あら、いらっしゃい。
今日は早いわね。
……そうなの、早めに上がれるのはいいことよね。
どうぞどうぞ、ゆっくりしていってよ。
何にする?
グレンリベット、ストレートね。めずらしいじゃない、初めからモルトにするの。
……そうね、自分が好きなお酒を好きなように飲むのが、一番美味しい飲み方だと思うわ。
世にいろんなお酒はあるけれど、モルトの愉悦って、やっぱりたまらないと思うの。
その美しい琥珀色を眺めながら、香りを楽しんで。
少し口に含むと、その液体は炎のように力強く舌を焦がす──その、まるで意思を持ったような液体を飲み込むと、喉から食道……そして胃にかけて、熱いモルトの精が身体の中に下りていくようで。
そして、飲み込んでも鼻腔に残る余韻。
この余韻で、しばらく呼吸をすることが幸せだと感じるのは、まさに力強いモルトの愉悦よね。
この愉悦は、なかなか他のお酒では味わえないと思うの。
……はい、お待たせしました。チェイサーもどうぞ。
いい笑顔ね。そうなのよ、いいモルトを飲むと、皆そういうお顔をされるわ。
まさにお酒の愉悦の王道。
それじゃ、今日のおつまみに「競馬の王道」のようなレースの想い出を語らせてもらおうかしら。
そのレースは2008年の天皇賞・秋。
府中の芝2,000mで行われる、秋の中距離王者決定戦ね。
古馬のマイラーから中距離戦線の一流馬が揃う上に、最近は距離適性を考慮して長距離の菊花賞ではなくこちらに挑戦する3歳馬も増えてきているわよね。
例年厳しいレースになる天皇賞だけど、この年の主役、1番人気と2番人気はなんと同期の4歳牝馬だったの。
……そうそう、そうなのよ。
人間の世界ではオリンピックでも県大会でも男女で分かれてスポーツの競技をするのに、競馬ではオトコもオンナも一緒に走るのだから面白いわよね。それでも一般的に古馬の一線級が揃うG1のようなレースで、牝馬が勝つのは難しいと言われるわ。
まして、秋にはエリザベス女王杯のような牝馬限定のG1レースもあるのに、わざわざ天皇賞を選んで出走してくるという理由は、陣営に勝算があったからよね。
以前は、天皇賞のような一線級のレースを牝馬が勝つなんてことは、考えられなかった……。
けれども1997年、まさにこの天皇賞・秋の舞台で、名牝・エアグルーヴが17年ぶりに「牝馬として勝った」ことで、名牝の時代が幕を開けたの。
時代を反映しているのかわからないけれど、オンナが強くなったのか、オトコがだらしないのか……。
……え?オンナが強くなっただけだって?それは相対的なものだと思うわ。
草食系男子なんてのが増えれば、肉食系女子が増えるものだし……。
まあそれはともかく、そんな名牝の時代に、最高の舞台で女王と女帝が覇を争った稀代の名勝負が、2008年の天皇賞・秋だった。
この名勝負に続くように、その後もブエナビスタ、ジェンティルドンナ、アーモンドアイといった女傑が現れ、G1レースをにぎわせるようになっていったわ。
それはさておき、その2頭。
1頭は、ダイワスカーレット。
父は幻の三冠馬といわれたアグネスタキオン。母はスカーレットブーケ。
異父兄にG1・5勝を挙げたダイワメジャーのいる「スカーレット一族」の良血よ。
前年3歳時に桜花賞、秋華賞の2冠を制し、そして古馬牝馬との対決となったエリザベス女王杯も勝ってG1を3勝。
古馬の一線級との初めての対決となった暮れのグランプリ・有馬記念でも、マツリダゴッホの2着に食い込む快走を見せたわ。
3歳牝馬の有馬記念での連対は、1994年のヒシアマゾン以来となる13年ぶりの偉業で、長い有馬記念の歴史の中でも、実に4回目という快挙だったの。
そしてデビューからずっと、名手・安藤勝巳騎手が手綱を取ってきた馬でもあったわ。
年明けて古馬になって春の産経大阪杯を勝った後に、怪我を発症して休養に入っていたために、この天皇賞・秋は約半年ぶりの復帰戦となっていたわ。
その脚質は、テンの速さを活かして楽に先行して、長くいい脚を使って押し切る。
まさに「勝ちたかったら前に行け」という格言を地でいくような堅実な走り。
そうね、せっかくなのでモルトに例えるなら、シングルモルトの王道とも呼ばれる「ザ・マッカラン」あたりになるのかしら。
スペイサイドの美しい風景が育てた、名門中の名門の蒸留所で時間という芸術を重ねた逸品。
シェリー酒を3年間熟成させた樽を使うことで醸し出される、深い甘さとまろやかさ、そして華やかな香りは、まさにシングルモルトの王道。
……あら、じゃあ、おかわりはマッカランにしましょうかね。
……ええ、もちろんストレートで。
そして、もう一頭はウオッカ。
父はダービー馬・タニノギムレット。母はタニノシスター。
母系に並ぶトウショウボーイをはじめとする藤正牧場ゆかりの名前を見ると、うるっときちゃうわよね。
……うるさいわね、私だってセンチになるときもあるわ。いいから黙って聞いてなさいよ。
ダイワスカーレットとは同期だったけれどデビューはウオッカの方が早く、2歳女王決定戦のG1・阪神ジュベナイルフィリーズを勝って世代最初のG1馬に輝いたわ。
そして3歳になって、チューリップ賞でダイワスカーレットと初対決が実現したの。
その記念すべき初対決は、逃げるダイワスカーレットを、ウオッカが上がり3ハロン33秒5の強烈な末脚でゴール前クビ差で差し切ったレースだった。
その後ろの3着馬が6馬身も離れていたから、いかにこの2頭の力が抜けていたかがわかるわよね。
2回目の対戦となった桜花賞では、番手に控えたスカーレットを捉えきれず2着。
そのあと、ウオッカは牝馬限定のオークスに向かわず、なんと日本ダービーに出走したの。
ダービーでは強烈な末脚で並み居る17頭の牡馬を従えて戴冠、牝馬として64年ぶりのダービー馬となった……。
あのダービーは、オトコが不甲斐なかったかどうかよりも、彼女の繰り出した上り3ハロン33秒フラットの鬼脚、そして陣営のチャレンジ・スピリットを称えるべきだと思うわ。
その年の秋、3度目のスカーレットとの対決となった秋華賞では先行するスカーレットを捉えきれず、3着に惜敗。そして翌年、4歳の春に安田記念でダービー以来1年ぶりの美酒を味わったあと、秋の緒戦で武豊騎手を鞍上に迎えて毎日王冠を2着としてから、この天皇賞・秋に臨んだの。
生涯連を外さなかったダイワスカーレットと違って、ウオッカは負けるときはあっさりと惨敗した。
けれど、進路が空かなくて絶体絶命の窮地からディープスカイを差し切った2009年の安田記念もそうだし、東京コースやハイペースといった得意な条件が整ったときの爆発力はすさまじいものがあったわ。
そうね……ダイワスカーレットと同じようにモルトに例えるなら……。
アイラモルトの王と称され、強烈にクセのある薬品臭が特徴的な「ラフロイグ」あたりかしら。
「ラフロイグ」のどっしりしたボディなんか、ウオッカの雄大な馬体を想起させてくれそうだしね。
強烈なヨード香、ピートの香り、そして香ばしいナッツのようにオイリーな味わい。
後味にはバニラのような甘いモルトの香りがしっかりと追いかけてくる。
好き嫌いがハッキリ分かれるモルトだけれど、これにハマると他のモルトが物足りなく感じてしまうすごく厄介な逸品。
まさにウオッカの走りのようなモルトだと思うわ。
ウオッカのようなモルトって、聞いていて意味がわからないけどね。
……ええ、じゃあ次の一杯は「ラフロイグ」にしましょうかね。もちろんストレートで。
そんな銘酒のような名牝2頭の最後の直接対決となったのが、この2008年天皇賞・秋だったの。
出走メンバーには、強豪が揃っていた。
2頭の同期で菊花賞馬、アサクサキングス。
同年のダービー馬、ディープスカイ。
札幌記念を勝ってきたタスカータソルテ。
重賞連勝中のドリームジャーニー。
夏の新潟で本格化したオースミグラスワン。
素質馬サクラメガワンダー。
7歳の古豪、エアシェイディとカンパニー。
まさに多士済々の面々が揃って、古馬中距離の頂上決戦の幕が開いたわ。
1コーナーの奥ポケットからのスタート。
好スタートを切ったのは、やはりダイワスカーレット。
キングストレイルが競りかけようとするも、一完歩ごとに差を広げていく。
2馬身ほどリードを取って向こう正面に入っていき、安藤騎手が抑え気味に手綱を引いたわ。
速いペースを刻んで逃げる、ダイワスカーレット。
半年ぶりの競馬で掛かり気味なのか?というざわめきもあった……。
その後ろの先行集団、6番手あたりにディープスカイ。それをマークするように武騎手とウオッカが追走。
カンパニーやドリームジャーニーといった追い込み勢は、最後方から。
そのまま速い流れを引っ張ったまま、ダイワスカーレットは持ったまま直線に入ったわ。
ちょうど馬場の真ん中どころから、ディープスカイの四位騎手が追い出しにかかる。
その外に併せたウオッカと武騎手も、力強いストライドで先頭をうかがう。
残り400メートル。
まだ先頭のダイワスカーレットの安藤騎手は、最内から右後ろを振り返る。
ライバルたちの位置関係と、自らの手綱に残る手ごたえを天秤にかけているように見えたけれど、どうだったのかしら。
粘るダイワスカーレット。
追うディープスカイとウオッカ。
後方から、カンパニーとエアシェイディもいい脚で突っ込んでくる。東京の長い直線で、こうして後続馬に一気に来られると、逃げ馬は厳しい。
前半掛かり気味に飛ばしていたダイワスカーレットも、後続に飲み込まれるのではないかと思われた。
けれども、懸命に粘る、粘る、粘る、ダイワスカーレット。
カンパニーとエアシェイディを振り切って右のスペースが空いたところで、安藤騎手は右鞭から左鞭に持ち替え、必死にダイワスカーレットを鼓舞している。
残り200メートル。
ウオッカとディープスカイの脚色がいい。
内ラチ沿いで粘るダイワスカーレットをかわしにかかり、2頭は突き抜けそうに見えたわ。
これはウオッカで決まったか──多くのファンがそう思うような脚色だった。
ところが信じられないことに、内からダイワスカーレットがそこから差し返したの。
春の大阪杯以来の半年ぶりの競馬、しかも初めての東京コース、ハイペースの逃げ、長い直線、迫りくる2頭のダービー馬……それなのに、最も苦しい残り100メートル付近なのに、もう一度彼女は「伸びた」。
恐ろしい馬よね……。
けれど、ウオッカとディープスカイも負けていない。
武騎手と四位騎手が必死に手綱を押すのにあわせて、残り100メートルを切ってから一完歩、また一完歩と差を詰める。
ディープスカイよりも、ウオッカが前に出る。
死力を尽くしてその前をゆくダイワスカーレットを、捉えられるのか。
ウオッカか、ダイワスカーレットか。
ダイワスカーレットか、ウオッカか。
観る者の呼吸を奪うような、壮絶な追い比べ。
粘るダイワスカーレットと、追い込むウオッカのフィニッシュは、ほぼ同時だった。
内外が離れていて、どちらが優勢かわからないほど際どいゴールだった。
安藤騎手と武騎手、当代随一の名手たちをしても勝敗の判別がつかないようだった。
確かだったのは、勝ちタイムが1分57秒2というコースレコード、そして今のレースが間違いなく競馬史に残る名勝負だった、ということだけ。
ウイニングランのないまま、引き上げてくる2頭。
掲示板には、5着の欄にエアシェイディの3番が灯ったけれど、1着と2着、3着と4着が写真判定と表示される。
ここから、写真判定の結果がなかなか出なかったの。
その時間は、きっとこのレースを観ていた誰もが、名勝負の余韻を味わっていた延長戦のような時間だと思うのよ。
──そう、まるでそのモルトの入ったグラスを傾け、余韻を楽しむように、ね。
1分57秒2のフィニッシュから、さらに10分強。同着ではないかという思いが皆の頭をよぎり始めたころ、掲示板の1着の欄にウオッカの「14番」が点灯したわ。
ダイワスカーレット、負けてなお強しのハナ差2着。
クビ差の3着にディープスカイ、そこからまたハナ差の4着にカンパニー。
まさに史上に残る名勝負だった2008年の天皇賞・秋。
こういうレースをリアルタイムで観ると、名勝負が生まれた瞬間に立ち会える至福と幸運に感謝したくなるわよね。
波乱もアップセットもまた競馬の魅力だけれど、やっぱり強い馬が力を出し尽くした強い走りを観るのが、競馬の魅力の王道だと思うのよね。
そうそう、今日のモルトと同じように、ね。
……あら、それじゃ、お勘定にしましょうか。いいモルトの後は余韻が大切だものね。
ええ、こちらこそ、付き合ってくれてありがとう。
今年の天皇賞も、そんなモルトのような余韻を味わえる名勝負になるといいわね。
それじゃ、また。
写真:Hiroya Kaneko、Horse Memorys