[連載・片目のサラブレッド福ちゃんのPERFECT DAYS]優しさは選べる(シーズン2-25)

僕が窮地に陥っていることを察し、アルクトスのオーナーでもある山口功一郎さんが声をかけてくださったとき、「ホットロッドチャーリーの仔は売るつもりですか?」と聞かれました。「何としても売るつもりです。イメージどおりに出た良い馬なので、良ければ見てください!」と僕は返しました。

最初は社交辞令だと思っていたのですが、その日のうちに後輩の獣医師を手配したと連絡が入りました。山口さんは(忙しい身なので)北海道まで行くことはできないけれど、信頼できる獣医師さんを碧雲牧場に派遣して、馬を見てもらおうということです。行動が速いというか、見に来てくださるだけでもありがたい話です。

さっそく翌週の土曜日、獣医師が碧雲牧場までやってきて、スパ治郎(スパツィアーレの25)を見て、測尺までしてくれたようです。ちょうどその日、僕はスワーヴリチャードのオーナーでもある諏訪守さんに取材することになっていました。京成杯を制したグリーンエナジーのオーナー鈴江崇文さんと諏訪さんの対談原稿を書くためです。実は山口さんから諏訪さんを紹介してもらい、「Blooming Horse Club」の設立にあたってのインタビュー取材をしたことをきっかけに、僕たちは初めて出会いました。

諏訪さんは今の競馬界では珍しく、ノーザンファーム一辺倒ではない日高の新時代を創造するために、まずは生産牧場からイヤリング、中・後期育成、外厩まで、馬の器を満たすための一気通貫するハード面を作り上げようとしています。2026年9月には日高の富川に育成場をオープンし、全長900mで3.5%勾配の真っすぐな坂路をつくり、さらに福島県の浪江に500頭の馬房と1000m坂路コース、1200mの周回コースがある外厩をつくる計画が進行中です。

ひと昔前であれば、ノーザンファームのひとり勝ちは良くないと多くの人が警鐘を鳴らしていましたが、今やその点に関してはあきらめムードが漂っている感覚も僕にはあります。資金力はもちろん、種牡馬や繁殖牝馬の質から、生産・育成牧場、外厩に至るまでのハード、その中で育成にたずさわる経験とノウハウを持った優秀な人たち、調教師やジョッキーとの人脈など、ありとあらゆる点において僅差ではなく大差がついてしまっているのではないでしょうか。もちろん、ノーザンファームと同じ土俵で勝負をしない、あるいは一矢報いるという心意気を持っている方も間違いなくいるでしょう。しかし、実際に諏訪さんのように業界を変えたいと願い、その行動が見えるホースマンは、ひょっとすると稀有な存在なのではないでしょうか。

僕も諏訪さんに会うまでは、心のどこかで日高の牧場がノーザンファームに敵うわけがないとあきらめていた気がします。しかし、漫画「スラムダンク」の安西監督の名言ではありませんが、「あきらめたらそこで試合終了」なのです。さすがに僕がどうこうしたところで何も変わりませんが、たったひとりでもそうした気概を持った人がいなければ、現状が変わるわけがないのです。とはいえ、僕もノーザンファーム(社台グループ)の独占があったからこそ、日本馬の大幅なレベルアップがあったと思っています。その恩恵にあずかっている人たちはたくさんいるのも事実です。

ただ、吉田善哉さんが率いた社台ファームでさえ、いつ潰れるか分からない苦しい時代もあったわけですし、盛者必衰のことわりどおり、ノーザンファームの天下が未来永劫に続くわけではないはず。次の時代を制するのは、虎視眈々と逆転を狙い、その準備をし続けている者、と僕は思っています。

スパツィアーレの25の話は諏訪さんにも行っているようで、「来週、日高を訪れるので僕も馬を見てきますね」と言ってくれました。建設中の育成牧場のことで手一杯である中、わざわざ碧雲牧場にまで足を運んでくれるのです。山口さんは諏訪さんの相馬眼を信頼しているため、諏訪さんのアドバイス次第でスパツィアーレの25の運命は決まる可能性がありますが、とはいえ諏訪さんにはダメならダメと忌憚ない評価をしてもらいたいと僕は願います。知り合いだから悪い馬でも買うでは成り立たない、そんな甘い世界ではない、と知っている諏訪さんですから、僕がそんなことわざわざ言う必要はありませんね。

むしろ、「なるべく早めに牧場(Blooming Farm)に連れて来て、他の馬たちと運動させた方が良いから、碧雲さんにも移動について聞いてみて」とスパツィアーレの25を買ってくれた後のことを心配してくれます。今年、碧雲牧場には当歳の牡馬が2頭(スパツィアーレの25とマンデゥラの25)しかおらず、スパツィアーレの25が途中で抜けてしまうと、マンデゥラの25の行き場に困ってしまうのではないかということです。

サラブレッドは集団動物であり、1頭だけで生活するのは難しく、誰かと一緒でなければ放牧が難しいのです(特に夜間放牧は不安がって草を食べずに痩せ細ってしまうかもしれません)。

対談の取材が終わり、慈さんに電話をすると「獣医師さんが見に来てくれました。管囲が18cmと少し細いかもと言われましたが、それ以外は問題なさそうです」との報告をもらいました。僕はひと安心しつつ、「もし山口さんがスパ治郎を買ってくれたら、早めにBlooming Farmに持っていくことになるかもしれないけど、マン次郎は大丈夫かな?」と探りを入れてみました。

「セレクションセールかサマーセールでマン次郎が売れるまでの数か月をどうするかはこれから考えますが、いずれにしても馬を売ることを優先してください。馬が売れたら、その後は馬主さんの都合に合わせてこちらは動くしかないですし、僕たちの都合に合わせるわけではないですから。そこの順序を逆にしてしまうと本末転倒になります」と返ってきました。今までこのようなパターンはなかったらしく、正直、慈さんもマン次郎をどうしたらよいのか困ってはいるようですが、もしスパ治郎が買ってもらえるなら快く送り出してくれると言ってくれたのです。

1週間後、約束どおり、諏訪さんは碧雲牧場を訪ね、スパツィアーレの25を見てくれました。その後、「管が細いとは聞いていましたが、僕には勝てない馬には見えませんでした!」と簡単にLINEをもらい、「Blooming Farmも放牧地が凍っていて今は危ないので、暖かくなった3月末あたりに移動する方が良いですね」と移動時期についてもやり取りをしました。諏訪さんが現在抱えている、数百億円規模の事業に比べ、僕の馬を買ってもらうかどうかなど取るに足りないことなのですが、それでもこうして行動して、丁寧に扱ってくれることに感謝しかありません。

「他人のいろいろな問題を背負ってくるので、(会社の)役員たちからは『社長、また何か持ってきたのですか!』と言われるけど、僕はこうして足腰を鍛えてきたんだよね」と諏訪さんが何気なく漏らしたことがあります。

その言葉を聞いたとき、諏訪さんはご自身の会社を経営してきた中で、星の数ほどの他人の問題、つまり自分には関係ないと思えばスルーできてしまう問題を自分ごととして引き受けてきたのでしょう。そうして足腰を鍛えてきたからこそ、会社も大きくなって、大好きな競馬の世界でもスワーヴリチャードという名馬であり名種牡馬が舞い降りたのですよね。優しさと強さは同居するのです。

それに対して僕は、自分の手の届く範囲だけは大切にしてきましたが、当然のことながら会社は大きくならず、余計な生産事業に手を出して今このざまです。クオリティが下がるから拡大しない、コンパクトな経営だと自負していましたが、ただ単に僕は会社を大きくすることによって生じうる問題や重荷を背負うことから逃げていただけなのではないでしょうか。その結果として、僕は気がつくと足腰が弱くなり、2000万円程度の赤字で困窮してフラフラしているのです。僕は自分を恥じました。経営者としてだけではなく、人間としての器も小さいのです。

翌日、山口さんからLINEが入りました。「諏訪さんが見に行ってくれて、良い馬か悪い馬かで言ったら良い馬だったとのことで(笑)、基本的には買いたいと思っているのですが…」と前置きがあり、今後の生産事業について対話をしました。山口さんが伝えたいことを僕なりに解釈すると、今回、馬を買ってもらうことで当面の資金繰りは楽になると思いますが、今までと同じことを続ければ元の木阿弥であり、どこかで線引きをする必要があるということです。

僕も全く同じ考えであり、ただ命を永らえるだけでは意味がなく、なるべくハッピーな着地点を探すためには現状を変えていかなければいけません。具体的に言うと、スパツィアーレが2年連続で今年も受胎しなければ、繁殖セールに出すか用途変更しなければいけません。僕にとって生産事業は荷が重いことはつくづく分かりましたので、全体的にも少しずつ縮小していく方向で考えています。抱え込むのではなく手放すためには、どこかで割り切らなければならないのです。

山口さんは僕からスパツィアーレの25を買うことで、僕を救おうとしてくれているのです。「武士の情け」とはまさにこういうことを言うのでしょう。山口さんの情けを無駄にしないように、僕は自身の延命ではなく、逆転をしなければいけません。今年スパツィアーレが無事に受胎してくれて、山口さんに買ってもらったスパ治郎が走って、スパツィアーレの繁殖としての価値が高まり、スパツィアーレを手放さなくても良くなることが理想的ですね。

「治郎丸さんは優しいので」と山口さんは言ってくれます。山口さんもこうして僕を救うために馬1頭を背負ってくれる時点で、周りの人たちから見るとたしかに優しすぎるのかもしれませんが、だからこそ足腰が強くなり、人々がうらやむような成功を成し遂げたのではないでしょうか。

賢さは生まれつき(親から与えられた)のものであり、優しさは選択だと言われます。他人に優しくすることも、優しくしないことも、誰もが選ぶことができるのです。だからこそ、賢くても優しくないと人としては意味がないと僕は思っていますが、果たして僕は優しいのでしょうか。おそらく優しくはないのだと思います。自分の手元にいる馬たちの可能性をできる限り信じて、何とか生かそうとしすぎて何も選んでいないのだと思います。そうすることで全てが死んでしまうのであれば、それは優しさではないのです。たとえ手放すことや用途変更であっても、選ぶことが優しさなのです。

そのようなやりとりを経たあと、「希望価格はありますか?」と聞かれました。僕は下で売る時はいくらと決めていた価格を伝えました。相手を見て価格を変えることはしたくないので、誰が相手であってもこの価格と決めていました。慈さんに言わせると、(牡馬で大きく出ているのに)“安い”となりますが、僕の会社の名義でセリに出しても果たして高く売れるかどうか疑問です。これまでにかかってきた経費やホットロッドチャーリーの種付け料を計算して、トントンの金額を提示するだけです。この生産事業で利益を出すことはとうの昔にあきらめていますので、とにかく損失を出さずに、ソフトランディングさせることを今は念頭に置いての希望価格でもあります。

今だから言えることですが、もし提示した金額よりも値切られることがあれば、お断りするつもりでした。前述したように、提示した額は盛ったものでは全くありませんし、何よりもスパツィアーレの25にはそれぐらいの価値はあると信じていました。スパツィアーレの仔はこれまで2頭しかデビューできていませんが、どちらも牝馬。グシチャンノソラ(父ラブリーデイ)は田中博康厩舎に入って、勝ち上がりまであと一歩のところまで行きました(3着2回)。牝馬にしては体が大きすぎて、脚元に常に不安を抱えながらの調整だったと聞いています。アルデリシャス(父ルーラーシップ)は千葉セリにて5830万円で取り引きされた期待馬でしたが、7戦して勝ち上がれず繁殖に上がりました。スパツィアーレの25は初めての牡馬であり、かつホットロッドチャーリーを配合してスピードを強化していますので、中央で活躍できる可能性は十分あるのです。

ところが、間髪入れずに、山口さんは「セレクションセールでひと声かかったと思っていただき、こちらでどうですか?」と僕の提示額よりも上の金額を示してくれました。値切られるどころか、色をつけた金額を提案してくださり、僕は正直驚きました。このことをあとで慈さんにも報告すると、「こちらの提示額より上を言ってくれる馬主さんには今まで会ったことがないですね」と驚きすぎて笑うしかないという口調。「治郎丸さんが(相場よりも)安く提示しているのを分かって、上乗せしてくれたのではないでしょうか」とも付け加えてくれました。

翌日には売買の電子契約書を結び、その場でお金が振り込まれました。包み隠さずに言うと、翌日、銀行に行って記帳して確認してみると、僕の会社の通帳の残高がひと桁増えていました。この1年間、僕がどれだけギリギリの状態であったか分かると思います。そして、山口さんがスパツィアーレの25を買ってくれたおかげで、どれだけ救われたか伝わるのではないでしょうか。

このまま行くと、福ちゃんがデビューする時点まで何とか辿り着けるか着けないかという瀕死の状況の中、たまたま見つけた避難所の中に友人が残した食料を見つけたときに抱くような気持ちです。感謝が溢れ、手を合わせました。暴風が吹き荒れる極夜のテントの中、小休止を取りながら、少し光が見えてきたように僕には感じられたのです。

(次回へ続く→)

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