[連載・片目のサラブレッド福ちゃんのPERFECT DAYS]悲喜こもごも(シーズン1-66)

二度見しても、やはりスパツィアーレは今朝8時に仔を産んだようです。予定日よりも10日ほど遅れ、いつお産が始まってもおかしくない状況だと言われていたので、もしかすると僕が碧雲牧場に滞在している2日間のどこかで立ち会えるかもしれないと内心期待していました。慈さんも「今度こそ、何度目かの正直になるといいですね」と言ってくれていたほど、奇跡の瞬間に立ち会える確率が高かったはずなのに、まさか僕が取材を終えて牧場に到着する直前に出産してしまったのです。

スパツィアーレは一昨年も、僕が出産シーンをこの目で見ようと、5日間ほど粘って滞在したにもかかわらず、僕が根負けして帰った翌日に産みました。今年は僕が牧場に到着する数時間前です。よほど僕に出産シーンを見られたくない、もしくは見せたくないのでしょう。一昨年は、僕のような部外者がいると安心して出産できないからだと思っていましたが、今年は僕が17時に来ることを彼女は知らないのに、朝8時に産んだということは、単に僕に立ち会ってもらいたくないのだと思います。それは半分冗談として、サラブレッドの出産はずっと現場にいる人たちにしか見られない貴重な瞬間だということでしょう。都合の良いときに来て、奇跡の瞬間に立ち会おうなんて虫が良すぎるのです。

取材は順調に終わりました。ホットロッドチャーリーは未知の魅力のある種牡馬という評価でした。印象的であったのは、あの徳武さんをもってしても、「産駒たちがどのようなタイプで、芝・ダートでどのような走りを見せるのか、はっきりとは分からない」とおっしゃっていたことです。ノーザンテーストやトニービン、サンデーサイレンスの時代から、数多くの種牡馬たちを扱ってきた徳武さんにとっても、種牡馬としてのホットロッドチャーリーの資質は計りかねるということです。「これから今日生まれたホットロッドチャーリーの仔を見に行ってきます!」と言って、徳武さんと別れました。

社台スタリオンステーションまで迎えに来てくれた理恵さんに、スパツィアーレの出産の話を聞きながら碧雲牧場まで向かいました。こちらに来る前は、ムー子の容態をずっと心配していましたが、今はスパツィアーレの25についての話題が中心です。スピード出産であったこと、母子ともに今のところ健康であること、性別はまだ教えてもらっていませんので、直接見てみるまでのお楽しみです。

実はスパツィアーレよりも前に生まれてくるはずだったチリ―シルバーの仔は、死産になってしまったとのこと。骨盤剝離になっていて、お腹から出てきたときにはすでに亡くなっていたそうです。昨年のノーザンファーム繁殖セールでお腹にクリソベリルの仔を宿した状態で買ってきて、しかも男の子だったようで、慈さんも残念がっているそうです。僕の馬ばかりに集中して不運が襲い掛かってくる気になっていましたが、そうでもないようです。

生産の現場では、悪いことが起こって嘆き悲しんでいると、無事に仔馬が産まれて喜びが訪れます。良いことの上に悪いこと、さらに悪いことの上に良いことが上書きされてゆき、悲喜こもごも、悲しんでばかりもいられませんし、喜んでばかりもいられません。それが現実です。

牧場に到着すると、慈さんやお母さまが待ってくれていました。スパツィアーレのお産が遅れたことで、慈さんとお母さまが交代で、この10日間、寝ずの当番をしてくれていたそうです。感謝しかありません。こうした誰の目にも見えない、生産者一人ひとりの地道な仕事のおかげで、1頭のサラブレッドがこの世に誕生し、ゆくゆくは競馬場で走ります。

お母さまがスパツィアーレの馬房が映るモニターを見せてくれました。このモノクロの画面を通して、四六時中、いつ来るか分からないお産を見守ってくれているのです。スパツィアーレとおよそ10時間前に生まれたとねっ子が映っています。とねっ子は馬房内を所狭しと動き回り、母のお乳を飲み、また走りを繰り返しています。モニター越しに、わずかな時間、その様子を見ただけで、とねっ子の快活さや敏捷さが伝わってきます。親バカで自画自賛もあるのだと思いますが、良い仔が産まれたという直感を得ました。

「行きますか」と慈さんに誘われて、夕食前にスパツィアーレの馬房に向かいました。厩舎の左から3番目の馬房の扉は開いており、尻尾を巻かれたスパツィアーレとそのすぐ横にスパツィアーレの25が立っていました。2週間前にダートムーアの25と対面したときは悲壮感で一杯でしたが、今回は対照的な雰囲気です。とても10時間前に生まれたとは思えないほど、しっかりとした骨量と馬体のサイズがあり、初めて見る僕に近寄ってくる目の表情や動きは健康的です。モニター越しに見た僕の直感は間違っていませんでした。母馬のお乳を飲む姿、寝っ転がる姿、そして馬房を歩き回る姿、どれを取っても良い馬のそれでした。

動画を撮りながら、あれが付いているかどうか観察してみました。何となく、小さいものが付いているような気がしましたが、気のせいかもしれません。あとで慈さんに教えてもらったのですが、生産者は性別を確認するときは尻尾を上げて後ろから見るとのこと。肛門の下に膣が見えた場合は牝馬、見えない場合は牡馬と判別します。一物が付いているかどうかをあらゆる角度から見るのは素人なのですね。

「それじゃあ見てみてください」と言って、慈さんがスパツィアーレの25の尻尾をめくって、僕の目の前に陰部を差し出してきました。普段から見慣れていない僕は、何となく気恥ずかしい気持ちもしながら、じっと見てみると、穴のようなものが見えました。「膣のような穴が見えるということは…、牝馬」と言わんとすると、「それは肛門の穴です」と慈さんからツッコミが入りました。「肛門の下に膣がありますか?」と聞かれたので、「ない…かな」と返すと、「そうです! ということは?」

「オスか!」

僕は初めてこの目でオスであることを確認しました。それは幸せな瞬間でした。健康であればオスでもメスでも良いと頭では考えていましたが、いざオスと分かるとやはりメスよりも2、3倍嬉しかったりします。それは当然のことでしょう。日本のサラブレッド市場において、牡馬の方が牝馬よりも高く売れて、売却率も高いのは事実です。ダートムーアの血を継ぐ2頭の牝馬が僕の手元に残り、ビッグダディ化しつつある今、より高い値段で嫁いでくれる可能性のある牡馬が生まれて嬉しくないはずがないのです。「スパさん、お疲れさま、ありがとう」とかけた声の「ありがとう」の中には、一昨年に続き、牡馬を産んでくれた感謝の気持ちも含まれていました。

父のホットロッドチャーリーが出ているのか、母スパツィアーレに似ているのか、正直分からないところはありますが、いずれにしても良い馬であることは確かです。僕もこれで当歳馬が誕生した翌日か当日に仔馬を見て3年目になりますので、過去の馬たちとの比較ができるようになりました。福ちゃんも牝馬としては立派な骨格でしたが、スパツィアーレの25は牡馬ということもあり、これまで見た中ではいちばん良いと感じました。

生産者は生まれた直後の姿や形を見て、産駒(配合や相性)の良し悪しを判断すると言いますが、その意味が少しずつ分かってきました。どの馬も生まれたときの形を原型として、そこから少しずつ大きくなっていきますから、やはり原型が大事なのです。原型が小さかったり、バランスが悪かったりすると、将来的にもそうであることが多いのではないでしょうか。

嬉しくて少しハイになりそうでしたが、いよいよ次はダートムーアの25の様子を見に行かなければなりません。怖いというか、目を覆いたくなるような不安に襲われそうになります。それでもここで帰るわけにはいきません。良いものだけ見て、臭い物に蓋をするわけにもいかないのです。

スパツィアーレの隣の隣の隣の馬房を覗いてみました。そこには寝藁を食んでいるダートムーアとそれを真似しているダートムーアの25の姿がありました。ダートムーアの25は10日前とは大きく違って、自分の意志で立っており、生気が蘇ってきたようです。まだ地に足がついていないような挙動を見せていますが、それでも立っているのが精いっぱいで、自分の力では寝ることさえできなかった頃とは別馬です。ここまで回復してくれたのは、碧雲牧場の皆さまのおかげであり、彼女の生命力ゆえ。やはり4月4日に生まれた女は強かった!

慈さんが馬房からムー子を出して、左目の具合を見せてくれました。依然として白濁してはいるものの、まぶたの傷は癒えつつあります。「動きもしっかりしてきましたし、あとは目が少しずつ良くなるように治療していきます」と言ってくれました。早くお母さんの元に帰りたいと怒ってみたりするちょっとした仕草に、気性の激しさが垣間見えました。それは父ダノンレジェンド譲りなのか、それとも彼女がこれまで通ってきた境遇の中で育まれてきたものなのか分かりませんが、それが競走馬としてはプラスに働き、それによって彼女が不幸せにならないことを祈ります。広い放牧地に出て運動をしていないので、まだヒョロッとして映りますが、10日前の痩せこけた馬体はそこにはありませんでした。まずはひと安心です。

本日の夕食は、理恵さん手作りの行者ニンニク入りの野菜炒め、エビチリ、そしてもつ煮鍋です。どれもがこってりしていてご飯が進みます。そういえば、行者ニンニク狩りの看板を見たという話を僕がすると、行者にんにくは崖に生えている野生のものが美味しいという話になり、さらに「志村けんさんは行者ニンニクが好きで、特に茎の部分が好きだった」とお母さまが教えてくれました。茎は美味しいけれど臭いもかなりのものらしく、お母さまが心配して「そんなに食べて(撮影など)大丈夫なのですか?」と聞いたことがあるらしく、志村さんは「だい・じょーぶ・だー」とは答えてくれなかったようですが(笑)、「大丈夫」とおっしゃっていたそうです。四半世紀ほど前の碧雲牧場の食卓にて、慈さんのお父さまと志村けんさんが、行者ニンニクをつまみにお酒を楽しそうに飲んでいるシーンが想像されました。

デザートには碧雲牧場のパティシエであるミヅキさんお手製の、マロンケーキが出てきました。牧場で取れた栗をミヅキさんのお母さまに送り、皮をむいてすり潰して送り返してもらったものを材料として作ってくれたそうです。馬の顔の形をしており、「Happy Birthday!」の文字が。スパツィアーレの25の誕生日を祝ってもらいました。今年から新入りのコーセーくんも美味しそうに食べています。彼はサッカーが好きで、三笘選手のファンだそうです。今どき珍しいほどシャイで朴訥な若者です。

女神のような美しさと優しさを併せ持つお母さま、太陽のような明るさと愛情深さを惜しみなく降り注ぐ理恵さん、パンダのような愛嬌ときめの細かさを抱くミヅキさん、そして慈愛に溢れる慈さんたちに囲まれ、少しでも早く碧雲牧場の仕事に慣れ、立派なホースマンになってもらいたいものです。

(次回へ続く→)

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