した。
その後ろにフジヤマケンザン、サンデーブランチが続き、ダンスパートナーはちょうど中団あたりにポジションを取って、1コーナーを回っていく。
向こう正面に入ってカネツクロスがリードを広げ、離れた番手にレガシーワールド、その2馬身ほど後ろにマヤノトップガンと田原騎手。
前を見ながら追走できる、理想的なポジションのように見えた。
残り1,000mのハロン棒を通過し、馬群がぐっと縮まっていく。
マヤノトップガンは、馬なりでレガシーワールドを交わし2番手に上がった。
そして残り600m、13頭の馬群が一団となる。
4コーナーを回りながら、マヤノトップガンは早くもカネツクロスを捉えた。
先頭で、直線に向いた。
田原騎手の手綱の手応えは十分にありそうで、まだ鞭すら入れていない。
それでも、マヤノトップガンは後続を突き離していく。
追いすがるサンデーブランチ、中団から脚を伸ばしてきたダンスパートナー、さらには後方から追いこんできたヒシナタリーが並んで争うが、マヤノトップガンは捉えられそうにない。
結局、鞭は必要なかった。
四角先頭から押し切った。
マヤノトップガン、1着。
年度代表馬の格を見せつけるような、堂々たる競馬で1番人気に応え、前年の有馬記念に続くグランプリ制覇。
1馬身半差の2着にはサンデーブランチ。そしてダンスパートナー、ヒシナタリーの順で入線。
未曽有の大惨事となった震災から、1年半。
ようやくここまで、と、まだこれだけ、と。
その狭間で、人は揺れる。
けれど、揺れながらも、人は灯りをともしてきた。
震災復興支援競走と銘打たれた七夕のグランプリを、六甲にそびえる「摩耶山」の名を冠した優駿が勝った。
春2戦の苦い記憶は、多くの人の想いを乗せた走りへと昇華する。
1996年、宝塚記念に見た「夢」。
マヤノトップガン、第37回宝塚記念を制す。
災害に限らず、病気や事故、事件、あるいは人間関係など、人生においては様々な出来事が起こる。
それでも、悲しみ、怒り、打ちひしがれ、絶望しながらも、その出来事を乗り越えようと、人は前を向く。
その渦中にいるときは、人は気力を振り絞れる。
けれど、渦中を抜けて日常に戻ろうとするとき、いままで溜め込んでいたストレスなりが噴き出てしまい、心身に不調をきたすことも少なくない。
2020年に大きく世界を変えてしまった疫病禍。そして緊急事態宣言がようやく解かれ、街は少しずつ日常を取り戻しつつある。
──けれど、周りは日常を取り戻していくのに、取り残されたように感じることも、時にはあるかもしれない。
元に戻ったらやろうと思っていたこと、行きたい場所がたくさんあったはずなのに、何か無気力になってしまうこともあるかもしれない。
『禍』から立ち直っていくプロセスには、そんなときもあって当たり前なのだろう。
──けれどいつか、そんな日々も懐かしいような思いで振り返れる日が訪れるはずだ。マヤノトップガンの走りとともに、1996年を思い出すように。
そのとき我々は、どんな思い出とともに、コロナ禍の中行われた宝塚記念を思い出すのだろう。
今年も、宝塚記念がやってくる。
「あなたの、そして私の夢が走ります」
写真:かず