英雄がいた世界線

ナリタセンチュリーがターフから離れている14か月の間に、日本競馬はすっかり一頭の馬のものとなっていた。

ディープインパクト。

その活躍は私がここに記すまでもない。史上2頭目の無敗三冠。その強さを、判官びいきの私はなすすべもなく、ただ口をポカーンと開いて見つめているだけだった。

「強ぇ、強ぇなぁ……」

彼に逆らった馬券が当たるはずもなかった。
有馬記念。負けたことがニュースになった。
そして2006年の春。ディープは世界へ歩みを進めることが発表されていた。
春の天皇賞後、キングジョージか、凱旋門賞。

4月30日、天皇賞春。

単勝1.1倍のディープインパクトが2週目向こう正面、馬なりで後方の外から進出を開始する。

その挙動を一瞬たりとも逃すまいと、場内実況映像までもが中立性を無視したカメラワークでズームアップして追いかけていく。

3コーナー手前、田島騎手が「ディープインパクトを待ち構えていて後に続こうと思っていた」と日記に記していたナリタセンチュリーが手ごたえを失って一瞬で英雄にかわされていく姿を見つけるのが精いっぱいだった。

1年と10週ぶりの復帰戦となったナリタセンチュリーは12着。ディープインパクトとの差は、実に2秒6。

翌週、ディープインパクトがキングジョージには向かわず、宝塚記念をステップに凱旋門賞を目指すと、陣営から発表があった。


6月25日、日曜日。

事実上、ディープインパクトの凱旋門賞壮行レースとなった宝塚記念。

この年は阪神競馬場改修工事のため、ライスシャワーが散ったあの日以来12年ぶりに京都競馬場で行われることになった。

京都競馬場、芝2200m、天候は雨。ナリタセンチュリーの枠番は7。

奇しくもあの京都記念の日と同じだった。

その日も私は、ウインズ札幌A館コンコース、いつもの大型ビジョンの前に入っていった。

ウインズは混み合っていた。普段よりも出遅れた私は、入口を入ってすぐ、案内カウンターそばの柱の陰から首を伸ばして大型ビジョンをようやく視野に捉えていた。

前の年のダービーあたりから感じていたのだが、ディープが走る日はウインズの空気が少し違っていた。何というか、明るいというか、みずみずしいというか、ギラギラしてないというか、切迫感がないというか、埃っぽくないというか……。ましてやこの日は壮行レースだ。

「ディープ、今日はどんな勝ち方を見せてくれるかな?」大方の焦点は、この一点に絞られていると言って良かった。詰めかけたファンの眼は、みんなキラキラしているように見えた。

GⅠホースはディープ以外に3頭出走していたが、マイルで2勝のハットトリックと前走シンガポールでようやく勲章をつかんだコスモバルク。最終的に5つのGⅠを積み上げるダイワメジャーも、この時点では一介の皐月賞馬。

前走2秒6もディープに置いて行かれたナリタセンチュリーは、10番人気だった。

バランスオブゲームが引っ張る縦長の展開。前後2つの集団に分かれるレース展開。向こう正面、ナリタセンチュリーは2つの集団のちょうど真ん中を進んでいった。


3・4コーナー。後方からディープインパクトが進出する。場内ビジョンに英雄の姿が大写しになる。歓声とどよめきでウインズが揺れる。

そして、直線。馬場のまん真ん中を、ディープインパクトが翔んでいく。並ぶ間もなく先団を呑みこんでいく。2番手のダイワメジャー、先頭のバランスオブゲームが抵抗むなしくかわされていく。

残り1ハロン。勝利を確信したかのように実況映像がディープインパクトにズームしていく。ウインズはもはや拍手が鳴り始めていた。

その時である。

大写しになったディープインパクトの右斜め上、かわされていくダイワメジャーのさらに上から、懸命に伸びて来る四肢が、四肢だけが、見えた。

引きの映像に切り替わった。

「……!!!」

そこにはゼッケン7番。ナリタセンチュリーの姿があった。

ダイワメジャーを内からかわす。3番手。

田島裕和の渾身の左ムチが一発入る。

バランスオブゲームを射程圏に捉える。

「田島ァ!!!」

──私は思わず叫んでいた。

前にいた何人かが驚いて一瞬私の方を振り返った。

その瞳は「タジマって、誰?」と言ったあと、英雄のゴールシーンを焼き付けるべく瞬時に大型ビジョンに向き直っていった。

ゴール手前から武豊騎手が拳を握りしめていた。ディープインパクトが勝った。

ナリタセンチュリーが2着だった。

ナリタセンチュリーは最後の2完歩で、前を行くバランスオブゲームを捉え切ったのだった。

翌日の「diary」で、田島騎手は振り返った。

レース中は後ろにいるディープインパクトの仕掛けを待ち先に行かせて後ろに付き、直線では馬場状態のいい真ん中より外目で終いの勝負をしようと思っていたのですが、イメージしているよりも仕掛けてくるのが遅かったので、4コーナー手前ぐらいで考え方を切り替え「インコース勝負」に出たのです。手応え良く直線にむいた時は一瞬「勝った」と思うぐらいの感触でしたが・・・ ナリタセンチュリーも伸びてはいるのですが瞬発力の違いで離されてしまいました。完敗です。

稍重発表でしたが不良に近いぐらい馬場状態が悪くディープインパクトはこのような馬場が苦手と思い勝負に出たのですが・・・ あの馬に対して勝負に出る事が無謀だったのでしょうか・・・ やはりディープインパクトは怪物です。レベルが違いすぎました。

このレースを勝っていい誕生プレゼントにしたかったのですが出来ませんでした(笑)

──tajihiro HP「diary」2006年6月26日

最後の「(笑)」に、私は泣いた。

できることなら、ディープインパクトがキングジョージに遠征したパラレルワールドに、この人馬を転生させてやりたかった。

一方で、ディープがいない秋なら、ナリタセンチュリーにもチャンスはある。

必ず、必ず、必ず、このコンビでGⅠに手が届く──そう信じていた。

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