戦うたびに己を鍛え、荒野を駆け抜けた。野武士のような二冠馬、メイショウサムソン。

"メイショウ"松本好雄氏から旧約聖書士師記に登場する怪力の士師"サムソン"と名付けられた優駿は、その名の通り闘いを重ねることで己を鍛えた。

実戦にて己を鍛錬し続け、松本好雄氏にダービーオーナーという勲章をプレゼントした孝行息子。その姿は、まさに野武士の如くターフを駆け抜けるそのものだった。

日本基礎輸入牝馬を継ぐ血。

父オペラハウスは、現役時代にキングジョージなどGⅠ3勝を上げた名馬で、引退後は日本で種牡馬となった。言わずと知れたテイエムオペラオーの父でもある。

母マイヴィヴィアンは父ダンシングブレーヴ、母の父がサンプリンスという血統を持ち1997年に北海道静内町で生まれ、現役時代は10戦するも未勝利のまま繁殖生活に入った。

そんな父母との間にメイショウサムソンは、2003年3月7日に浦河町にある林牧場で生を受け、幼駒のころから馬体が大きく、同期の仔と相撲を取っても負けないほど健康で怪我なく順調に成長を見せたという。

──そしてこのメイショウサムソンには、明治から続く日本基礎輸入牝馬の血が流れている。

これは母マイヴィヴィアンからくるもので、その血を辿ってみると牝系の曾祖母には1959年の天皇賞(秋)と有馬記念を制覇し『最優秀5歳以上牝馬』を受賞した名牝ガーネツトの血が流れている。なお、これまで天皇賞と有馬記念を制した牝馬はガーネツト以外には1971年の年度代表馬であるトウメイしか存在しない。

そのガーネツトからさらに遡れば1907年小岩井農場の基礎輸入牝馬20頭のうちの1頭であるフロリースカツプに繋がる。これは日本で拡がった在来牝系の1つであり、今でも貴重な血として扱われている。

そんな偉大すぎる日本在来牝系の血を受け継ぐメイショウサムソンは、縁あって松本好雄氏に購入され、怪力の士師として名付けられた後、いざターフという戦場に向かうのであった。

戦うたびに、強くなる。

定年を間近に控えた瀬戸口勉厩舎から、2005年7月31日に小倉競馬場でデビューしたメイショウサムソン。しかし新馬戦、未勝利戦と連敗を喫する。ようやく勝ち上がったのは、小倉での3戦目だった。

次走の野路菊ステークスでは1番人気に推され快勝するも、5戦目の萩ステークスと重賞初挑戦となった6戦目のGⅢ東京スポーツ杯2歳ステークスとも、フサイチリシャールの逃げに屈し連敗。

それでも暮れのオープンクラス、中京2歳ステークスではきっちり勝ち切ってみせたが、この時点では、まだまだクラシックの有力候補といえる存在には程遠かったと言える。

年明け、3歳初戦をGⅢきさらぎ賞で迎えたメイショウサムソン。しかし、フジキセキを父に持つドリームパスポートの末脚に屈してしまい2着、またもや初重賞制覇とはならなかった。

ところが、皐月賞トライアルGⅡスプリングステークスでは、しぶとい先行力を見せて、2歳王者のフサイチリシャールとドリームパスポートを抑え重賞初制覇。実戦を経て強くなる野武士の如く、メイショウサムソンは着実に力を付けていた。

トライアルの勝ち馬として、意気揚々と向かったクラシック第1弾のGⅠ皐月賞。
ところが、皐月賞まで9戦をこなした戦績や鞍上などが不安視されたのか、6番手評価に甘んじる。レースでは小雨がぱらつく中で先行し、直線で逃げたフサイチリシャールをきっちりとらえると、猛追するドリームパスポート・アドマイヤムーンの末脚を封じ切り快勝。メイショウサムソン自身にとっては当然ながら初GⅠ制覇となったとともに、鞍上の石橋守騎手にとっても騎手生活22年目で初の勲章であった。

続く日本ダービーでは、エンドスウィープを父に持つアドマイヤムーンが距離に不安を抱えていたためか、皐月賞馬メイショウサムソンは、ようやく1番人気でレースを迎えた。

天候は晴れ、稍重の中で行われた第73回の日本ダービー。

終始、先頭集団に付けたメイショウサムソンは、最後の直線に入るとアドマイヤメインの逃げをきっちりとらえる。その走りは、まさに荒地を駆け抜ける野武士のように力強いものであった。内ラチ沿いを4番人気のアドマイヤメインが猛追してくるも残り100メートル付近では、鞍上の石橋騎手が手綱を緩める余裕すら見せクビ差快勝。見事、二冠馬に輝いた瞬間だった。

また、ダービーまで10戦以上費やしての勝利は1994年の三冠馬ナリタブライアン以来、12年ぶりとなり、小倉競馬場でデビューを果たした競走馬でダービー馬となったのは史上初であった。

そして、松本好雄氏にダービーオーナーの称号を贈っただけでなく、翌年2月に勇退が決まっている瀬戸口調教師にも最後に大きなプレゼントとなった。

三冠目前に迫るも、立ちはだかる高い壁。

こうなると、世間では前年のディープインパクトに続く三冠馬誕生が期待され始めた。

個人的な見解だが、これまで日本競馬の歴史を辿ると、三冠馬誕生の翌年は三冠馬や三冠馬級の素質を持った競走馬たちが誕生することは少なくないように思える。1983年のミスターシービーの翌年には皇帝シンボリルドルフが誕生し、前述した1994年のナリタブライアンの翌年には幻の三冠馬と言われたフジキセキが現れている。そして、メイショウサムソンがクラシックに挑んだのも、三冠馬ディープインパクトが活躍した翌年。ちなみに2011年のオルフェーヴルの翌年には三冠馬になり得る素質を持っていた二冠馬ゴールドシップがいる。

──そんな前年の英雄に続けとばかりに秋初戦をGⅡ神戸新聞杯に挑んだメイショウサムソン。

しかし、秋になると絞りきれないのか、プラス10キロで出走し、ドリームパスポートに差し切られ、菊に暗雲が立ち込める。

そうして迎えた大一番、クラシック最後の一冠GⅠ菊花賞。

血統的に問題がないどころか逆に大歓迎であり、ファンからは三冠馬誕生への期待も込められ1番人気に支持される。

しかし、前走からさらにプラス6キロと馬体重が増となったことが影響したのか、直線で抜け出そうとするも大逃げの武豊騎手騎乗のアドマイヤメインを捕まえることができない。さらには大外から飛んできたドリームパスポートの、さらに外から異次元の末脚を披露した8番人気、武幸四郎騎手騎乗のソングオブウインドに差され、4着と惨敗。惜しくも三冠の夢は幻に終わった。

ちなみにドリームパスポートで2着となった鞍上の横山典弘騎手は昨年のアドマイヤジャパンをはじめ、4年連続で菊花賞2着という悔しい記録を叩き出している。

その後、二冠馬としてGⅠジャパンカップ、GⅠ有馬記念に出走するもディープインパクトの前に6着、5着と敗れ、メイショウサムソンの3歳シーズンは幕を閉じた。

汚名返上、そしてさらなる頂を。

4歳となり、2月末に瀬戸口調教師が勇退し、高橋成忠厩舎に転厩となったメイショウサムソン。
休養明け初戦のGⅡ産経大阪杯では二冠馬の貫禄を見せつけ快勝し、続くGⅠ天皇賞(春)でもしぶとく勝利。見事GⅠ競走3勝目を挙げた。

続くGⅠ宝塚記念では67年振りに牝馬で日本ダービーを制したウオッカに1番人気を譲る形となったが、最終コーナーでは先頭に立つ強い競馬を見せた。しかし、猛追してきたアドマイヤムーンに差し切られ2着に終わる。

その後、秋は凱旋門賞遠征を計画していたが、馬インフルエンザが流行してしまい回避。追い打ちをかけるようにメイショウサムソン自身も感染疑惑が浮上し、思うような調教をすることができない日々が続く。そして、ぶっつけ本番となった天皇賞(秋)を迎える。

ここで、これまでデビューから18戦全ての鞍上だった石橋守騎手から武豊騎手に乗り替わりが発生した。

これは当初、凱旋門賞出走のために海外経験豊富な武豊騎手に乗り替わりが予定されていたためである。フランス遠征もたち消えとなり、国内専念となったにもかかわらず、石橋騎手とのコンビは解消。これにはファンから惜しむ声が多く聞こえた。

そんな石橋騎手が外で見守る中、ダービーと同じく天候は晴れ、稍重で行われたGⅠ天皇賞(秋)は、最後の直線で地方からの参戦コスモバルクが右に左にと大きな斜行を繰り返すところを、内から力強く伸びて圧勝。天皇賞春秋連覇を飾った。ちなみに同一年での天皇賞春秋連覇は、タマモクロス、スペシャルウィーク、テイエムオペラオーに次いで史上4頭目の快挙であった。

力尽きた野武士、その血は娘たちへ受け継がれる。

二冠馬となり天皇賞春秋連覇でGⅠ競走4勝。
現役最強馬の声も多く聞こえるようになったメイショウサムソン。

しかし、引き続き鞍上・武豊騎手で臨んだジャパンカップでは、まさかの先行押し切りを見せたアドマイヤムーンを捉え切れず3着。暮れの大一番の有馬記念では見せ場なく、伏兵馬マツリダゴッホの前に8着と沈んでしまう。

年が明け、5歳となった春には昨年同様に産経大阪杯から始動するも逃げたダイワスカーレットの6着、連覇をかけて臨んだ天皇賞(春)では遅れてきた大器アドマイヤジュピタに惜敗の2着。宝塚記念ではエイシンデピュティの逃げをとらえ切れずに2着と敗れた。敗因はいろいろと考えられたが、力の衰えは明らかであった。あの力強い野武士の姿は、いつしか影を潜めていた。

陣営は、1年越しとなったが、目標だった凱旋門賞に出走を決めてフランスに飛び立った。だが、野武士に戦う力は残されていなかった。ただただ、勝ったザルカヴァの強烈な末脚を傍観するしかなく10着に終わってしまう。 

それでも野武士は本当に力尽きるまで戦場を走り切る。帰国後のジャパンカップでは相棒の石橋騎手とのコンビが復活するも6着、引退レースとなった有馬記念ではダイワスカーレットの前に8着となった。

こうして、野武士の如き荒野を駆けずり回ったメイショウサムソンの戦いは幕を閉じたのだった。

4歳時の天皇賞(秋)以降、勝利がなく低評価に扱われる部分があるが、二冠馬であり、天皇賞春秋と連覇したGⅠ競走4勝馬である。

そして、忘れられそうになっていた日本在来牝系の価値を高めた1頭でもある。

しかし、不思議と春先や夏場は好成績を残したものの、秋が深まり冬になれば反応が鈍くなるなど、季節によって影響されるタイプだったことは否めない。

引退後、種牡馬となったメイショウサムソンは、その種牡馬生活で600頭余りの仔を残した。
直系の後継種牡馬は輩出できなかったが、母の父として娘たちがその血を残している。

2019年の福島牝馬ステークスの勝ち馬デンコウアンジュは、キズナ、シルバーステートと不受胎ながらも2023年にホッコータルマエの仔を受胎した。

また、2019年の中山牝馬ステークスの勝ち馬フロンテアクイーンは、2021年にロードカナロアの牝馬、2022年にエピファネイアの牡馬を出産。

こうして、野武士と揶揄されたダービー馬流れる血、さらには名牝ガーネツトや日本の基礎となった輸入牝系の血は確実に受け継がれていくだろう。

そして、母の父メイショウサムソンと刻まれている勇ましい仔が、野武士の如くターフを駆け抜ける姿を楽しみに待ちたい。

写真:かぼす、ふわまさあき、Horse Memorys

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