「もしも、あの時……」
自分の過去を振り返る時、「もしも、あの時にこうしていれば…」と考えるのは好きではない。それを考えても選び直せるわけではないし、自分の意志で選んだ今を否定するみたいで嫌だ。少なくともここまで過ごしてきたことがベストの選択であり、これから先も迷わず生きることが、「良い人生」になると思いたい。
しかし、競馬を振り返る時は全く別の話。「もしも、あの時…」の話題で盛り上がるのは、懐かしく楽しい時間である。更に、お酒が入れば時間を忘れて、会話は地の果てまでも続いていきそうだ。
「ルメールが内を突かず、外を回っていたら…」
「なんで武史は逃げなかったのか…」
重賞レースでも未勝利戦でもレースに関係なく、「もしも、あの時…」は盛り上がる。対象となるレースに立ち会ってさえいれば、色んな選択肢が登場して夢を馳せていく。「馬券を買っていた」や「一口出資している馬だった」などのフィルターがあれば更に議論は熱くなるのが面白い。しかし、「もしも、あの時…」をいくら語っても、歴史が変わることはない。競馬の楽しみ方のひとつとして、時を遡り懐かしんでいる。
自分が立ち会ってきた競馬史を紐解くと、胸が熱くなる「夢の対決シーン」がいくつも登場する。古くはメジロマックイーンvsトウカイテイオーの1992年天皇賞(春)。三冠馬2頭、ジェンティルドンナとオルフェーヴルが夕日に向かって一騎打ちを繰り広げた、2012年ジャパンカップ。そしてアーモンドアイが、コントレイルとデアリングタクトを従えてラストランを飾った2020年ジャパンカップなど、続々と思い出される。
そんな中で、今でも実現して欲しかったと思う「幻の夢の対決」がある。1994年、誰もが、年末の有馬記念で実現するであろう「世代№1兄弟馬による夢の対決」を心待ちにしていた。
兄は、5歳(現4歳)になって無敵の快進撃を続けたビワハヤヒデ。弟は、皐月賞、東京優駿を圧勝して三冠確実と言われていたナリタブライアン。夏を過ごして、各有力馬のローテーションが明らかになる頃から、「有馬記念での兄弟対決」の話題で盛り上がる。兄は天皇賞(秋)から有馬記念へ、弟は菊花賞で三冠達成後、暮れの大一番に進むものと思われていた。
歴史に刻まれた1994年の有馬記念は、弟ナリタブライアンがヒシアマゾンに3馬身の差をつけて優勝する。しかし、その出走馬の中に兄ビワハヤヒデの名は無かった。
毎年、天皇賞(秋)が近づく頃になると、1994年の秋を思い出す。90年代の芦毛伝説を代表する一頭だったビワハヤヒデ。充実の秋を迎え、完成の域に達した芦毛の馬体が、天皇賞(秋)で先頭ゴールした後、弟の三冠達成を見届けて兄弟対決に持ち込むというシナリオ。天皇賞のゴール後、ダートコースの1コーナーで、その夢は弾けて消えた。
「もしも、ビワハヤヒデが天皇賞(秋)のレース後も無事で、次のレースに備えることができていたら…」
「夢の兄弟馬対決」、「歳末の世代頂上決戦」、「弟相手に有馬記念リベンジ」…。
今でも想像するだけでワクワクするフレーズである。
古馬になり本格化したビワハヤヒデ
5歳(現4歳)になったビワハヤヒデは、無敵の強さで快進撃していた。
前年秋、菊花賞優勝から挑んだ有馬記念。1番人気に支持され、直線半ばまでは完璧なレース運びで、先頭に立つ。ところが、ゴール手前で不死鳥のごとく甦ったトウカイテイオーの末脚に屈し、主役の座から転げ落ちた。
トウカイテイオーに敗れたビワハヤヒデ。しかし、もう二度と負けまい──誰もがビワハヤヒデの強さを認め、古馬になり完成した時の凄さに期待した。
1994年の始動は2月。京都記念を選択したビワハヤヒデは、逃げるルーブルアクトを2番手追走。直線でルーブルアクトを捕まえると、7馬身突き放す。
始動戦を危なげなく勝ち上がり、2か月後の天皇賞(春)に登場したビワハヤヒデは更にパワーアップする。京都記念と同じく、先導するルーブルアクトの外に付けじっと我慢。直線で先頭に立つと、後方から猛追してくるナリタタイシンを待つ余裕でゴールに向かう。最後ダメ押しの突き放しで1馬身1/4の差をつけての優勝。2つ目のG1制覇となった。
1994年のビワハヤヒデの蹄跡で、3戦目となる宝塚記念がベストレースだったと私は思う。
6月12日、小雨の阪神競馬場。宝塚記念に登場したビワハヤヒデは、13頭を相手に単勝1.2倍の支持を受ける。2番人気は産經大阪杯(G2)、京阪杯(G3)連勝で挑んできたネーハイシーザー、3番人気は古豪ナイスネイチャが続く。昨年のリベンジ、再戦を望んだトウカイテイオーは、宝塚記念を目標に調整も間に合わず断念(8月に引退発表)。
ビワハヤヒデは、馬なりのまま4番手を追走し、ゆっくりと順位を上げていく。4コーナー手前で二冠牝馬のベガが先頭に立つのを見て仕掛けたビワハヤヒデは、直線は独壇場となった。結局、アイルトンシンボリに5馬身差をつけ、春のグランプリレースを制した。
夏を休養に充てたビワハヤヒデの秋は、オールカマーからスタートする。ここには、東京優駿でビワハヤヒデを倒したウイニングチケットが参戦し、一騎打ちムードとなった。
1番人気ビワハヤヒデの単勝が1.2倍に対し、ウイニングチケットが2.8倍。3番人気のトミシノポルンガが32.6倍という大差がつく。
単勝倍率通り、オールカマーは2頭のマッチレースで終始する。先導するロイスアンドロイスの後を、ビワハヤヒデとウイニングチケットがけん制し合いながら進む。岡部騎手と武豊騎手の名手同士の駆け引きはゴール前まで続き、結局1馬身3/4の差でビワハヤヒデが優勝。今年に入って無傷の重賞4連勝を飾るとともに、同期のライバル、ウイニングチケットとの勝負付けも終わった。
そして迎えた天皇賞(秋)、結果は…。
天皇賞(秋)が行われる1週前の府中競馬場。8月に現役引退を発表したトウカイテイオーの引退式が行われた。当日のメインレースはオープン特別(東京スポーツ杯)だったにも関わらず、前週(重賞の府中牝馬ステークスがメイン)より1万人上回る10万人超の観客が訪れたという。因みに当日のメインレースを勝ったのは、ミスターシービーの仔シャコーグレイド。トウカイテイオーが皐月賞を優勝した時の2着馬である。
トウカイテイオーが去り、名実とも現役古馬最強となったビワハヤヒデ。まず負けることが無いと思われた天皇賞(秋)をクリアすれば、いよいよ世代間決戦の有馬記念。快進撃を続ける弟、ナリタブライアンとの兄弟対決で、真実の「最強」称号を得るものと思われていた。
ビワハヤヒデには、熱烈なファンが多かった。いつも一緒に競馬を見ていた仲間たちの中にも、「ビワハヤヒデ“推し”」がいた。
派遣社員の千晴さんは、派遣先の職場で競馬を知り、ビワハヤヒデの菊花賞で生まれて初めて馬券を買った。「ビワハヤヒデって灰色で顔の大きな馬だ」と聞かされたことが可笑しくて、ビワハヤヒデを応援するようになった。初めて競馬場でビワハヤヒデと対面したのが有馬記念。目の前を先頭で通過するビワハヤヒデに絶叫したのも束の間。ゴール前でトウカイテイオーに差し切られる姿を見てしゃがみ込み、悔し涙を流したそうだ。因みに、当時の千晴さんのメールのハンドルネームは「BIWA」だった。
松田君は、自称「芦毛フェチ」である。80年代後半の善戦マン、芦毛のスダホークが初めて好きになった馬。「芦毛馬はG1に勝てない。だから僕は応援する」が信条だったにもかかわらず、タマモクロスの登場で早々に返上した。そして、芦毛黄金時代の到来。オグリキャップからメジロマックイーンにリレーされていく芦毛伝説。メジロマックイーンが天皇賞(秋)を前に無念の引退となった直後の菊花賞を制覇したのが、ビワハヤヒデだった。
オグリキャップもメジロマックイーンも勝てなかった天皇賞(秋)のタイトル。偉大なる先輩たちから芦毛伝説を引き継ぐビワハヤヒデには、何としてもタイトルを手にして欲しかった。
迎えた天皇賞(秋)当日。松田君や千晴さんと一緒に、ゴール板を過ぎた1コーナー寄りの芝生エリアに陣取ってスタートを待つ。
最大に買っても単勝は500円と決めている千晴さんは、ビワハヤヒデの単勝を5000円買って財布に忍ばせている。松田君はビワハヤヒデが2枠ということで、縁起を担ぎ、枠番カラーの黒ずくめで競馬場に登場した。私はビワハヤヒデが負けるわけないと、余裕でカメラを構えていた。ただ、昼休みにデータ好きの生田君が何気なく言った「ビワハヤヒデ不安説」が、レースが近づくにつれ頭の中に広がり始める。ビワハヤヒデは、左回りでは2回走りいずれも勝てずに2着。更に昨秋の菊花賞以降6戦は全て右回りの2200m以上で、速さも試される府中の2000mに対応できるかというもの。生田君によると、本格化した今のビワハヤヒデなら打ち破るだろうという前置きはあったが…。
そんな私の不安を吹き払うように、ビワハヤヒデは堂々の返し馬で、私たちの前を通り過ぎて行った。
ビワハヤヒデの今年の最大目標は、有馬記念での兄弟対決。昨年の雪辱を晴らすと同時に、世代間最強の称号を得て、年度代表馬となる事。たとえ天皇賞(秋)で敗れたとしても蹄跡に傷つくことは無い。ここをステップに、歳末の大一番に向かえば良いのだから。
大丈夫、大丈夫…。
ファンファーレが鳴り、第110回天皇賞(秋)のゲートが開いた。
世の中って、時には残酷な試練を与える。最悪さえ避ければ・・・と思っていれば、最悪を引いてしまう事がある。1コーナーの芝生エリアでビワハヤヒデの勝利と無事を祈り待っていた私たちへ、約5分後に残酷な結末が放たれる。
スタートと同時にビワハヤヒデが飛び出す。2番枠のためターフビジョンに白い馬体が映し出され歓声がわく。ネーハイシーザーが先頭を奪い、外からメルシーステージ。ビワハヤヒデは内から3番手をキープ。外からフジヤマケンザンがビワハヤヒデに並びかけ、ウイニングチケットとサクラチトセオーはビワハヤヒデのすぐ後ろにつく。
道中は順調そのもの。ビワハヤヒデのいつもの追走パターンで3コーナーを回っていく。
「よしよし」と頷くように松田君、「ビワ~ビワ~」と呟くように千晴さん。
先頭のメルシーステージが快調に4コーナーを回る。ターフビジョンに4コーナーから直線に向かう全頭の映像が映る。ビワハヤヒデはラチに近い内側で先頭を伺う。ビワハヤヒデの白い大きな顔がポジションを外に向け、追走体制は整った。
岡部騎手が手綱を持ち直し、白い馬体が弾けるシーンが見られるだろうと誰もが思っていた。「ビワハヤヒデが真ん中から抜けようという構え」の実況に力が入る。メルシーステージが坂の手前で失速し始め、内からネーハイシーザーが先頭に立つ。
異変が起こったのはここからだった。
坂を上って、伸びてくるはずのビワハヤヒデの姿が見えない。ネーハイシーザーを追う、内の馬群の勢いが勝っている。セキテイリュウオー、ロイスアンドロイスがネーハイシーザーに迫る。ウイニングチケット、マチカネタンホイザの姿も見えるが、ビワハヤヒデはその後ろでもがいている。
「おいおいおい…」松田君の悲壮な叫び。「どうしたの、ビワ!」千晴さんの悲鳴。
私は、ビワハヤヒデに合わせていたカメラのピントを、どこに向けるか迷った。
先頭でビワハヤヒデが通過するであろうと待っていた私たちの前を、無情にもネーハイシーザーが通過する。その後の一群の中にビワハヤヒデが居るはずも、私はカメラで追うことが出来なかった。
着順掲示板に、ビワハヤヒデの馬番2が一番下で点滅。2番が一番上に来るものと思っていたところには、ネーハイシーザーの10番が入る。ビワハヤヒデは生涯で初めて連対を逃す結果となった。
「2走ボケ? それともここは有馬への足慣らしだったのかな?」
楽観的な松田君の言葉を打ち消す衝撃が、数分後に目の前で展開する。
ダートコースを通り戻って来る各馬の中にビワハヤヒデも確認できる。岡部騎手がゆっくりと歩を進め、やがて立ち止まるとビワハヤヒデの背から降りた。
「どうして…?」千晴さんは、柵にしがみついてビワハヤヒデの動きを見守る。
1頭だけコースに取り残されたビワハヤヒデ。やがて馬運車が到着、ビワハヤヒデは促されるように馬運車に向かう。馬運車の入口で一瞬立ち止まると、こちらの方に顔を向け、それからゆっくりと馬運車に乗り込んで行った。
これが、競馬場で観るビワハヤヒデの最後の姿となってしまった。
ビワハヤヒデはレース中に左前脚屈腱炎を発症し、天皇賞(秋)から3日後の11月2日に引退が発表された。
「もしも、ビワハヤヒデが無事で、有馬記念でナリタブライアンとの兄弟対決が実現していれば…?」
酒の席でのこの議論は、永遠に語り続けることができると思っている。
Photo by I.Natsume