[連載・片目のサラブレッド福ちゃんのPERFECT DAYS]咆哮(シーズン2-22)

新千歳空港に到着すると、カクウチが出走する朝日杯フューチュリティステークスの発走時間まであと20分。ギリギリ間に合いました。到着ゲートから飛び出て、目の前にある椅子に腰かけ、スマホでグリーンチャンネルWebを観ました。

出走各馬たちが返し馬に移ろうとする姿が、小さな画面に映し出されています。阪神競馬場の天気は雨→小雨に変更されたとアナウンスがありました。慈さんのお母さまは今ごろ、阪神競馬場のどのあたりで観戦されているのでしょうか。

カクウチはプラス4kgと馬体をやや増やし、丸々としたトモを誇示しています。1番人気に推されているリアライズシリウスはプラス12kgとやや太め、2番人気カヴァレリッツォはふっくらとした仕上がりで、鞍上にはC.デムーロ騎手がいます。今年は小粒なメンバーであり、内々で脚をためることができれば、未勝利戦を勝ったばかりのカクウチにもチャンスが十分あるのではと思えます。

photo by うずまき

リアライズシリウスがゲート入りを嫌がりますが、その後は続々とゲートインし、綺麗なスタートが切られました。カクウチは好ダッシュからあわや逃げようという勢いで先団に取り付き、逃げたダイヤモンドノットの外2番手を確保します。欲を言えば、内ラチ沿いの逃げ馬の後ろが理想でしたが、外枠発走を考えると上々のポジションです。

最終コーナーまでは大きな動きもなく流れ、最後の直線を向いた瞬間、カクウチにはまだ十分な手応えが残っているように見えました。慈さんが「一瞬夢を見ました」と後から言ったように、僕もC.ルメール騎手が乗るダイヤモンドノットを交わせば勝てるかもと、碧雲牧場にとって初めてのGⅠ制覇が脳裏に浮かびました。

ところが、いざ追い出されると、カクウチはグッと前進するどころか、バランスを崩すようにして後退していきます。ダイヤモンドノットをゴール前でカヴァレリッツォが交わし、C.デムーロ騎手がガッツポーズを決めました。

GⅠレースは甘くないと思いつつ、競馬の上流である生産の現場に近づけば近づくほど、今の時代にノーザンファーム生産馬を倒し、中央競馬のGⅠレースを勝つことが至難の業であることが分かってきました。碧雲牧場からダービー馬を出したいと声高に宣言して、ダートムーアを手に入れたものの、日々刻々と夢から遠ざかってゆく自分がいます。

Photo by うずまき

しばらくすると慈さんから電話がかかってきました。「惜しかったですね。見せ場はありましたよ」と開口一番言うと、「そうですよね。馬格がそれほどない馬だから、重馬場がこたえたかなあ」と慈さんが言うので、「それもあるかもしれませんね」と僕たちは半ば納得します。「今から空港まで迎えに行きましょうか?」と言うので、「いやいや、電車で行きますので、申し訳ないけれど鵡川まで迎えにきてください」と言って電話を切ります。

GⅠレースに出走するだけでも凄いことです。GⅠを勝つことは難しくとも、GⅠに出走することぐらいはできるかもしれません。日本ダービーを勝つことは夢物語であったとしても、日本ダービーに出走することは目標としても笑われないかもしれません。福ちゃんは小眼球症で中央競馬では競走馬になれませんが、その子どもたちで中央競馬のGⅠレースを目指すことはできるのです。

鵡川駅まで迎えに来てくれた慈さんの車に乗り込みました。「ここ2週間、ずっとソワソワしていました」と慈さんは告白します。「何をしていても気になるというか、待ち遠しくもありつつ、早く終わってほしいという気持ちでした」。ルリモハリモのデビュー戦の前は、僕も同じような心持ちでしたので良く分かります。他のことに意識を向けようとしても、気がつくとルリモハリモのことを考えてしまう自分がいました。「分かるよ、その気持ち」と僕は返し、夢と現実を語り合い、最後には「GⅠレースに出走できるような馬をつくろう」という結論に二人とも至りました。

牧場に戻ると、すでにお祝いは始まっていました。カクウチが勝ったら出前を頼む予定だったそうですが、今回はお母さまが阪神競馬場に観戦に行っていることもあり、理恵さんが腕を振るって作ってくれた味噌鍋です。ガツンとくる濃い味の味噌の中に野菜やお肉がたっぷりと入っていて、さらに行者ニンニク入り餃子が加えられます。寒い時期の北海道に相応しい料理です。

慈さんの「この2週間は夢見心地だったよ。やっぱりGⅠレースに出走できる馬がいると張り合いがあるね」から始まり、理恵さんは「声が枯れるぐらい叫んだ」と言うと、「コーセーだけ冷静だった笑」とミズキさん、「大好きなトウカイファインの仔だから、余計にウルウルきた」と青木さん。

自分たちの手から離れた馬であっても、生まれた時から1歳夏まで毎日お世話をしてきただけに、それぞれに人一倍思い入れがあるのです。下手をすると、馬主よりも愛着を持って応援しているのかもしれません。

出走馬1頭1頭に入場曲があれば良いのにという話になりました。たとえば、格闘技の試合のように、選手それぞれが選んだ自分のテーマ曲をかけるというもの。その曲に乗って、出走馬が紹介されながらターフに登場するなんて素敵じゃないですか。もちろん、時間の問題で難しいのは分かっています。それならば、わずか数秒だけでも流せば良いかもしれないと僕が提案すると、「イントロドンみたいになりそう笑」とミズキさん。たしかに数秒程度だったら、その曲と馬の世界観は伝わりづらいかもしれません。

実は、慈さんが最近気に入っている友成空の「咆哮」という曲(アニメ「キングダム」のエンディングテーマ)があり、福ちゃん(ドコフクカゼ)の入場曲があればこれを使いたいと考えているそうです。その時代から馬と人は共に生きてきて、「右に行く、左に行く、それとも砕け散る?」という歌詞は競馬のレースっぽく、「その傷を誇れ」「運命を魂が追い越すまで」と入っているのが福ちゃんらしいというのです。僕はその曲を知らなかったので、後で聞かせてもらうと、カッコいい!もし出走各馬の入場曲制度が導入されたら、この曲を採用してもらいましょう。それが難しければ、ドコフクカゼがパドックから馬道を通って返し馬に入っている際に、福ちゃんを応援してくれている皆さまの脳内で流してもらえれば幸いです。

北海道の冬の朝は寒い。当たり前のようですが、本州に住む僕たちの想像を遥かに超えるほど寒い。明治より前の時代、北海道が未開の地であった理由も分かります。最近は暖房設備も発達し、どれだけ極寒の地であっても凍え死ぬようなことはありません。それでも真冬の北海道は外に出ると生命の危機を感じることがあります。僕が碧雲牧場に泊まると、「朝は冷えるから、電気ストーブをつけたまま寝てくださいね」と言われます。僕が軟弱な都会民だと思われていることもあるでしょうが、本当に気遣って声をかけてくれているのです。それでも僕は電気ストーブを消して寝ます。空気が乾燥してしまうのが嫌なのと、布団の中に入ってしまえば体温で暖かくなるので大丈夫理論を信じているからです。むしろ外気との温度差が心地よい。

翌日は朝早く起き、スパ治郎と万次郎の収牧風景を撮影します。少しゆっくりしてから、理恵さんの車に乗せてもらい、エクワインレーシングに向かいました。今日は8時45分から坂路入りと聞いていましたので、8時15分ぐらいの到着を目指しました。エクワインレーシングを目の前にして雪風が強くなり、予定より少し遅れての到着となりましたが、馬装開始までには何とか間に合いそうです。

事務所に直行すると、マネージャーの松田さんと代表の瀬瀬さんがいました。実は瀬瀬さんにはこのあとインタビューをさせてもらうことになっています。僕が連載している「一口馬主DB」の記事としての取材です。「のちほどよろしくお願いします」と瀬瀬さんに伝えつつ、さっそく松田さんと一緒に福ちゃんの馬房に向かいます。

馬房はもぬけの殻で、次はウォーキングマシンを探しに行きます。どこを歩いているのかとウォーキングマシンの周りをグルグル回っていると、福ちゃんはすでに入口のところまで出てきていました。もう準備運動は終わったようです。馬装をするために、一旦、馬房に戻ります。撮影スタートです。

福ちゃんを担当してくれている八木さんは馬装をしながらも、僕の質問にも快く応じてくれました。先月、僕が様子を見に来た後、いちどエクワインヴィレッジの方に戻して、最近、こちらに帰ってきたので、今日は復帰1本目の坂路とのこと。特に牝馬は、きつい調教が始まると反抗的になったりなどの気の悪さを出すことが多いので、調教をやっては放牧に出して気持ちを休めることを繰り返す必要があります。牡馬であれば、無理強いをしても頑張る馬が多いのですが、牝馬は一度へそを曲げてしまうと二度と頑張ってくれなくなるので細心の気遣いが必要ですと八木さんは言います。

ゴーグルをかけた八木さんが福ちゃんの背中に跨るや、すぐに出発です。広い運動場で円運動をして、ゲート入りの練習をしてから坂路という流れは変わりません。ただ今回は、坂路のいちばん先(奥)から動画を撮ることになりました。松田さんに自動車で1km先の頂上まで連れていってもらう時間を考えると、今すぐ車に乗らなければならなくなりました。ゲートが通れるようになっているか見たかったのですが、仕方ありません。そうこうしていると、理恵さんの姿が見えました。僕たちとはぐれてしまったようです。巡り会ったが幸いということで、準備運動とゲート練習の撮影は理恵さんにお願いすることにしました。僕と松田さんは急いで坂路の頂上に向かいます。

坂路の頂上には3、4人ぐらい入れそうな掘っ立て小屋がありました。ガラス張りになっているので、この中から坂路を上がってくる馬たちを観ることができます。眼下1km先のスタート地点は肉眼では識別が難しく、馬がいるのかどうか分かりません。坂路の途中にカラスが一羽歩いているのは何とか分かります。松田さんがトランシーバーでやり取りをし、そろそろ準備ができて、こちらに向かって走ってくるとのこと。

耳を澄ませると、馬の蹄がウッドチップを踏みしめる力強い音が少しずつ大きくなって、点のような姿が豆粒ほどに大きくなってきているような気がします。と同時に、カラスはまだ坂路を右に左に行ったり来たりしていて、福ちゃんたちがカラスに驚かないのかと心配になります。猛スピードで駆け上がってくる途中に黒いカラスを見つけて急に止まったり、左右に逃げたりすると危険です。

そうこうしているうちにも、福ちゃんたちの姿は大きくなってきて、僕の目でもはっきりと識別できるぐらいになりました。八木さんのジャンパーの色を覚えていたので、先頭グループの左側が福ちゃんであると分かりました。その瞬間、カラスは自ら飛び立ち、坂路の横の壁に止まりました。ギリギリセーフ。

あっという間に駆け上がってきた福ちゃんは、円を描くように僕の目の前を通りすぎて、そのまま坂路の左側にある歩道を降りていきました。一瞬のできごとでしたが、僕の目には立派に先頭を走ってきた福ちゃんの姿が焼き付けられました。

坂路の出口まで戻り、下で撮影してくれていた理恵さんと落ち合います。「ゲートの練習もするんだね。でも福ちゃんは練習せずに、1頭だけスルーして、えっ?て思ったけど笑」と理恵さんが報告をしてくれます。僕は心の中で、1か月経ってもまだダメかあと思いつつ、「まだYouTubeに上げていないのですが、実は先月も(ゲートに)入らなかったのですよ」と答えました。

追い打ちをかけるように、理恵さんは「坂路の入口のところでも駄々こねて、ソッパ(急激に後退すること)したりするので、手綱を引かれて強制的にスタートさせられてた笑。映像撮って良いか分からなかったから撮らなかったんだけど」と一部始終を事細かに教えてくれます。僕の目には順調に坂路を駆け上がってきたように映っていましたが、下ではそのようなことが起こっていたのですね。

本場に戻ってきて1本目の坂路入りだけに、嫌がる福ちゃんの気持ちも良く分かります。一方、福ちゃんのために他の馬たちを待たせるわけにもいきません(他の馬たちも嫌気が出てきてしまう)ので、福ちゃんが納得する前に無理矢理にスタートさせてしまうのも仕方ありません。それでも走り出したら、ちゃんと走っている福ちゃんは偉いと思います。走る能力は(おそらく)あるので、あとはNO.9ホーストレーニングメソドの木村さん曰く「自分との闘い」なのだと思います。

姉妹をこうして育ててみて分かってきたのは、この血統が花開くのに時間がかかるのは、肉体面ではなく精神面の成長を待たなければならないということ。母ダートムーアが3歳夏にグッと成長したのは、気持ちの面で競走馬としての環境に慣れて、納得して、理解し始めたからなのではないでしょうか。それゆえイライラ・ソワソワすることが少なくなり、精神的に安定してきたからこそ、食べた飼い葉が実になり、もともと秘めていた競走能力を発揮できるようになったのです。同じことはルリモハリモにもドコフクカゼにも当てはまるような気がします。2歳の早い時期から走り始めるのは理想的ですが、彼女たちが自分との闘いに打ち克ち、本来の資質を開花させるまで待ってあげる必要があるのです。

それからもうひとつ、福ちゃんにもこの牝系特有のプライドの高さがあります。エクワインレーシングのレポートやスタッフさんたちのコメントからは、まだ福ちゃんのプライドの存在には気づかれていないと感じますが、人間に無理矢理やらされると反抗する面があるということです。NO.9ホーストレーニングメソドの木村さんは「良血馬はプライドが高い」とおっしゃっていましたし、所蛍騎手も「納得しないと動かない面がある」と理解してくれていました。

福ちゃんが新しい環境やできごとに対して不安を抱いたり、緊張してしまったりするのは、そういう性格や気性ということもありますが、それと同時にプライドの高さが人間とぶつかってしまうとき、納得するまでほんの少し待ってあげることができなかったり、逆に福ちゃんのプライドに人間が負けてしまったりするからではないでしょうか。

このあと一口馬主DBの取材として、代表の瀬瀬さんにインタビュー取材をさせてもらうことになっていました。低酸素トレーニングや乳酸値、遺伝子検査、屈腱炎治療の現在についてなど、瀬瀬さんに聞きたいことがたくさんありましたし、それを読者の皆さまと共有する良い機会だと思ったからです。

本題に入る前に個人的に福ちゃんについてひとつ尋ねました。

「右回りと左回りで悩んでいまして、多くの人たちはラチが見えないと怖いだろうから、左回りではなく右回りの方が良いのではと言いますが、僕はラチよりも外から急に馬に来られることの方が驚くのではないかと思いますが、瀬瀬さんはどう考えますか?」

「僕はあまり可愛がらない方が良いと思っています。福ちゃんは途中で失明したわけではなく、元から片目しか見えないのだから、それが当たり前として生きてきたわけです。変なたとえになってしまうかもしれませんが、手が3本ある人が2本しかない人に対して不便で困りますよね? と聞くようなものです。僕たちは手が2本しかなくて生きていけているわけなので、福ちゃんは片目だけでも150度ぐらいは見えているわけですから、あまり気にしなくて良いのではないでしょうか。気にする方がかえって彼女の活躍の場を狭めると思います」と瀬瀬さんから返ってきました。

僕もほとんど同じ考えなのですが、父親として少しでも良い条件や環境を選んであげようという思いがあったのに対し、瀬瀬さんは一歩引いた観点からアドバイスをしてくれました。たしかに左回りしかダメだとこっちが勝手に思い込んで、右回りの競馬場に行かなかったりすることで、福ちゃんの可能性を半分にしてしまう発想の方がもったいないということですね。

瀬瀬さんのインタビュー取材も無事に終わり、年末の挨拶をして、いつもどおりのルートで鵡川のラーメン屋「寶龍」に行き、五目味噌ラーメンの大盛りを食べました。外が寒ければ寒いほど「寶龍」のラーメンは美味しいという僕の理論は今日も正しいことが証明されました。ラーメンを食べて心も身体も温まり、現在の小さな心配と未来の大きな期待を胸に、僕たちは帰途に就いたのでした。

(次回に続く→)

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