![[連載・片目のサラブレッド福ちゃんのPERFECT DAYS]最後には全て杞憂に終わる(シーズン2-28)](https://uma-furi.com/wp-content/uploads/2026/08/202608032.jpg)
ダートムーアの出産予定日の前日、僕は北海道に向けて旅立ちました。そろそろと言われながらもなかなか生まれておらず、もしかすると今年こそ、奇跡の瞬間に立ち会えるのではないかと感じざるをえません。4月9日から10日のうちに産んでくれたら、5年越しの願いが叶うのです。
例年どおり、社台スタリオンステーションにて、徳武英介さんへのインタビュー取材を行いました。今年の新種牡馬の目玉であるイクイノックスに加え、シュネルマイスターとグレナディアガーズの3頭について話を聞きました。徳武さんの種牡馬評はいつも面白く、いかに種牡馬のキャラを立てて、個性的で親しみやすく見せるかに優れています。たとえばシュネルマイスターは「フィジカルモンスター」、グレナディアガーズは「毎日、飲みに連れて行きたい後輩」などといった徳武節を披露してくれるのです。社台スタリオンステーションにいる種牡馬たちとは毎日、仕事仲間のように接し、良く観察しているからこその表現力です。
取材が終わり、理恵さんに迎えに来てもらいます。出産シーズンで忙しい中でもいつもどおりの笑顔。遅ればせながら、誕生日プレゼントに買ってきたガトーショコラを渡しました。いつもお世話になっている分の何十分の1もしくは何百分の1ぐらいしかお返しできていませんが、地元で美味しくて有名なお菓子を贈ることができました。
碧雲牧場に到着してから夕食まで少し時間があったので、ダートムーアの様子を見にいくことにしました。いつ産んでも良いように、いちばん近いサンシャインパドックに放牧されています。お腹を見ると大きくなっていて、下に尖っています。「生産界ではお腹が尖っているとオス馬だという迷信がある」と理恵さんが言っていた、まさにその尖っているお腹です。いつもは僕が来る前に慌てて産んでしまうので、ダートムーアのお腹がこんなにも張っている姿を初めて見ました。対して、スパツィアーレは僕が帰ったのを見計らって産むので、お腹が大きな姿しか見たことがありません。オーナーには絶対に出産シーンを見せないという強い意志を、両者から感じます(笑)。
スパ治郎とマン次郎も元気に過ごしているようでした。声が掛かれば、いつ別れ別れになってしまってもおかしくない状況ですが、そんなこと露知らず、2頭は性懲りもなくお互いの無口を取り合って、1分に1度にはちょっかいを出し合っています。友だちと一緒にのんびりと生活できる時間は、牡馬にとっては今だけなのかもしれません。育成に入れば厳しいトレーニングが待っていて、トレセンに行けば激しいレースを強いられ、そして万が一、種牡馬になることができたとしても、種付けシーズンには1日に2度も3度も回し蹴りが飛んでくるかもしれない牝馬に乗らされ、それ以外の時期も1頭で過ごすことになります。サラブレッドの牡馬たちには、いや人間の男性もそうかもしれませんが、悠々自適の老後なんてありえないのです。
夕食はチゲ鍋でした。理恵さんが気に入っているスープの素を買ってきてくれて、豚肉や野菜を煮て食べます。チゲの辛さと野菜の甘さが溶け合って、豚肉が美味しい。締めには平たいトッポギやチリチリの細麺(チョルミョン)を入れて、もうお腹一杯。慈さんが4歳ぐらいの小さい頃、自分の名前がはっきりと発音できなくて、「チゲ」と自分のことを言っていたという可愛いエピソードをお母さまが教えてくれました。今度から「シゲさん」じゃなくて「チゲさん」に呼び方変えようかな。
今日の夜番はチゲさんです。30分ごとにアラームをかけて起床して、ダートムーアの馬房が映し出されているモニターを確認してくれます。生産者にとって、最も過酷な時期です。昼夜逆転も歳を取ると辛くなってきますが、それ以上に、30分ごとに起こされるのはきついはずです。僕の祖母が曾祖母の介護をしていたとき、「夜中に何度も起こされるのが身体にこたえた。あれで一気に私の寿命も縮まった気がする」と真面目に語っていたことをふと思い出します。「ダートムーアに兆候が出たら、叩き起こしますよ」とチゲさんは言い、「おやすみなさい」と僕は申し訳ないながらも眠りにつきました。
朝、目覚めて、ダートムーアは今日も産まなかったことを知らされます。今年から導入したpH試験紙もあくまでも気休めなのかもしれません。値が6.4に達してからは24~36時間で出産する確率が80%とされていますが、1週間経っても生まれてきていません。予定日は今日ですから焦ることはないのですが、結局のところ、碧雲牧場の皆さんに長い間にわたって宿直をしてもらっていることになります。出産のタイミングを知りたいというのは人間のエゴですから、何よりも無事に、そして欲を言えば牡馬を産んでくれることを願うのみです。
朝5時から、ひとしきり碧雲牧場にいる馬たちの撮影をして、7時半には理恵さんが迎えに来てくれました。今回は福ちゃんのウォーキングマシンで歩く姿も見るために、いつもより30分早くエクワインレーシングを訪れる予定です。小雨がフロントガラスにパラパラと降りかかり始め、雲行きが少し怪しくなりましたが、天気予報では何とか午前中は持ちそうとのこと。エクワインレーシングに来るときは、いつも晴れていて、福ちゃんはもしかすると晴れ女なのかもしれません(ちなみに僕は究極の雨男)。
事務所を訪ねると、瀬瀬代表とマネージャーの松田さんがいらっしゃったので挨拶をします。「どうぞ好きなだけ撮影してください」と瀬瀬代表は快く受け入れてくれ、そのままウォーキングマシンへと直行しました。歩く福ちゃんを見つけるのに時間がかかるかと思いきや、すぐに分かりました。他の馬たちは真ん中か内側を歩いて、時折、撮影する僕のことを気にして反応する素振りを見せますが、福ちゃんだけはウォーキングマシンの外々を回って黙々と歩いています。
身体が大きいため一歩一歩も大きく、ウォーキングマシンの真ん中や内側だと詰まって歩きにくいのでしょうか。それにしても、体全体を大きく使って力強く歩けています。そして、外から撮影している僕に気づかないのは左目が見えていないからでしょうか。いずれにしても、これぐらいしっかりと歩けていれば、良いウォーミングアップになりますし、歩いているだけでも必要な筋肉が鍛えられるはずです。
30分程度、ウォーキングマシンで歩いたのち、馬装をして、馬場へと移動します。10頭ぐらいが集団で輪を描いて走り、坂路入りする前のウォーミングアップは終了です。最後に、僕が見ていることもあってか、列の最後に福ちゃんを並ばせて、ゲートを通る練習が始まります。他の馬たちはもうお手のもので、続々と通り過ぎていきます。前回、理恵さんが撮影してくれた際は、嫌がるところを何度か促してようやく通れたので、今回は果たしてどうなることか心配で見守ります。
福ちゃんの番が来て、馬場全体の雰囲気がピリつきます。それに反応したのか、1頭の馬が少しバカついて、福ちゃんも少し首を上げたりしています。それでも作戦は決行され、福ちゃんが一番狭いゲートを何とか通れた!と思った矢先、引き手の新平さんが止まりました。福ちゃんはゲートに挟まれた状態で立っています。大丈夫なのか?と僕が思っていると、後ろの扉を開けたり閉めたりを数回繰り返し、まずは後ろの扉が閉められます。続いて、前の扉を開けたり閉めたりを繰り返し、最後は前の扉も遂に閉められました。いつでも開けられるように、恐る恐るといった感じですが、福ちゃんが密閉されたゲート内に駐立しているではないですか!しばらくすると前掻きをして、早く出してと言っていますが、5,6秒は待てていました。能力試験はゲートで60秒間、駐立できなければならないので、今回ぐらいではまだまだですが、それでも福ちゃんとしては大きな進歩を見せてくれました。
希望が見えて、気を良くした僕を車に乗せ、松田さんが坂路の中腹まで送ってくれます。僕が撮影に来ると、ずっとついていてくれるので、仕事にならなくて申し訳ないなといつも思います。福ちゃんの川崎への移動を考えると、あと何回、こうしてエクワインレーシングに来られるか分かりませんし、もしかするとこれが最後になるかもしれません。いずれにしても、卒業の際はきちんとお礼を伝えなければいけません。

坂路の中腹から見ていると、あっという間に福ちゃんたちは駆け上がってきました。今回は3頭併せの真ん中。かなりタイトに寄られても、福ちゃんは気にして頭を上げたりする素振りもなく走れています。あとから騎乗した八木さんに聞いたところ、良くも悪くも隣に馬がいても気にしないそうです。馬に挟まれると闘争心に火がつくこともない代わりに、嫌がることもないという意味です。意外とどこ吹く風な一面があるのですね。
エクワインレーシングでは週5日、坂路を登っているそうです。人間と同じ週休2日制。木曜日と日曜日がお休みなので、前日の水曜日と土曜日には速いところを攻める調教をすることが多いとのこと。疲れが出てきたらビレッジに戻って、疲れが取れたらまた本場に戻って来るの繰り返し。福ちゃんは精神的に弱いところがあったので、「本場⇔ビレッジの間の10分ぐらいを何度も乗っているので、馬運車にも慣れていますよ」と松田さんは教えてくれました。
碧雲牧場からエクワインレーシングに向かったときは、馬運車が動き始めてすぐに暴れたので、10分でも普通に馬運車に乗れているということは、馬運車自体は問題なくなっているのではないでしょうか。大体2頭で乗るようなので、もしかすると誰かと一緒なら大丈夫なのかもしれません。それであれば、本州への移動は複数頭が乗り合いになるはずですから、長距離輸送もクリアしてくれるかもしれません。
3か月ぶりにエクワインレーシングを訪れ、自分の目で見て、八木さんたちに話を聞き、福ちゃんの大きな成長を感じました。481kgの馬体は力強く、大きく体全体を使って歩けていて、精神的にも逞しくなってきています。僕たちは福ちゃんのことをずっと見てきているからこその心配ばかりをしていますが、福ちゃんは福ちゃんなりに成長していて、できなかったことができるようになり、最後には全て杞憂に終わるのかもしれません。
Photo by Fukasawa
(次回へ続く→)
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