[連載・片目のサラブレッド福ちゃんのPERFECT DAYS]サマーセール2024後記(シーズン1-38)

セリ開始から5時間が経ち、ようやく600番台がアナウンスされ始めました。そろそろ出陣ということで、僕たちの間にピリッとした緊張感が漂い始めたそのとき、来訪者が現れました。半袖に短パンの彼は、スパツィアーレの23を見せてほしいとやってきたのです。見てもらうのはありがたい反面、ずいぶん直前に来て、まさか冷やかしじゃないよなと思いつつ、平静を装って慈さんと弟の暁(あき)さんは馬を披露してくれました。彼もひとしきりスパツィアーレの23を見て、帰っていきました。

僕たちは出発しました。屋外のパレードリンクを歩き、屋内のパレードリンクに移動し、刻々とスパツィアーレの23の616番が迫ってきます。あれだけ早く出番が来てほしいと願っていたのに、順番が近づいてくると、このまま結果が出ないでもらいたいような気持ちにもなるから不思議です。

屋内のパレードリンクからセリ場までの間の通路には、1頭ずつ馬が並んで、順番待ちをします。スパツィアーレの23はこのあと何が起こるのか分からず、緊張しているのか、大きな声で嘶いています。そんな姿を見ながら、スパくん頑張れと思いながらも不安に襲われる自分もいます。僕も同じように嘶きたいぐらいです。

そんな僕の気持ちを察してか、前野牧場の真ちゃんが「治郎丸さん、大丈夫ですよ。これで主取りになるようであれば、本当に持っていないか、もしくは何もないってことですよ」と彼なりの言い方で励ましてくれます。どこかの牧場の人たちが「これは今日の1番馬ですよ。最高額に行くんじゃないですか」と慈さんに対して話しかけているのも聞こえてきます。たしかに、馬房に見に来る人々は皆、良い馬だと褒めてくれていました。「高くなりそうなので、(僕たちには買えないので)敵前逃亡します」と言っていたエージェントもいたそうです。測尺だけを見ても、サマーセールに出場した1200頭を超える馬たちの中でも、スパツィアーレの23ほど恵まれた馬格をしている馬は見当たりませんから、誰が見ても素晴らしい馬であることは間違いないのです。僕の期待は否が応でも高まります。

前の馬のセリが終わり、616番のスパツィアーレの23がアキさんに引かれてセリ場に入っていきました。それまで動画を撮影していた僕も慌てて、鑑定台の後ろに入っていきます。セレクションセールのときの記憶がフラッシュバックしてきます。原初体験というのは恐ろしいもので、ここに来ると、誰も手を挙げてくれないのではないかという恐怖が襲ってくるのです。おそらく最初に競り上がった体験をしていれば、良いイメージを持って臨めるはずですが、僕の場合は主取りなのです。

「よろしくお願いします」と声をかけて、モニターが複数台並んでいる狭いスペースにある椅子に座りました。その瞬間、「350万円で声がかかっていますが、取りますか?」と聞かれました。これが慈さんの言っていた、下から声がかかるというやつです。

事前に慈さんから、「セレクションセールはリザーブ価格を決めたら、そこからのスタートになりますが、サマーセールはリザーブ価格よりも下の金額から声がかかることが多いので、その金額を取るかどうか決めておいた方が慌てなくて済みますよ」と教えてもらっていました。

今回、スパツィアーレの23は500万円をリザーブ価格(下限)にしていました。公開展示における反応やその後の馬房への来客数等を鑑みて、自信がなくなった生産者が、もう少し下の価格でも良いと考えたら、購買者からの提案さえあればリザーブ価格よりも低くスタートできるというシステムです。もちろんリザーブ価格よりも下からスタートしても、その後、競り上がっていけば問題ないのですが、もしかするとそのひと声で落ちてしまう可能性もあります。

僕は悩んだ挙句、リザーブ価格よりも下は取らないと決めていました。たくさんの人たちがスパツィアーレの23を見に来てくれて、評判も良かったという手応えもありましたが、何と言っても、種付け料が350万円するルーラーシップ産駒の牡馬を500万円以下で売れるわけがないからです。スパツィアーレの23が生まれてから1歳の夏にセリに上場されるまでに、牧場への預託料もかかっていますので、種付け料を含めると経費だけで少なくとも500万円以上はかかっているのです。作るのに500万円かかった商品を500万円以下で売りに出す馬鹿はいません(笑)。それをやってしまうと全てが無駄になるし、サラブレッドの生産を事業として行う以上、商売が成り立ちません。

「取りません。リザーブの500からでお願いします」と僕は仲介人に伝えました。誰でも良いから手を挙げてくれと願いながら、僕はモニターを睨めつけました。するとどこかで声が上がり、誰かが500万円でビットしてくれたようです。情けない話ですが、これで主取りはなくなったと僕は胸を撫でおろしました。ここからは、どこまで値が上がるかです。間髪入れずというわけではありませんが、520万円の声が上がったようです。それに対して、540万円と声が上がり、僕は生まれて初めて自分の生産馬が競られている感覚を味わいました。このまま永遠に上がり続ければ良いのにという欲が出てきて、良い縁なんていう綺麗ごとは消え去り、自分という人間の本性が垣間見えた瞬間でもありました。神さまはそんなちんけな人間の欲望を察したのか、580万円を境に場は静寂を極めました。カンッ! と乾いた木のハンマーが鳴る音が響き、僕たちのサマーセールは終わりました。

安かったな、というのが本音でした。主取りになれなければ良いと思っていましたし、高すぎる値段で買われるよりも、良い人に買ってもらいたいと考えていたにもかかわらず、終わった直後の素直な気持ちは、「安かった」でした。あれだけ馬格があって、体全体を使ってしっかりと歩けるルーラーシップ産駒の牡馬が580万円。レポジトリでもどこも不安がなく、丈夫で健康そのものなのに…。あまりにも安くないですか。キセキやメールドグラース、ソウルラッシュなど、数多くの一流馬を誕生させ、種牡馬リーディングの当時6位につけている名種牡馬の子ですよ。繰り返しになりますが、こんなにも惚れ惚れする好馬体を誇る牡馬ですよ。

僕の頭の中に浮かんだありとあらゆる愚痴を片隅に押し込め、鑑定台の裏から出た僕は笑顔をつくって、お世話になった方々に「ありがとうございました」と挨拶をして握手を交わしていきました。周りの人たちも心のどこかで安かったと思い、僕のことを複雑な表情で迎えてくれているのが分かっていましたので、せめて僕だけでも笑顔にならないと空気が悪くなると思ったのです。

さすがに慈さんと顔を合わせたときは、互いに渋い顔をして言葉少なになってしまいました。ここまで仕上げてくださった慈さんの悔しい気持ちが痛いほど分かりますし、もしかすると僕よりも納得がいかなかったのは慈さんだったのかもしれません。いくつものなぜ? が僕たちの頭をよぎっては消えていきました。

いつまでもそんなことばかりは言っていられず、僕たちは購買してくださった馬主さんと会うために、記念撮影のスペースに向かいました。スパツィアーレの23を買ってくださったのは、熊本県の森本研太さんでした。顔に見覚えがあったのは、最後の最後の上場直前に見にきてくれたあの彼だったからです。「ありがとうございます」と言いながら名刺を渡すと、「まさか買えちゃうとは…、安く買ってしまってすいません」と言いながら、仲間たちも交えて興奮状態です。喜んでくださっている姿を見ると、僕も少し嬉しくなります。

「地方か中央か迷いますね」と言われたので、「中央が良いと思います」とつい僕は答えてしまいました。差し出がましいことを言ってしまったと反省しましたが、本心からの回答でした。中央が良いと言ったのは、地方よりも中央が良いという意味ではなく、ダートよりも芝の方がスパツィアーレの23の大きなフットワークをより生かせるという意味でした。

「ステラマドリッドの牝系は好きなんですよね。以前、奥山ファームさんに預けていたこの牝系の馬が火災で亡くなってしまって…」と森本さんはおっしゃいました。ご存じの方も多いはずですが、2024年2月に奥山ファームのひとつの繁殖厩舎から出火し、厩舎は全焼、18頭中17頭の繁殖牝馬が焼死してしまったという事故がありました。聞くところによると、スタッフが懸命に厩舎の外に救い出そうとしても、パニックになった馬たちは帰巣本能からなのか動こうとしなかったそうです。繁殖牝馬を亡くされた森本さんの気持ちは察するに余りありますが、何かの縁を感じて、スパツィアーレの23を大切にしてくれたら幸いです。

森本さんとは名刺交換をして、その場で別れ、僕たちは馬房へ戻りました。スパツィアーレの23には「お疲れさま。もう終わりだからね。牧場に帰ろう」と声をかけ、僕たちは帰り支度を始めました。その場にいた誰もが、もう少し、いやもっと高く売れると思っていたという共通認識があるため、馬が売れたにもかかわらず、素直には喜べず、微妙な空気が流れました。生産者にとって、馬を売ってはひと仕事を終えたということですが、いくらで売ったかも重要なのです。今回主取りにならなかったのは幸いで森本さんには感謝しかありませんが、思ったような値段で売れなかったという苦々しい経験をすることができました。

それでも、僕自身はとても貴重な体験ができました。生産者側に立ち、セリに参加できた初めての経験でした。生産者のひとりとして、馬房に張り付いて個別訪問を待った経験はかけがえのないものでした。今までは馬を馬房から出して見せてもらったことはあっても、声をかけてもらい、馬を馬房から出して見せたのは初めてでした。もちろん実際に手綱を引いたのは暁さんであり慈さんであったのですが、僕もチーム・スパツィアーレ23の一員として、生産者側でセリに参加できたのです。そして、こうした経験を経て、碧雲牧場の皆さまの馬に対する献身に触れ、碧雲牧場に馬を預かってもらって本当に幸せだと改めて思ったのでした。

スパツィアーレの23は馬運車に乗り、碧雲牧場に戻って行きました。僕は理恵さんの車に乗せてもらい、帰り道でイオンによってお寿司や簡単な惣菜を買って、牧場に戻って簡単なパーティーをしました。本来は僕が高級なお寿司を注文して、碧雲牧場の皆さまにご馳走する、盛大な祝勝会をするつもりでしたが、今回もまた慈さんにご馳走になってしまいました。しかもそれだけではなく、「今回の成功報酬はなしで良いですよ」と提案がありました。前述したように、コンサイナーはかかった費用だけではなく、成功報酬として売れた馬代金の1~10%を取るのが普通です。慈さんと僕の間では3%という話になっていましたが、「(売り手)希望額を下回ってしまった場合、成功報酬はいただかないということもありますから」と、コンサイニング費だけで良いですよと言ってくれました。

僕としては、こんなに慈さんが一生懸命に馬をつくってくれてありがたいのに、成功報酬さえ払えないなんて、さすがにそれは申し訳なさすぎる。「大した額ではないかもしれないけど、今度またお願いしにくくなるので、ぜひ成功報酬は取ってください」と僕は返しましたが、「僕もプライドを持ってやっているので、結果が出なかったときに成功報酬をいただくわけにはいきません」と言って慈さんは頑として譲りません。馬が高く売れないと(安く売れてしまうと)、生産者側の人たちは誰しもが泣くことになるのだと感じた瞬間でした。お金だけの問題ではなく、僕たちの過去も未来も、そして生産者としての矜持も打ち砕かれてしまうのです。

牧場に戻ると、慈さんのお母さんがひと言、「これからですよ」と声をかけてくれました。牧場を創業してからずっと、厳しい冬の時代を長く耐え続け、碧雲牧場を陰で支えてきたお母さまの笑顔がそこにありました。1年目の生産馬が思っていた価格で売れなかったぐらいで、下を向いているようでは笑われますね。理恵さんも「また一緒に頑張りましょう」と言ってくれましたし、大狩部牧場のシモジュウも「馬の資質はセリの結果で下がるものではないので、頑張って活躍してほしいですね」と励ましてくれました。彼ら彼女たちのひと言一言が胸に突き刺さりました。

(次回へ続く→)

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