あの日の夢が、形を変えても。 - スマートオーディン・2019年阪急杯

馬は皆、いつだって、私たちが思う以上の大きな才能と可能性を秘めている。

彼らがレースで見せてくれるのはそのほんの一部だけ。彼らはその時できる目一杯の走りで命を燃やし、私たちが胸を焦がす闘いを繰り広げ、思いもよらない物語を見せてくれる。

──数多ある物語の中でも2歳から3歳にかけてのクラシック絵巻物が一層魅力的なのは、秘められた才能の向こう側に大きな期待と想いを託すことができるからかもしれない。

毎週のように現れる無数のヒーローたちから未来に大きな栄光を掴み取るであろう一頭を見出したとき、競馬ファンは大きな興奮を胸に抱く。

「俺はあの時から見抜いていたんだ!」といつか誰かに自慢できるよう、自らの慧眼を証明して欲しいと大きな夢をその1頭に託す。

けれど、順調にキャリアを重ね、託された夢を叶える馬は一握りである。彼らの才能はほんの些細な切っ掛けで簡単に摘まれる。

レース中の僅かな接触かもしれない。頑張りすぎて体調を崩したからかもしれない。狭いゲートへの恐怖心かもしれない。大観衆の熱狂的な歓声かもしれない。人と呼吸を合わせることへの苦手意識からかもしれない。ホルモンバランスの乱れかもしれない。ライバルに打ちのめされた経験かもしれない。
…そして、それは不可逆の大きな怪我かもしれない。

ほんの少し、四肢を伸ばすことに躊躇いを覚え始めたその瞬間から、レースで発揮できる才能はどうしたって損なわれてしまう。

良い経験を積み、結果を出しながら、才能をフルに発揮できる競走馬は幸運である。多くの馬は、時に何かをすり減らしながら、キャリアと経験を重ねていく。

かつて、その名血の価値やインパクトのある走りで大きな夢を集めた彼らが、4歳、5歳と馬齢を重ねる中でアンダーカードを駆ける立場となっていることも珍しくない。

多くの夢を託された舞台とはほんの少し違うかもしれないけれど、与えられた場所で輝きを取り戻そうと彼らは闘いを続けている。そんな彼らに「まだまだ、君はこんなもんじゃない。どうかもう一度…」と私は心の中でそっとエールを送ってしまう。

だからこそだろうか。
かつて多くのファンを魅了した走りを彼らが取り戻したとき、私はとびきりの快哉を叫ぶ。

私が偉いわけでもなんでもないけれど、再びスポットライトを浴びて祝福を受ける彼らの姿にどこか誇らしい気持ちを寄せる。

本稿の主役、スマートオーディンもそんな1頭。

かつて、父譲りの極上の能力を武器にクラシック戦線の一角で確かな存在感を放った彼は、丸2年におよぶ闘病を乗り越えて、再び輝きを取り戻した名馬だった。


2016年のクラシック戦線はハイレベルな戦いが繰り広げられていた。

デイリー杯2歳ステークスでシュウジを圧倒し世代の主役に躍り出たのはエアメサイアの仔・エアスピネル。
朝日杯でそのエアスピネルを僅かキャリア1戦で颯爽を交わし去ったシーザリオの仔・リオンディーズ。
後続を大きく突き放して繰り広げられた2歳王者決定戦に、ファンは母仔2代に亘るクラシックでの「血のドラマ」を夢見た。

その2頭を弥生賞で上回ったマカヒキは父ディープインパクトと同じ勝負服、同じ無敗での歩み。きさらぎ賞では見るからにスケールの大きな走りを見せ続ける超高額馬のサトノダイヤモンドが同じく無敗で名乗りを挙げ、空前のハイレベル世代は厚みを増していった。

スマートオーディンもまた、その一角として同期の華たちに先んじて、頭角を現していた。

スマートオーディンの父はダノンシャンティ。前半1000m56秒3の超ハイラップで進行した2010年のNHKマイルカップを唸るような手応えで突き抜け、1分31秒4の日本レコード(当時)を樹立した駿馬だった。

変則二冠を目指したダービー前日に故障を発症し、夢舞台は無念の断念。復帰後はついに満足いく状態では走れなかったけれど、ヴィクトワールピサやエイシンフラッシュ、ローズキングダムら英傑揃いの2010年クラシック世代においても、屈指のフィジカルを誇っていた。様々な「もしも」を妄想したくなる馬だった。

スマートオーディンは、断然人気に応えて9月のデビュー戦を楽勝し前途洋々の船出を果たす。断然人気の支持を集めた萩ステークスでは2着に惜敗したものの、ブラックスピネル、レインボーライン、ノーブルマーズ、プロフェットと、出走5頭全てがこの先重賞・G1戦線を賑わせることとなる純度の高いハイレベルな1戦で経験を積んだ。

そして3戦目。スマートオーディンはクラシックへの切符をめざし、出世レースの東京スポーツ杯2歳ステークスに駒を進めた。


2015年11月23日。この日、私は京都競馬場に臨場していた。連続開催の後半を迎えた秋の淀は、朝から空を覆う分厚くてどんよりした雲も相まって客足も疎ら。少しくたびれた空気感だったことを覚えている。コースを照明が照らすと、曇天とのコントラストで体感以上に秋の空気を感じる。

旧スタンドのゴール前、お気に入りの場所に腰を下ろして、コーヒー片手に眩しく輝くターフビジョンをぼんやり眺めていると、一頭の黒鹿毛が目に留まる。溌溂とした仕草と瞬時にトップスピードに到達しそうな柔らかい関節、弾む身のこなし。スマートオーディンはどの馬よりも才気に溢れた仕草で周回しているように見えた。

ファンファーレが響き、ゲートを開いた。初コンビの武豊騎手はスッと手綱を絞り、若さを見せて行きたがるパートナーを自然体で収める。逸る気持ちを我慢に変えたスマートオーディンの身体がギュッっと凝縮したように見える。

引き絞られた四肢がこの後どれくらい弾けるんだろう……

京都と同じような曇り空の東京競馬場だったが、ターフビジョンに映る景色は、このあとのワクワク感で彩りが増しているように感じた。

直線、武豊騎手はスマートオーディンを早々と大外に誘導する。一瞬内の馬に寄られるが、態勢を立て直してゴーサインを送る。瞬間、スマートオーディンが身体を沈み込ませる。

直後の数秒間、ターフビジョンは内の先頭争いをクローズアップする。逃げたキラージョーとオープン特別を制して駒を進めてきたマイネルラフレシアが叩き合っている。人気のロスカボスとアグレアーブルが背後から忍び寄るが前をとらえる脚はない。

私が「違う。そこじゃない。もっと外!」と願った次の瞬間、カメラは再び大きくアングルを広げる。

一瞬、私はスマートオーディンを見失う。そこにいるはず、と思った場所よりもっと前、スマートオーディンはもう先頭をとらえ切っていた。少しササる仕草を見せながらも軽々と先団各馬を呑み込んだ彼は、最後まで目一杯には見えない走りで、軽々と突き抜けた。

上がり3ハロンは破格の32秒9。並の2歳馬では持ちえない極上の末脚を、彼は遊びながら鼻歌まじりで叩き出していた。興奮で私の胸の鼓動は早まっている。非凡な才能の顕現に京都競馬場の観客席もざわめいている。府中を映すターフビジョンは一層眩しく輝きを増している。

ものすごい才能に出会った。
世代の主役を見つけた。

そんな高揚感が競馬場を包み込んでいた。


3歳初戦の共同通信杯では57キロと馬体増が堪えたのか意外な敗戦を喫したスマートオーディン。ここから陣営は、広々と走れる日本ダービーをターゲットに絞り、毎日杯から京都新聞杯へと歩を進める。

毎日杯では戸崎圭太騎手を背に上がり32秒7の末脚を繰り出してアーバンキッド以下に完勝。続く京都新聞杯では一気の距離延長に戸惑い行きたがる素振りを見せるが、最速の上がりでアグネスフォルテ以下を切り捨てて重賞3勝目を挙げた。

最高のステージで最高の走りを見せるべく末脚を磨く道程。夢舞台は目の前に迫っていた。

日本ダービー当日を迎えた。

1番人気に推されたのはサトノダイヤモンド、マカヒキ、リオンディーズらの3強対決を制した第4の男、ディーマジェスティ。蛯名正義騎手の悲願達成を願うファンは、ディーマジェスティに多くの夢をを託していた。

続くサトノダイヤモンド、マカヒキ、リオンディーズら3強も力量上位は明白。競馬巧者のエアスピネルも加わり、主役不在ではなく主役多数。近年稀にみる高いレベルで拮抗していた。

上記5頭に割って入りうる新勢力の一角として、スマートオーディンは5番人気の支持を集めた。世代トップの重賞3勝の実績、上位勢を凌駕しうる強力な決め手にファンはニューヒーロー誕生の夢を託した。父が立つことが出来なかった夢舞台のゲートに、スマートオーディンは収まった。

初夏の強い陽射しの下、大歓声に送られてダービーのゲートが開いた。

スマートオーディンと戸崎圭太騎手は、逸る気持ちをなんとか抑えながら、やや力みがちに中団外目のポジションを確保する。すぐ前にディーマジェスティ、更に前にはサトノダイヤモンドとマカヒキ、そして直後にはリオンディーズ。有力馬が互いに睨み合い、各人馬は仕掛けのタイミングを伺う。静かに張り詰めた戦いが続く。

4角。後続を離して逃げたマイネルハニーとの差を、番手のアグネスフォルテとプロフェットが詰める。プロディガルサンが先頭に並びかけようとしたさらに外から、過去3走惜敗に泣いていたエアスピネルと武豊騎手がライバル達に先んじてステッキを一発入れる。戦況は激変し、決戦の号砲がとどろいた。

直線入り口で主役を務めたのはエアスピネル。残り300mでプロディガルサンを捕えて先頭に躍り出ると、単騎で悲願のゴールをめざす。

外からサトノダイヤモンドが、間を割ってマカヒキが伸びる。その直後からディーマジェスティが蛯名騎手の渾身のアクションに応えて脚を伸ばす。馬群を縫ってリオンディーズも詰めてくる。

残り200m、トップギアに入れたスマートオーディンも身体を沈み込ませる。一頭、また一頭とパスして先頭を追いかける。大舞台のゴールが迫る。栄光を掴み取ろうと、四肢を目一杯伸ばす。

だが前との差は最後まで詰まらなかった。マカヒキ歓喜のゴールから遅れることコンマ5秒。世代最高峰をめざしたスマートオーディンの挑戦は6着に終わった。

ライバル達の壁は高かった。少し力んでしまった。後悔がないわけではない。それでも世代の頂点は決して届かない距離ではなかった。

捲土重来の機会はきっと来る。そう信じ、スマートオーディンは秋に向けての休養に入った。


走る馬にとって、その高い能力は時に諸刃の剣となる。

秋、毎日王冠から天皇賞・秋へと歩みを進めるはずだったスマートオーディンの脚元を屈腱炎が襲った。
スマートオーディンに託された多くの夢は虚空に消えていった。

日本ダービーで鎬を削ったライバル達は、ある者は海を渡り、ある者は次代にその血を紡ぐべくターフを去った。

レイデオロが、ワグネリアンが悲願を果たし、競馬界の話題は次の世代へと移り変わっていった。

全力疾走を許されず、天を仰ぎ、時が傷を癒すのを待ち続けたスマートオーディンの胸中は如何ばかりだっただろうか。

日本ダービー6着から経ること741日。スマートオーディンが再びターフに足を踏み入れたとき、前走から2年もの月日が経過していた。

慎重を期した調整を経て漸く辿り着いた復帰戦はエプソムカップ。

松田国英厩舎から池江泰寿厩舎へ転厩していた。かつての相棒・武豊騎手をパートナーに迎えての再出発。常識的には厳しい条件下でも6番人気の支持を集めたのは、かつて見た夢の大きさをファンが投影していたからに他ならない。

逸る気持ちを抑えきれずに気負いながらハナを奪った彼は、失った時を取り戻すような前進気勢溢れる走りを見せる。常識ならば早々に手ごたえを失っても不思議はないレース運びだったが、長い府中の直線の半ばまで先頭を守り、脚力の片鱗は示した。

中京記念15着、リゲルステークス9着。一度崩れた心身のバランスは中々戻らなかったけれど、本来の輝きを取り戻すためにスマートオーディンは挑み、陣営は腐心し続けた。

年齢をひとつ重ねた年明けの京都金杯では14番人気10着。この一戦で手綱を取った秋山真一郎騎手はソフトなタッチで折り合いに専念し、後半に力を温存することを丁寧に教え込んだ。出走馬中最速の上がり3Fをマーク。スマートオーディンの心と身体に、かつて研ぎ澄ませてきた競馬の形が戻りつつあった。

2019年2月24日、気が付けばあのクラシックから3年の月日が流れようとしていたこの日、スマートオーディンは阪神競馬場に姿を見せた。

舞台は阪急杯・芝1400m。道中を急いてしまうスマートオーディンにとって、序盤からペースが流れるこの距離は折り合いやすいかもしれない。陣営はスマートオーディンが再び輝けると信じ、初めての7ハロン戦に送り出した。

前年の阪神カップでワンツーを決めたダイアナヘイローとミスターメロディ、スプリント界の常連として長く活躍していた7歳の桜花賞馬レッツゴードンキ、重賞戦線で好走を続ける同期の雄ロジクライ、ロードクエスト。多士済々のライバルを前に、本来の走りを取り戻せないスマートオーディンに与えられたのは単勝11番人気の評価だった。

競馬ファンの寄せる期待はすっかり萎んでいたけれど、陣営も、スマートオーディンも、諦めてはいなかった。

ゲートが開くと、前走で灯された復活への微かな光を絶やさぬようにと藤岡佑介騎手はスッと最後方に控える。ガツンとハミを取ってしまっては末を失う。他の17頭の動きは関係ない。戦うべきは、乗り越えるべきは自分自身。

1ハロン短縮で僅かに速いペースの中で相棒を宥めると、皮一枚、スマートオーディンは折り合った。あの日の東スポ杯のように、逸る気持ちを我慢に変えて、ぎゅっとスマートオーディンの身体が凝縮したように見えた。

4角、開幕週の阪神内回りで楽をさせてはならぬと、逃げるダイアナヘイローにレッツゴードンキがプレッシャーをかける。踏み遅れまいとミスターメロディが、ロジクライが動きを見せる。勝負処とみた中団勢も一気に動きを見せ、5、6頭が大きく横に広がる。

その一番外で、ピンクの勝負服と黒鹿毛の馬体が、まるで獲物を捕まえる肉食獣の如く沈み込むのが見えた。

阪神内回りの直線350mの攻防。必死に後続をしのぐダイアナヘイローにレッツゴードンキが並びかける。間隙を縫ってロジクライが迫る。ミスターメロディは苦しい。変わってロードクエストが姿を見せる。息詰まる攻防。残り200m。

次の瞬間、最大級の風が吹く。

かつて私たちを魅了したオーディンのひと振りが、他馬とはまるで違うスピードで馬群を切り捨てていく。

これが極上の切れ味。

これが極上の末脚。

レースの一切を塗り潰して、余裕たっぷりに先頭に躍り出る。

レースの上がりを1秒2も上回る33秒4の末脚で、2着レッツゴードンキを1馬身突き放し、スマートオーディンは復活のゴールを駆け抜けた。

レース後、殊勲の藤岡佑介騎手は馬の能力を称え、池江泰寿調教師は復活に携わったスタッフへの感謝を述べていた。場内には大きな拍手が響いていた。

再び大きな舞台へ。

あの日見た夢の続きを。陣営もファンも思い出してた。

ファンが追い求めていた、ファンがずっと見たかった、スマートオーディンの末脚だった。

結局、これがスマートオーディンの最後の勝利となった。

阪急杯から経ること2年、11走。再び大きな故障に見舞われることはなく、最速の上がりを幾度となく繰り出しながら、彼はターフを沸かせ続け、競走生活を全うした。

彼が実際に掴むことができた夢は、2歳のあの日に見たものとは少し違った形だったかもしれない。空白の2年間で多くの物も失ったかもしれない。

それでも諦めなかった全ての人の想いに応え、スマートオーディンは最後まで懸命に駆け続けた。

2021年1月にターフを去ったスマートオーディンはイーストスタッドで種牡馬入りを果たした。

血統登録された2022年産の初年度産駒は全部で11頭。
彼の血を引く産駒は2024年、ターフに姿を見せる。

彼の飛び切りのフィジカルは、並み居るG1馬に引けを取るものでは決してなかった。それはきっと、次の世代に受け継がれていくはずである。

彼に見た夢の続きは次世代へ。
一頭でも多くの、彼の面影を残す2世と巡り合えることを祈りたい。

写真:taka.m

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