つかの間の歓喜
2004年10月11日、以下の記事が投稿された。
自分でも何年ぶりかの重賞制覇か忘れてるぐらい久しぶりの重賞制覇でした(^_^メ)
昨年からいろいろあって悩み、ナリタセンチュリーでの騎乗を生きがいに思って頑張っていた時の突然天皇賞での騎手変更、本当に辛かったです。
8月下旬にナリタセンチュリーが放牧から帰って来てからも、競馬で騎乗出来るか出来ないか分からず不安に思いながら調教をつけていました。それにナリタセンチュリーはかなりうるさく調教ではてこずります。
1週間前、新聞で京都大賞典の特別登録でナリタセンチュリーの騎手に田島裕と書いてるのを見て安心はしていましたが、木曜日の出馬投票に自分の名前を確認するまでは不安で一杯でした。
前々走の産経大阪杯で先行馬不在だから思い切って先行させて完敗、前走の天皇賞では騎手変更、この苦い経験があったからこそ今回の勝利があると思ってます。
小頭数、先行馬不在でしたが位置取りは気にしないでナリタセンチュリーのペースで競馬して最後の直線で末足を生かそうと思い騎乗しました。ナリタセンチュリーのいい所は瞬発力より長くいい脚を使うところですから。
レース展開、流れも自分の思っていた通りに進みレース中は安心して運べ、ペースが遅いから3コーナーの下りを利用して思い切って進出しようと思いましたが最後の直線の事を考え我慢し、4コーナーを回って馬に気合をつけた時の手応えが「勝った」と思うぐらい良かったのです。そしてゼンノロブロイが馬体を合わせて来た時にナリタセンチュリーの闘争心が再び出た時に勝利を確認しました。
今回の重賞勝利は今までと違い悩んでる時の勝利でしたので本当にうれしかったです。それにみなさんに励ましてもらい、祝福してもらい本当に幸せです。ありがとうございます。
──tajihiro HP「diary」 2004年10月11日
GⅠ翌日のスポーツ紙などに勝利ジョッキーの独占手記が掲載されることは珍しくないが、ここまで自身の葛藤までもをさらけ出した上で素直に喜びを記したものはそうそうないのではないか。
ナリタセンチュリーの重賞初制覇──そして田島裕和騎手にとって8か月ぶりの勝利、約7年ぶりの重賞勝ちは秋晴れの淀、GⅡ京都大賞典だった。
その年の秋の王道GⅠを総なめにするゼンノロブロイが1番人気、2走後にエリザベス女王杯連覇を果たすアドマイヤグルーヴが2番人気。さらに夏の上り馬レニングラード、前走小倉1800mで今なお残る1分44秒1の大レコードをたたき出して復活を遂げた古豪ダイタクバートラムが続き、春の天皇賞以来5か月ぶりのナリタセンチュリーは5番人気であった。
後方3番手でじっくり脚を貯めたナリタセンチュリーは直線大外に進路を取り、アドマイヤグルーヴやレニングラードといった先行各馬を一気に呑みこんでいく。その競走生活で唯一となる上り33秒台の鬼脚を繰り出し、最後は抵抗するゼンノロブロイを真っ向勝負で2着に競り落とす完勝。
強かった。我がことのようにうれしかった。
必ずこのコンビでGⅠに手が届く、私はそう信じていた。
しかし次走の天皇賞秋、大外から唸る末脚で追い込むもゼンノロブロイの6着に屈すると、再びナリタセンチュリーは田島裕和騎手の手を離れてしまう。
(前略)
もうご存知の方も多いかと思いますがJCでのナリタセンチュリーはクビになりました。やはり天皇賞の結果が原因でしょうか・・・
京都大賞典後の厩舎での勝ち祝いで調教師に「天皇賞は脚を余していいから終いの末脚にかけよう、思いっきり乗ってね。負けてもJCは田島君でいくから」と言われその言葉を信じて天皇賞で騎乗しました。
しかし、現実は違いますね。やはり勝負の世界は結果がすべてのようです。
実は先週の水曜日仕事で調教師から「オーナーが関東では乗り慣れてないから騎手を変えたい」と言われてクビになりました。私の考えが甘かったのです。
(後略)
──tajihiro HP「diary」 2004年11月22日
同期の柴田善臣騎手に乗り替わったジャパンカップ、ナリタセンチュリーはやや前目からの競馬に出るも5着。陣営は有馬記念をスキップして重賞勝ちの舞台、京都芝2400mの日経新春杯に狙いを定めた。鞍上は田島裕和騎手に戻るはずだった。
しかし……。
日経新春杯のナリタセンチュリーは私が乗る予定だったのですが、10日前に調教師から乗り替わりを言われました。
マスコミ、知り合い等から乗り替わりの訳を聞かせれましたが、どれもまちまちで本当の事は分かりません。ただハッキリ言える事は私が乗れなかった事です。プロの世界、勝負の世界ですから乗り替わりは仕方ありません。悔しいですけど認められていないと言うか信用されてないのでしょう。
この境遇も勉強の場として、誰にでも認められ信用されるように頑張っていきたいです。
(後略)
──tajihiro HP「diary」2005年1月17日
日経新春杯翌日の田島騎手の「diary」だ。ナリタセンチュリーは彼の手に戻ってこなかったのだ。2戦連続でナリタセンチュリーに田島騎手が乗らないのは初めてのことだった。
武豊騎手を背に単勝1.6倍の圧倒的な1番人気に推されたナリタセンチュリーは、4コーナーでサクラセンチュリーにポジションを取られ、行き場をなくしてズルズル後退。9着で入線した。
レース後、武豊騎手は馬が本調子でなかったこととハンデを敗因に挙げた。
一方、付きっ切りで調教していた田島騎手は「ナリタセンチュリーの状態は悪くなかったです」と「diary」に記している。どちらが正しいのか、あるいはどちらも正しいのか。
そして乗り替わりに対してやり場のない思いがあった私は、正直に言うと安堵していた。ファンとして敗戦を肯定的に捉えるなどあってはならないことだが、どこかホッとしていたように思う。押しも押されもせぬトップジョッキーに完勝されたらもうナリタセンチュリーと田島騎手とのコンビは見られないだろうと思ってしまっていたのだ。あの目黒記念以降ついに一度もコンビを組むことがなかったステイゴールドと熊沢重文騎手のように。
ナリタセンチュリーの次走は京都記念。その馬上には、果たして田島裕和騎手の姿があった。蜘蛛の糸はまだ途切れていなかった。